側仕えのサリエル 第一話
聖ヴァランティーヌ学院はカトラスブルグの名門校で、小学校を卒業した者が入れる学校だ。入学には学力検査があり、また私学校であるので学院に一定以上の寄付が出来る経済力も必要になる。
勿論伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートにはどちらも問題なく備わっている。伯爵家は古くからの荘園の他に、海運や炭鉱など複数の資産を持っているし、エレーヌ本人は聖ヴァランティーヌ学院初等部教授会の推薦を受けている。
九月は新学期だ。
来月の誕生日で十七歳になるエレーヌは五年生となる。この国の制度では学生の進級は学習の進度に応じて変わる。
聖ヴァランティーヌ学院の進級制度はなかなかに厳しく、六十人ばかりの一学年の中で落第を経験していないのはエレーヌを含め十二人だけだった。
伯爵令嬢は勿論、その事を大層鼻にかけていた。
今年は一学年下だった生徒が一人、飛び級で上がって来ると聞くまでは。
「さぞや頭のいい子なんでしょうねえ」
エレーヌはサリエルの前で、隠そうともせずに唇を歪めて笑った。
サリエルは伯爵家の奨学金により、聖ヴァランティーヌ学院に通わせてもらっていた。エレーヌより一歳年上のサリエルは一度落第してエレーヌと同学年にいる。学力には問題のないサリエルだったが、落第する時はエレーヌへの忖度と奨学金への遠慮の間でかなり揺れた。
「…性格もよい子だと宜しいですね…」
咄嗟にサリエルが口に出来た言葉はそれだけだった。嫌な予感がしない訳がない。
「含みがあるわねサリエル?貴女、私が頭脳明晰で容姿端麗だけど性格には少し難があるとでもおっしゃりたいの?」
「そのような事は申し上げておりませんわ…」
八月の間ずっと、エレーヌを探して国中の保養地や名所旧跡を不眠不休で巡り歩き、昨夜やっと屋敷に戻ったサリエルは、いまだ疲労のピークに居た。エレーヌは一週間も前に屋敷に戻っていた。
「それにしても、貴女がそんなに旅行好きとは知りませんでしたわ。」
「…好きで旅行をしていた訳ではありませんわ…」
「好きではないのに?それでしたら大人しくサンドリッツで乗馬や庭球でもなさってらっしゃれば宜しかったのに」
「お嬢様!…私、どれだけ心配申し上げたと思いますの!?まさかサンネロみたいな庶民派リゾートに居るなんて思いませんから!本当に、国中を探し回りましたのよ!?」
サリエルの思わぬ激高に、エレーヌは一瞬たじろぐ。激しい疲労のせいか、今日のサリエルは少し箍が緩んでいた。
そんな二人の様子を見て、くすくすと笑っている少女が居る。
勿論ここに居るのだから、聖ヴァランティーヌ学院の制服を着た学生だ。
胸のタイの色は五年生である事を示している。
亜麻色の髪を、ちょうどサリエルのようにボブヘアにして肩口で揃えている…身長はエレーヌやサリエルより15cmくらい低い。
まん丸の小さな黒縁眼鏡だけはどうかと思う。だけどそれ以外は完璧に見える、可憐な美少女だ。
「何よ、貴女…見掛けない子ね。転入生?」
エレーヌはそう言ったが、傍らのサリエルは気づいた…この子は去年の四年生でも、落第した五年生でもないし、転入生でもない…そもそもこの学校は転入する場合は四年生か一年生にされるのだ。
「ジョゼ・シャルダンと申します。今年度から御一緒させていただく事になりました。宜しく御願い致します」
ジョゼはそこまで言って…丁寧に頭を下げた。
「とても仲がお宜しいのですね…羨ましいですわ。私もいつか仲間に入れて下さいね」
サリエルは思った。まず、仲が良さそうと言われた事は少し嬉しい。それから…ジョゼはするりと懐に入って来れる子なのだなと。次に思うのはやはりエレーヌの事だ。お嬢様はこういう子に出会ったらどんな反応をするのだろう?それに、この子が飛び級の子だと気付いただろうか?
「エレーヌよ。お会い出来て嬉しいわ」
エレーヌは感情の無い声でそう答え、サリエルの方を見た。
「サリエルですわ。宜しくね、ジョゼ」
サリエルはとりあえず、無難な返事をしてお辞儀をする。今の所、お嬢様がこの子にどんな感想を抱いたかは解らない…どうも、あまりいい予感はしないのだけれど。
聖ヴァランティーヌ学院の授業は語学を中心に、様々な分野に及ぶ。
生徒には最低でも三ヶ国語の履修が義務づけられ、それぞれを優雅に扱えなければいけない。もちろんただ読み書きや会話が出来るだけでは駄目で、その国の古典文学や歴史、民俗への深い理解までも求められる。
数学や物理、化学の授業もある。医学は専攻になるが履修生も多い。
政治学や法学も希望すれば単位を取得する事が出来る。エレーヌはそれに加え地理学や考古学を履修している。
この学院には独自の事情があり、教育学、それに家政学や調理技術の専攻コースもある。エレーヌとサリエルがまさにそうだが、お嬢様とその付き人で通学している生徒が結構居るのだ。そのせいで家政学などは二つのクラスに分かれている。それは陰ではお嫁さんコースとメイドコースなどと呼ばれている。
サリエルは耳で数学の授業を聞きつつ、手でエレーヌの分の物理の宿題を書き上げて行く。エレーヌは真面目に授業を聞くふりをしながら、ノートに八頭身のうさぎとかめの絵を描いている。
ジョゼは同じクラスになったようだ。一クラス三十人で一学年二クラス。勿論クラスは学力で分けられている…エレーヌとサリエルとジョゼが居るクラスが英才クラス、もう一方が一般クラスだ。
飛び級で上がって来たばかりでは授業について行くのも大変だろう…サリエルは最初はそう思ったが…どの授業でも、ジョゼが答えられない問題など無かった。
授業の後。
「ごきげんよう、エレーヌ様」
「ごきげんよう」
クラスの生徒達の多くが、エレーヌに一声掛けてから下校して行く。今年の五年生英才クラスは三十人中、十八人が四年生英才クラスからエレーヌと一緒だった。残りは去年の五年生の落第組や一般クラスからの編入者だ…ジョゼという例外を除けば。
「あの新入り、居ないわね」
エレーヌがぼそりと呟くと。サリエルだけではなく、残っていた周囲の生徒数人も、ピクリと震えた…皆、心配はしていたのである。このプライドが高く気まぐれで獰猛な伯爵令嬢が、年下の天才少女にどんな反応を示すかを。
「専攻科があるのでしょうね」
サリエルが言い添える。
「専攻科?今日はまだ何かありましたかしら?」
「家政科の方はあと一時間ありますわ」
「…そう…サリエル、何故貴女は家政科を履修していませんの?」
何某かの流派を極めたサリエルには、もう習う事が無いからである。
「なるべく…お嬢様と一緒に帰りたいからですわ」
「私の父の奨学金で来てるのに?いい御身分ですこと!ホーッホッホッホ…まあいいわ、私も帰りましょう」
皆に聞こえるようにそう言って、エレーヌは鞄も持たずに教室を出て行く。勿論それはサリエルが持っている。自分の分と二つ。
残された生徒達はひそひそと噂話を交わす。少なくとも今日は無事に済んだ、相変わらずサリエルさんは可哀想、そして…エレーヌのジョゼへのいじめは、いつ始まるだろうと…




