郵便配達夫バスティアン 第一話
オーギュスト・ストーンハート伯爵はカトラスブルグの屋敷には滅多に居なかった。伯爵は国王の腹心として、多くの時間を首都レアルの宮殿や庁舎で過ごし、夜は市内の超一流ホテルの一室で過ごす。
七月に入ると、国王は東の山岳地帯の麓にある別荘へ避暑に行く。この時期になると、伯爵はその国王の別荘と首都の間を何度も往復しなくてはならなくなる。
さて、伯爵令嬢はいつも父の前では淑やかな少女を演じていたので、伯爵が滅多に戻って来ないという事は、伯爵令嬢が淑やかな少女を演じる回数も少なくなるという事になる。
去年も七月は皆、令嬢の気まぐれや癇癪に随分悩まされた。
しかし今年の七月はそうはならなかった。伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは、二度目の足の怪我に遭ってからは、極めて大人しく過ごしていた。
「お嬢様が大人しいってのも、何だか張り合いが無え気もするなあ」
筆頭庭師のエドモンの呟きを、屋敷のベテランメイドのヘルダが聞き咎めた。
「貴方は庭師だからそんな事が言えるのだわ…オルフェウスの事もう忘れたの?」
「そうかもしれないけど…そういやあいつ広い家に引っ越したらしいな」
「…バルタザールさんの店に勤められたから良かったけれど。下手をしたら幼い弟や妹を連れて路頭に迷ってたかもしれないのよ」
二人は屋敷の前のロータリーに居た。エドモンはロータリーの中央の花壇の手入れをしていた。ヘルダはその周りを掃除している。
そこへ、郵便配達の少年がやって来た。
「郵便だよ!ディミトリさんと、サリエルさんに!」
「ようバスティアン、俺に手紙は無かったか?」
「エドモンさんには無いなあ」
そう言って少年、バスティアンは二通の手紙をヘルダに渡す。
「ありがとう。じゃあ渡して来るわね、これ」
ヘルダはそう言って箒をそのあたりの梢に立てかけ、屋敷の中へ入って行った。
「俺には無いか…待ってるんだけどな」
「そうは言われてもなあ。配達夫にはどうにも出来ないよ」
エドモンのぼやきを聞き、バスティアンは帽子を被りなおしながら首をひねる。
バスティアンは屋敷の門を出て、屋敷沿いの道を走って行く。今日はまだ二十件近く配達が残っている。
そのバスティアンの左頬に、何かが飛んで来て当たった。
「あたっ…!」
バスティアンは立ち止まる。地面に小石と紙切れが落ちている。
「どっから来たんだよ!」
バスティアンは眉間をしかめ、小石が飛んで来たと思われる方向を睨む…しかしそちらには伯爵屋敷しか無い。
伯爵屋敷から撃って来たのか?スリングか何かで。誰が?
とは言え…伯爵屋敷の庭は広い。建物の中から撃って来たとすると50mくらいある。そんな所から走ってる人間をスリングで狙って当てられるものだろうか。
バスティアンは紙切れを拾い上げる。
「…なんだこれ」
紙切れは実際にはごく小さな紙袋で、中に未使用の切手が二枚入っていた。
翌日。カトラスブルグには朝からずっと小雨が降り続いていた。
バスティアンが伯爵邸まで来ると、エドモンが門の周りの植え込みの手入れをしていた。
「郵便だよ。今日はサリエルさんだけ」
「俺のは無いか?なあ」
「無いよ。じゃあ、よろしく」
バスティアンはサリエル宛の手紙をエドモンに渡すと、また次の配達先へと走って行く。今日はあと十件で終わりだが、雨が降っているから早く配ってしまいたい。
そして、昨日小石を当てられた所まで来ると。
「…いてっ!」
まただ。今日は頭に当てられた。
「何だよ!だから!」
バスティアンは辺りを見回す。また紙切れと、ごく小さなガラス玉が落ちている。
紙切れにはどこかの住所が書かれている。一体何だと言うのか。
翌日は晴れて暑くなった。
今日のエドモンは屋敷の前の道の掃き掃除をしていて、バスティアンが来るとバスティアンより先に声を掛けて来た。
「なあ、俺に郵便は来てないか?」
「…無いよ、今日もサリエルさんだけ」
「…何でアイツには毎日手紙が来るんだ?」
「知らないよ…俺は配達してるだけだもん!」
バスティアンはエドモンに手紙を渡す。
「ところで、エドモンさん、このお屋敷、誰か悪戯っ子でも住んでるの?」
「悪戯っ子…?そんなのは居ないぞ」
「俺、昨日も一昨日も、屋敷の方から飛んで来た小石に当たったんだ」
バスティアンはあまりいい返事を期待していなかったが。
「何…?もう少し詳しく聞かせてくれ」
エドモンはその話に食いついて来た。ただ、エドモンはどのへんで当てられたか、何を当てられたかを聞くばかりで、そんな悪戯をする奴が居るかどうかについては教えてくれなかった。
だからバスティアンの方も、切手と宛先をぶつけられた事は伏せて話した。
それからバスティアンはまた伯爵屋敷沿いの道を走り出した。今日はあと八件で終わりだ。
バスティアンは道を走り…不意にピタリと止まった。すると、バスティアンの目の前を何か通過して行った。
バスティアンはすぐに伯爵屋敷に目を凝らす。
屋敷の二階の窓の辺りで、白いカーテンか何かが揺れたような気はするが、よく解らない…犯人の姿は見えなかった。
「へん。やってやったぜ」
バスティアンは勝ち誇りつつ、辺りを見回した。
今日は固い土の塊と短い文章を書いた紙が落ちていた。
『いつもあなたのことばかり考えています。あなたの声が聞きたいです』
「えっ…」
バスティアンは言葉を失った。
バスティアンが去った後で、エドモンはディミトリやヘルダと話していた。
「郵便配達の奴がそんな目に遭うんだと。俺はバスティアンが行ってからすぐ庭を探してみたんだが…誰も居なかった」
「怪人が…まだ居ると言うのかね…」
「最近は出なかったのに…」
「解らねえけど、怪人なら何をしてもおかしくないだろ?…また奴がどこか掃除したりしてねえか、屋敷中調べてみた方がいいんじゃねえか」
使用人達は実際に皆で手分けして屋敷中を調べてみたが、怪人の痕跡などは見つからなかった。
そのまた翌日は風の強い日で、午前中は雨が降っていたが、バスティアンが来る時間には晴れ間が覗いていた。
今日のエドモンはただ門前に立っていた。こんな風に待たれると郵便配達のバスティアンとしては意味もなく申し訳ない気持ちになってしまう。
「バスティアン!」
「今日もサリエルさんだけだよ、二通」
「二通共…?」「二通共サリエルさん宛てだよ!」
エドモンはそれを聞き、がっかりしているように見えた。
バスティアンは一瞬、白昼夢に囚われていた。そういえばそのサリエルを最近あまり見掛けていない。彼女はとても綺麗で清楚可憐な人だ。あの紙片がサリエルが自分に宛てた物だったらどうしよう?
「…渡しておくよ」
エドモンの声で我に帰ったバスティアンは二通の手紙を渡すと、また伯爵屋敷沿いの道を走ってゆく…狙いをつけ易いように、ゆっくりと。
しかし今日は、何も飛んで来なかった。




