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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
郵便配達夫のバスティアン

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郵便配達夫バスティアン 第三話

「お嬢様…あっ!またそんな物を持ち出して!いけません!」


 エレーヌのリビングに戻ったサリエルは、松葉杖をついた伯爵令嬢がまたスリングを持ち出して窓の外を眺めているのを見て、慌てて駆け寄る。


「何よサリエル。また手紙なの?」


 サリエルはそれには答えず、


「どうか子供みたいな悪戯はおやめ下さい、また野良犬でも撃ってらっしゃるんでしょう」


「退屈なんだから仕方ありませんわ」


 そう言ってエレーヌは、サリエルがエプロンのポケットに入れていた手紙に手を伸ばし、ひったくる。


「お嬢様!それは…!」


 さすがにサリエルはそれを取り返そうとしたが、伯爵令嬢に額を抑えられてしまった。


「お見せなさい。毎日毎日何よ貴女ばかり。私が最後に手紙を頂いたのは三週間前、それもグランドピアノの買い取り業者のコマーシャルでしたわ」


「お嬢様、どうかそればかりはお許し下さい!」


 サリエルは必死に食い下がるが、彼女の忠誠心では女主人から手紙をひったくり返す事が出来なかった。


「…」


「お嬢様…」


「…何よこれ?恋文じゃない。貴女毎日毎日こんな物を受け取っているの?私に内緒で?」


「…そうおっしゃられましても…私が書いているのではありませんわ…」


 サリエルは溜息をつき目を伏せる。

 エレーヌは松葉杖をついてソファーへ向かい、座る。


「そう…」


 その短い返事は、サリエルの背筋を凍りつかせた。特大級の嫌な予感がする。


「違うのです、お嬢様!」

「何がどう違うのよ」

「とにかく違うのです、私が望んでいただいている訳ではなくて…いえ違うのです、何かの間違いなのですわ、きっとこれはお嬢様に宛てて書かれているのです、だけど名前を勘違いしていて…」

