お抱え料理人オルフェウス 第三話
また、翌日。
「フン。今朝も早いみたいだけど。味付けは?火加減は?大丈夫でしょうね…?」
今朝もオルフェウスはエレーヌの元へ、オムレツ付きの朝食を持って来た。
「あ、あの…」
「何よ」
「昨日の分は…いかがでしたでしょうか、味付けと火加減は…」
何か直す所があれば言って欲しいと。オルフェウスは純粋にそういう意味で聞いたのだが…次の瞬間、エレーヌはテーブルを激しく叩いた。
「は?私が何で昨日のオムレツの味なんて覚えてなくちゃならないの!?貴方何様のつもりなの!!」
「申し訳!ありません…!」
「もういいわ。出て行って!サリエル!今日も一時間よ、誰もこの扉に近づかないで!」
為す術もなく。オルフェウスとサリエルは伯爵令嬢の部屋から離れて行った。
それから数分後。
伯爵邸裏の庭師用の勝手口から、今日も岡持ちを手に、ナッシュが現れた。
ナッシュはいつものように裏手の塀際を、ブドウ畑の脇を駆け抜け、長屋通りへ入って行く。
「ハァ、ハァ、ハァ…」
ナッシュは全力で走る。こうして走るのは今日で七日目だった。
今日は昨日より少し暑い…もう五月だ。ちょっとした夏のような陽気になった。
ナッシュの上着は野暮ったく分厚く、帽子も少し大き過ぎる上に分厚い。これで走るのだからどうしても汗も出る。
長屋通りは普段より人出が多かった。今日は土曜日だ。
それは鍛冶屋通りも同じだ。ナッシュは少し用心して走った。一昨日、見習いの若い奴にぶつかりそうになって怒鳴られた。
同じ頃。戦勝記念通りを、四頭立ての立派な黒塗りの馬車が駆け抜けていた。
「邪魔だ!邪魔だ!」
何を急いでいるのか。二人の御者は馬を駆りながら盛んにベルを鳴らし、通行人を威嚇していた。
金融通りを、慎重に人を縫って駆け抜けるナッシュ。今日はいつもより少し時間がかかっていた。ここを抜ければ広い戦勝記念通りだ。
ナッシュの被っていた帽子がずれた。少し大き過ぎるのだ。前が見辛くなって少しよろけ、男は、帽子の唾に触れながら…戦勝記念通りへと飛び出した…
「危ない!!!!」
誰かが叫んだ。
御者の一人が気付き、激しくベルを鳴らした。
馬は自分が怪我をしたくないので、飛び出して来た男を必死に避けた。
御者達にはブレーキをかける気も進路を変える気も無い。
ナッシュは確かに無謀だった。むやみに往来に飛び出してはいけなかった。その体は馬との衝突は避けられたものの、引き綱にぶつかり、弾かれ、転倒した。間一髪、車輪で轢かれなかったのはある意味奇跡だった。
激しく揺れた馬車を20m程走り過ぎた所で一旦止め、馬車の中に居る主人に一声を掛け、御者達は倒れているナッシュの所へやって来た。
「このクソガキが!!」
御者の一人が、ブーツで倒れているナッシュの背中を蹴り飛ばす。
「危ねえだろうが!」
もう一人の御者も、革の鞭でナッシュの横っ面に一撃を加える。
ナッシュはどうにか半身を起こすと、そのまま御者達に土下座をする。
「申し訳ありません!申し訳ありません!」
「馬が怪我をしたら弁償出来んのかてめえ!」
「こっちは急いでんだバカヤロー!!」
御者の一人が、地面に転がっている岡持ちに気付いた。男は一度、それとナッシュを見比べた。たしかに、この男がさっき持っていた物のはずだ。
「フン!気をつけやがれ!!」
御者はそう叫ぶと、岡持ちを激しく蹴りつけた。岡持ちは道路脇へ飛んで行き、転がった。
岡持ちの蓋は外れ、中身の…卵料理のような物が、道路に落ちて潰れた。
御者達は本当に腹を立てており、もう少しナッシュをいたぶりたかったが、今は主人が急いでいる。それ以上の暴行はせず、馬車へと戻って行った。
野次馬の一人が呟いた。
「ありゃローゼンバーク男爵家の馬車だよな」
