便所掃除のミリーナ 第十四話
舞台に現れた四羽のカラスが、七色に輝く艶やかな翼を自慢しあい、力強く羽ばたく。そこに現れたシュゼットは、カラス達のように羽ばたきたいと願い、懸命に翼を伸ばす。
しかしシュゼットの翼は短く、カラス達のように自由自在に飛ぶ事は出来ない。
自分はカラスにはなれないと気付くシュゼット。それでもシュゼットは懸命に翼を伸ばす事をやめない。シュゼットはカラスになりたかったのではない。カラスのように美しく羽ばたけるようになりたかったのだ。
「何で誰も笑わないのかしら」
「お嬢様、お静かに…」
カラス達は飛び去り、シュゼットは取り残される。
続いて現れるのはスズメ達。六羽のスズメが賑やかに鳴き交わす様をオーケストラが奏でる。弦が、木管が、軽やかなリズムで。
目まぐるしく入れ替わりながら、細やかに可愛らしく踊るスズメ達。
シュゼットはまた彼女達の間に加わろうとするが、リズムが合わず、はじき出されてしまう。
このあたりには少し滑稽な演出が加えられていた。シュゼットが自分の足につまずき、回転しながら音も無く転倒すると、客席からどっと笑い声が沸く。
「違うわよ!今笑ったら演出家の思うつぼじゃない!」
「お嬢様」
「何よ」
「…知っておられたのですか…?いえ…そうに…決まってますわ…」
サリエルはもう、ハンカチを噛み締め、涙を流していた。
スズメ達も飛び去ると、バックダンサーが入りシュゼットを遠巻きに囲む。
オーケストラが演奏をやめ、代わりにピアノの演奏が始まる。
その隠されていた妖精のような美貌ですら、ミリーナの最後の切り札ではなかった。この三日間、コンスタンを何度も過呼吸に追い込んだのは、ゼロだと思われていた彼女の教養と、物語への深い理解力だった。
彼女はいつのまにか『シュゼット』という物語の歴史、背景に精通していただけでなく、自分なりの確固たる解釈と、それを表現する力を持っていた。
シンプルに揃って踊るバックダンサーに囲まれ、舞台中央に立つシュゼット。満場の観衆は、小さな彼女の持つ存在感に圧倒されつつあった。
ミリーナの指先が、つま先が、観衆の視線を自在に操っていた。その繊細で大胆な動きが、見る者をシュゼットの物語の中へと引き込んで行く。
「…何よ…この空気…」
エレーヌは小さな声で呟く。
近くの客が、静かに、という風に、ひとつ咳払いをした。
「……何なのよこれ!」
エレーヌはさらに声を落としサリエルに急き掛ける。
「……お嬢様!お静かに!」
サリエルも囁き返す。
「……これは私の舞台ではなかったの!?何で私が居ないのに上演出来ますの!?おかしいでしょう!!」
「…どうか嘘だとおっしゃって下さい、お嬢様、こんな事、お嬢様が御存知ない訳がありませんわ…」
今度は少しだけ声が大きくなってしまったサリエルに対し、周囲から三つばかり咳払いが飛ぶ。
二人は一旦、黙り込んだ。
いまやミリーナのシュゼットは完全に観衆を虜にしていた。彼女の持つ圧倒的な表現力が、見る者をここではないどこかへ連れ去っていた。
何かになりたいと願う事で、自分の姿に気付き始めるシュゼット。
それは決して出来損ないの自分に絶望する事などではなく、優れた他者に嫉妬する事でもない。自分の姿をありのままに捉え、この世に生まれた喜びに震え、なりたい自分を求めるシュゼット。
やがて長い一人演技、ヴァリエーションを終え、ミリーナは一度舞台を離れる。
客席の方々から、観客が深呼吸をする音が響く。多くの者が、深く息をする事さえ出来ないまま、シュゼットを見つめていたのだ。
「…不愉快ですわ。何ですのこの茶番は」
エレーヌの声が少し大きくなった。
「…お嬢様…何故…何故そのような事をおっしゃるのですか…」
また周辺から、咳払いが響く。五つ、六つ…
「…結構ですわ!こんな所に居ては怪我に障りますもの!サリエル!帰りますわよ!」
「…そんな…お嬢様、どうかお待ち下さい」
舞台は次の幕に進む為、一旦無人となっていた。休憩時間では無いので立ち上がる者は居ない…松葉杖をついた伯爵令嬢と、それを仕方なく追うメイド以外には。
「こんな所には居られませんわ!早くいらっしゃい!本当にノロマなんだから!」
「お嬢様!お声が高うございます!お待ち下さい!」
その声は二階席の多くの観客に聞こえていたが、殆どの者は見て見ぬふりをしていた。幸い、一階席、特に桟敷席などに居るストーンハート伯爵やローゼンバーク男爵には聞こえなかったようである。しかし。
――ガラゴロガラドダダダン!!
「きゃぁぁぁぁああああ!!!!」
「お嬢様ぁぁああ!!」
この音は、伯爵にも男爵にも聞こえた。しかし二人は、それがまさか二階から一階へ降りる階段の途中で自分のスカートを踏んづけた伯爵令嬢が、松葉杖と共に転げ落ちる音だとは思わず、意見交換に夢中になっていた。
「エレーヌが出演出来なかったのは残念だったが…大変な掘り出し物じゃないか。しかしいずれの名家の息女であろうか。このように表現力豊かに演じるには、深い教養が無くては出来ないだろう」
まさか自分の屋敷の便所掃除の下女だとは思わない、オーギュスト・ストーンハート伯爵が呟いた。
「あのベルポルスカヤ卿がずっとハンカチを握り締めたままですよ…随分皮肉な方だったはずなのですが」
ローゼンバーク男爵も、彼らしい視点でこの舞台を評じた。
赤鬼の異名を取る、王立バレエ団の主宰者タンティエールは、舞台の前で次の幕の準備をする生徒達に何事か指示していたコンスタンを呼び止める。
「…コレット君…コレット君!こんなのは聞いてないぞ!君、何を企んでいたのだね!」
タンティエールは凄みのある笑みを浮かべてそう言った。
「…何の事かしら?タンティエール先生」
コンスタンは努めて澄まして、そう答えた。
「…勿論、この後で彼女を私に、王立バレエ団に紹介していただけるのだろうね?それとも彼女を旗印に王立バレエ団を乗っ取る気かね?」
「…ほほ、それも素敵なアイデアですわね。大丈夫ですわ。でも、あちらの伯爵のお許しをいただかないといけませんけど」
「…まだそんな事を。主役は練習不足の伯爵令嬢、今日演じるのはそのまた代役と聞いていたから、私は何の心の準備も出来なかったのだぞ…謀りおってからに全く…」
「…戯れではございませんわ。それに、驚くにはまだ早いかと思いますわ。ミリーナの演技はまだまだ、これからですのよ」
「…これ以上驚かせるつもりなのか…これは我輩は今日、生きては帰れぬかもしれぬな…」
タンティエールは何度も目元をハンカチで拭いながら、そう呟いた。