「貴女、どれだけ私をいたぶれば気が済むの?」

「違います!違うのです!」

「そればかりじゃない。もういいわよ」

「違うのです、お嬢様、お待ち下さい、」

「もういいと言ってるでしょ。それより下へ行ってお菓子でも取って来て下さらないかしら?今日は甘いのは駄目よ。そういう気分ではありませんの」



 エドモンは庭木の手入れをしていた。この時期は枝も葉もどんどん伸びるので忙しい。そんな仕事の忙しさも、彼の気持ちを晴らすには不十分なものだった。


 よくある話だ。ちょっとした諍いから話がこじれ、二週間前、彼の妻は家を出て行ってしまった。三十年連れ添って初めての事だ。


 彼の住まいは伯爵屋敷の敷地内にある長屋で、食事は賄いで済ます事も出来る。子供達ももう独立して暮らしているし、日々の生活に不自由は無い。


 それでも胸の内に空いてしまった空洞は、他の何かでは埋めようもなかった。




 また日が暮れて、日が昇る。


 エレーヌの部屋の入り口に、札が掛かっていた。

 昼寝中。午後一時まで立入厳禁、との事である。



 バスティアンは今日も昼頃やって来た。

 今日のエドモンは門の前では待っていなかったが、屋敷の入り口のロータリーで庭木の手入れをしていたので、すぐに見つかった。

 しかし手紙を受け取りに来たのは、近くを掃除していたヘルダだった。


「…今日はエドモンさんにも手紙があるのに」


 バスティアンは小声で呟いた。だけどそれは葉書だったし、内容も何という事のない租税減免の通知のように見えた。


「期待している知らせでは無さそうね」


 ヘルダはそう囁きながら、そのエドモン宛の葉書と、サリエル宛の封書を受け取った。



 バスティアンは門を離れ、伯爵屋敷沿いの道を行く。今日の配達はあと十三件だ。

 いつもの木立が近づく…しかし、今日は何も飛んで来ない。


 前にもそういう日があったし、そんな事もあるだろう。バスティアンはそう思いながら小走りに駆けて行く。

 すると。


「…郵便屋さん…!」


 伯爵屋敷の塀の、庭師用の通用口から…誰かが手招きしている。嫌に大きな帽子を被り…この暑いのに大きな上着を着た髭面の男だ。


「…郵便屋さん、ちょっといいか?」


 男は見た目によらぬ少し高い声で、そう言った。


「何か御用ですか?」


「手紙を持って行ってくれないか、足が悪くてポストまで行くのが辛くてね」


 男は傷病兵が使うような粗末なステッキをつきながら、二通の封書を差し出した。


「ええ、いいですよ」


 勿論、バスティアンに断る理由は無かった。切手も貼ってあるし宛先も書いてある。これは通常の業務だ。


「助かるよ…それじゃあ」


 男は通用口の中へと去って行く。今日起きた事はそれだけだった。しかし。




「屋敷の裏で手紙を受け取った?…大きな帽子の男だと!?」


 翌日バスティアンがやはり門の前をウロウロしながら待っていたエドモンに、何気なく昨日託された手紙の話をすると、大変な反応が返って来た。


「そいつは髭も髪も黒い、身長170cmちょっとぐらいの奴だな!?そうなんだろう!?」


 近くで掃除をしていたヘルダも、祈るような仕草で口元を抑えていた。


「また出たの!?怪人が…今度は手紙を出していたですって…!?」


 今日はサリエルも近くで一緒に庭を掃除していた。エレーヌに部屋から追い出されてしまったのだ。


「あの…サリエルさんに今日も手紙が…」


 さすがに何かまずい事をしたのかと思ったバスティアンは、恐る恐る手紙を差し出したのだが…


「今も庭に居るかもしれねえぞ!探せみんな!」


 エドモンがそう叫んで走り出すと、サリエルもヘルダも一緒に走り去ってしまった。サリエルへの手紙はバスティアンの手に残された。


「ちょっと…どうするんですか!この手紙…」


 伯爵屋敷にはポストが無い。その代わり門前にはいつも誰か一人は居るので、郵便はいつも手渡しで渡していた。


 今日の配達は残り九件。どうという事の無い数だ。

 バスティアンは少し待ってやろうと思った。手紙を渡す為というより、伯爵家の門前に門番一人居ないというのは良くないと思ったからだ。

 まあ少し前までのバスティアンならそこまではしなかっただろう。

 だが…事によっては自分はここに違う用事で通うようになるかもしれないし、場合によってはここに住む事になる可能性だってある。


 バスティアンはそう思い、門番になったつもりで、そこに立ち尽くしていた。



「お嬢様!!」


 サリエルはエレーヌの部屋の方へ走って来ていた。そして入り口の扉を慌しくノックした。


「お嬢様!お嬢様!」


 サリエルはドアノブを回す。両開きの扉には鍵がかかっていた。

 そして彼女は動転していた。

 自分があの時、怪人を甘く見て、軽く叩きのめしただけで見逃したばかりに。

 怪人はまだ屋敷の周りをうろついていたのだ。

 それでエレーヌの身に何かあったら。自分は。自分は…


「お嬢様!鍵を開けさせていただきます!」


 サリエルは慌しく鍵を取り出し、エレーヌの部屋の入り口の扉を開いた。


「お嬢様!!」


 しかし、控えの間から次の間に向かう両開きの扉は、向こうで取っ手につっかえ棒でも入れているらしく、開かなかった。

 ミリーナの一件の時はその扉の前でただ泣くだけだったサリエルは。扉の前で構えをとり、乱れだ精神を集中し出した。


「ジルベルスタイン流メイド術…第十七奥義…」


 サリエルのぎりぎり肩に届かないボブヘアの黒髪が僅かに逆立つ。


「粉…骨…」


 空気が震動し、廊下の窓ガラスがピリピリと音を立てる。


「砕…身!!!!!!」



 それはただの体当たりだったが、扉をつっかえ棒ごと吹き飛ばすには十二分の威力を持っていた。

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