便所掃除のミリーナ 第十五話
最終日には追加公演も組まれ、カトラスブルグ少女バレエ団の公演、『シュゼット』は大成功に終わった。
王立バレエ団を主宰するタンティエールはすぐさまオーギュスト・ストーンハート伯爵に掛け合い、バレエ団の費用でミリーナを首都レアルへ、そこから世界各地の名門バレエ学校へ留学させる事を提案した。
伯爵は留学には同意したが、費用は伯爵家が持つ事を主張し譲らなかった。
「十年、いや百年に一度の天才だよ、既にこれ程観客を虜に出来る表現力があるのに、技術的にはまだまだ伸びしろがたっぷりあるんだ、彼女を大きく育てられなければ我が国の舞台芸術は終わりだと言っていいくらいだ」
タンティエールは伯爵の前で、彼の最大級の賛辞を述べた。
一方。エレーヌはあれから部屋に篭りっきりだった。劇場の階段から落ちた時に、元は捻挫程度だった足の怪我がアップグレードしてしまい、今はギブスをつけてベッドに横たわっている。
そしてエレーヌが動けないという事は、サリエルも動けないという事である。
「足が痒いわ」
「御労しゅうございますお嬢様」
「今すぐこのギブスを外しなさい」
「それは無理ですわお嬢様」
「知ってるわよそんな事」
「申し訳ありませんお嬢様」
一日に二十回も同じやりとりをしていると、台詞も自動化されて来る。
「私達台詞の練習をしている喜劇役者ではなくてよ」
「何か本でもお読み致しましょうか?」
エレーヌはもぞもぞと寝返りを打ち、サリエルに背中を向けた。
「小豆餡入りブリオッシュの顔を持つ男」
「え…」
「小豆餡入りブリオッシュの顔を持つ男。あれを読んで」
「はい、只今…」
サリエルは立ち上がり、その幼児用の絵本を探しに行く。まだあっただろうか?
遠い昔、あれをお嬢様に読んで聞かせたのが、自分のエレーヌのメイドとしての初仕事だったような気がする。
そういえばあれも、お嬢様が熱を出して寝込んだ時だった。
本を探してリビングから納戸へ向かう途中。サリエルはふと、窓の外を見た。
ちょうど…迎えの馬車が来た所だった。
ミリーナは真新しい綺麗なブラウスに、お嬢様が十二歳くらいの頃に着ていた紺色のシルクのスカートを履いて…こちらを見上げていた。
サリエルは窓を開け、少し身を乗り出して笑顔で手を振った。
ミリーナも微笑み、丁寧なお辞儀をする。
別れの言葉は必要ない。ミリーナはここから居なくなる訳ではない。遠くない将来、彼女は王立バレエ団のエトワールになってまたここに帰って来てくれるだろう。
「…お嬢様…本当に人が悪いんだから」
サリエルは一つ溜息をついた。つい先日まで、自分も一緒になってミリーナに失礼な事をたくさん言ってしまったと思う。
だけどエレーヌは何も教えてくれなかったのだ。ミリーナがあんなに素晴らしいバレリーナになっていただなんて。
避暑旅行なんて嘘だ。お嬢様は最初からミリーナを主役にする為に謀を立てていたのだ…多分…
それならば何故、劇場であんな事を言っていたのか、それが解らない…
そこまで考えてようやくサリエルは、エレーヌを待たせていた事を思い出し、急いで納戸へ向かう。
ミリーナはまだ、サリエルが開け放った窓を見上げていた。
伯爵令嬢に挨拶出来なかった事だけが、彼女の気がかりだった。怪我が痛み、どうしても人に会いたくないというので、仕方が無いのだが。
エレーヌの姿を見る事が出来なかったミリーナは、瞳を閉じ、エレーヌとの日々を心に思い浮かべた。
「眠くなったの?ミリーナ」
「あっ…すみません、私ったら…あくびなんて」
「私も少し眠くなって来たわ。これ、私が貴女くらいの頃に着ていた寝巻き…これに着替えなさい」
「えっ…?」
「ベッドで読みましょ、私もその方が楽だから。貴女もそこで寝るといいわ」
「あの…私、便所掃除の下女ですから、お嬢様のベッドを汚してしまうのは…」
「そうなの?ちょっといらっしゃい…別に何も臭くないわよ?貴女」
「…そうですか?」
「ふふ、妹が出来たみたいで楽しいですわ。さ、着替えなさい」
「は、はいっ!」
ミリーナの口元が自然に緩む。
「お嬢様、私必ず、エトワールになって…ここに帰って来ます!」
ミリーナは口元を引き締め、そう呟き、軽やかに身を翻すと、馬車に乗り込んだ。
便所掃除のミリーナ編、終わり
(´:ω;`) バレエ?見た事もありません




