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便所掃除のミリーナ 第十三話

 コンスタン率いる地元少女バレエ団の公演は、盛大なカトラスブルグ芸術祭の先陣を任されていた。

 開会式には著名な芸術支援者であり大変な美女と名高いフランテーヌ侯爵夫人の挨拶があり、この時点で主会場たるカトラスブルグ劇場は超満員になる事が予想されている。その直後がカトラスブルグ少女バレエ団なのだ。

 これは勿論大変な名誉ではあるが、まずは地元の少女達の幼いが可愛らしい演技で無難に場を暖めてもらおう、というくらいの期待度とも言える。



 伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは、松葉杖と共に、劇場二階の最前列に居た。


「なんでこんな席しか無かったのかしら。ねえ?伯爵令嬢が秘密の恋人とデートに来てるのではなくてよ?」


「…お嬢様…お声高うございます…」


「どうしてこんなマスクを着けて観なくてはならないのかしらね?」


「…お許し下さいお嬢様…」



 サリエルやディミトリの奮闘も空しく、一階貴賓席、一階桟敷席、二階桟敷席、いずれにも、席を譲ってくれる客は見つからなかった。

 これだけの催し物なので、そもそもそういった券を確保しているのも各界の名士ばかりだった事もある。

 また近年は比較的平和な時代が続いており、産業の発展と共に形成された富裕層は、娯楽に飢えていたのだ。


 ストーンハート伯爵とローゼンバーク男爵が発起人となり、カトラスブルグ財界を巻き込んだこの催し物は、既に大成功を約束されていた。


 エレーヌ本人は知らなかったが、大変な美少女と評判の伯爵令嬢が地元バレエ団を率いて主役を演じるという話は、街の富裕層の間では大きな噂になっていた。


 今エレーヌとサリエルが座っているこの二階最前列の特別席を押さえるのも大変だったのだ。サリエルはエレーヌ目当てでこの席を押さえていた街の資産家の一人の名前を突き止め、密かにエレーヌが怪我で出演出来ない事をリークした。

 彼は自分が失意のうちに手放したペアチケットを購入したのが、まさかエレーヌ本人とその専属メイドだとは知らなかっただろう。


「見てサリエル!あの一階貴賓席の金のモノクル、亡命貴族のベルポルスカヤ卿よ。バレエ通らしいけどあの男の記事、批判しか見た事無いわ。あんな奴の前で主演なんて冗談じゃない。ホホホ、私日頃の行いがいいのね、こんな怪我するなんて」


「はあ…」


「あっちは…嫌だ、タンティエール先生ですわよ」


「タンティエール先生とおっしゃいますと…王立バレエ団主宰の…」


「赤鬼タンティエールですわ、コンスタン先生がお招きしたのかしら!ホーッホッホッホ!あんな人の前で無様な舞台を見せたら、どんな大惨事になるかしら?」


「…お嬢様お声が高うございます…でも何故…」


「きっと私のシュゼットをお見せしたくてお呼びしたのね。残念ねぇ、私、怪我で出られませんのよ、ホーッホッホッホ」


 エレーヌは羽根の扇で口元を隠し笑う。目元はマスクで隠しているので、こうすると全く顔だけでは誰だか解らない。

 ただ、周囲の観客のほとんどは、全員彼女がエレーヌ・エリーゼ・ストーンハート伯爵令嬢である事をよく知っていた。

 彼女の出で立ちや振る舞いは「ここに居るのが伯爵令嬢です」と書いた物が提げてあるようなものである。



 楽屋の小さな窓から、ミリーナは客席を覗いていた。

 コンスタンはちゃんと伯爵令嬢に関係者席を用意していたのだが、そこにエレーヌは現れなかったらしい。

 ミリーナは、もしかしてエレーヌは来れないのだろうかとも思った。だけどこうして客席を覗いてみると、確かにエレーヌは居るようだった。二階の最前列に。


 自分はずっと、お嬢様の事を誤解していた…ミリーナはそう思っていた。

 近くて遠い女主人。いつもサリエルさんを叱っている怖い人。自分なんかが話し掛けてはいけない人。そう思っていた。


 だけど…勇気を出して近づいてみたら。自分の為に勉強がしたいと御願いしてみたら。お嬢様は想像していたのとは全然違う人だった。毎晩のように私の為に本を読んでくれた。遅くまでシュゼットの事を話してくれた。

 あの時お嬢様は自分が演じるシュゼットの為に、と言っていたけれど。お嬢様は最初から私に演じさせるつもりだったんだ。

 何故お嬢様が自分を選んだのか、それは今は全く解らない。だけど自分は全身全霊をもってお嬢様の期待に応えなければならない。


 そしてミリーナは目を閉じ、あの夜出会った父の姿を思い浮かべる。


 ミリーナの目元に涙が、口元に微笑みが浮かぶ。

 自分にあんなに素敵なお父さんが居ただなんて、全く知らなかった。

 私の為にわざわざ天国から降りて来てくれたお父さん…お父さんは…今もこの客席のどこかからか、或いは空の上からか…自分を見てくれているのだろうか。



「サリエル!サリエル!照明が落ちますわよ!!どうしましょう、世紀の大悲劇、いや大喜劇の始まりですわ!みんな私をバカにするからこんな事になりますのよホーッホッホッホッホ!」


「お嬢様、お声が高うございます…それに皆様このバレエを見るのを楽しみにして来ているのです…」


 エレーヌの高笑いをたしなめるサリエル。とは言えサリエルの気持ちは複雑だった。逃げ出したい。お嬢様を連れて逃げ出したい。

 こんなの大観衆の前で、あんな大先生やら批評家が並ぶ前で。

 バレエ歴二ヶ月のメイドが主演を努める舞台が、開かれようとしていた。

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