ナッシュはしばらく頭を下げ続けていたが、馬車が離れて行く音を聞いて…慌しく周囲を見回した。
彼は見た。オムレツが地面に落ち、潰れているのを。
ナッシュはオムレツの所まで這って行き、しばらくそのまま、それを見つめていたが…やがて。ぽたぽたと、涙を滴らせ出した。
通行人達は誰もナッシュに声を掛けなかった。誰もが見て見ぬふりをしていた。
そんな中、大柄で堂々とした、白衣姿の男がナッシュに近づいて行った。
「おい」
ナッシュは一瞬顔を上げた。
「シンドラーさん…!」
ナッシュは近づいて来たのがシンドラーである事を知ると、大慌てでその足にすがりついた。
「違うんです!俺の落ち度なんです!俺がこの道に飛び出して、料理を台無しにしてしまったんだ!」
「どきな」
「シンドラーさん!どうか、どうか御願いします!もう一度、もう一度チャンスを下さい!悪いのは俺だけなんです!どうか御願いします!」
ナッシュは見た目より甲高い声で、そう、シンドラーに泣いてすがりついた。
「どけって…」
シンドラーは今度は、ナッシュを乱暴に押しのけると、道路に落ちてひしゃげたオムレツの前に、どっかりと座り、ポケットからスプーンを一つ取り出した。
「シンドラーさん!そ、それは…」
ナッシュは慌ててシンドラーを止めようとしたが、シンドラーは構わず、落ちたオムレツをスプーンですくい、口に運んだ。
「…バターの使い方も完璧だ、火加減も加熱時間もいい。よく膨らんでいるし、素材の味わいも完璧に引き出されている。文句無しだよ、今日もな」
ナッシュは顔を上げた。鞭で打たれた跡は大きくなかったが、鼻血は出ていた。
「正直俺は料理の腕以上に、お前ほど骨のある男に、そこまで惚れ込まれているオルフェウスって奴の人間性に興味が湧いたけどな。なるべく早く連れて来い」
ナッシュは、涙と鼻水と鼻血でボロボロになった顔を、何度も下げる。その目元は鬱陶しい前髪に隠れ、口元は似合わない髭に隠れて見えないが。
「ありがとうございます!ありがとうございます!!」
何度もシンドラーに頭を下げて、割れた皿と、残りのオムレツを壊れた岡持ちに入れて、ナッシュはよろめきながら帰って行った。
エレーヌの部屋の前で、サリエルは懐中時計とにらめっこをしていた。
あと五分…サリエルがそう呟いた瞬間だった。
――ガタガタン!!ゴン!!…ズシーン!!!ガラガラガラ!!!
「きゃあああああああ!!!!」
部屋の中から大きな音と、エレーヌの悲鳴が聞こえた。
「お嬢様!?お嬢様!!申し訳ありません!!開けさせていただきます!!」
サリエルは緊急事態が起きたと判断し、エレーヌの言いつけを破りその扉をマスターキーで開いた。
入ってすぐの部屋は控えの間。その奥は次の間。その次に従者用の部屋があり、その先にお嬢様専用リビングが…エレーヌは居ない。
「お嬢様!どちらですかお嬢様!!」
「サリエル…ここよ…」
リビングの片隅の物置部屋の中から声がする。開きかけたその扉を見ると…中では重厚な本棚が倒れかかっていて、本やら雑貨やらが床に飛び散っている。
「お嬢様ーっ!?!?」
エレーヌは大量の本と雑貨の下から救出された。
あとでサリエルが恐る恐る尋ねてみると、何か本棚の上に乗せられていた雑貨を取りたかったと言うのである。だけど何を取ろうとしたのかは、横面に落ちて来たトロフィーのせいで忘れてしまったと。
伯爵令嬢は顔と背中に結構な怪我を負ってしまった。特に顔については大変心配され、町一番の名医が呼ばれ治療を受けた。この程度ならきゅうりを冷やして切った物をはりつけておけば大丈夫との事だった。
こんな事故の後では、お嬢様の機嫌はどうなってしまうか。皆がそれを心配したのだが、その日のお嬢様は案外大人しく、学校を休み、サリエルに時々きゅうりを取り替えてもらいながら、静かに本を読んで過ごしていた。