便所掃除のミリーナ 第十二話
「シュゼットの公演は中止よ。主役である私が悲劇的な怪我をして出来なくなったんだから。当然じゃない」
平然と言い放つ伯爵令嬢の前で、コンスタンは青ざめていた。
「お嬢様…お嬢様のお気持ちは痛い程解ります、ですが…」
傍らのサリエルは、何とかコンスタンの力になろうとするのだが…
「痛い程!?痛い程って何よ!痛いのは私だけですわ!!」
「申し訳ありませんお嬢様!!私も只今自分の足首の骨を砕きます、どうかお許し下さい!!」
「やめなさい鬱陶しい!!あああッ!もうッ!」
サリエルは朝から泣き通しだった。公演を目の前にしてこんな怪我をなさるなんて…何故お嬢様がこんな目に遭わなくてはならないのか。
エレーヌへの忠誠しかない彼女の思考回路からは、昨夜の大立ち回りも、エレーヌが昨日まで出演を回避するつもりでいた事なども、忘れ去られていた。
そんな彼女でも、いくら何でも公演そのものを中止にするのは良くないと解っていた。そこまでしてはたくさんの生徒が泣く事になり(小事)、伯爵令嬢の評判に傷がつく(大事)。
けれども出演出来なくなってしまったお嬢様の無念も解る。一体どうすればいいのか。彼女の心中も複雑だった。
「ああ腹立たしい。世界など無くなってしまわないかしら」
「お嬢様…おいたわしゅうございます、ですがそこまでおっしゃっては」
エレーヌは傍らの松葉杖をいじりながら、コンスタンに尋ねる。
「それで?誰か代役を借りる手筈はつきましたのかしら」
ようやく前向きな言葉を聞けて、コンスタンは内心安堵する。
「はい…ルーデンバレエ団に、二年前にシュゼットを演じた方がいらっしゃいますので、御願いしようと思っております」
「ルーデン?有り得ないわ。八十年前にこの街と戦争をしていた街じゃない」
「ですが…」
エレーヌは羽根の扇を広げ、口元を隠した。
サリエルは不吉な予感を覚えた。最近、お嬢様がこの仕草を見せた時は、次に悪い事が起きているような気がする。
「代役は私が決めてあげる」
「…お嬢様?」
エレーヌは近くに控えていた、別のメイドに手招きをする。
戻って来たメイドが連れて来たのは、ミリーナだった。
サリエルは青ざめ、口元を手で覆う。
「お呼びですか、お嬢様!」
エレーヌは、松葉杖をついて立ち上がろうとする。
「あっ…!」
ミリーナはすぐにエレーヌに駆け寄り、手を貸す。サリエルより早く。
「ありがとう。ごめんなさい。大事な時にこんな事になって」
「お嬢様…」
ミリーナは涙ぐむ。
「…でも、ちょうど良かったかもしれない」
「えっ…?」
「ミリーナ。貴女は本当にこの二ヶ月で成長したわ…私の代わりにシュゼットを演じられるのは…私が、私の代役を任せられるのは…貴女しか居ないわ!」
「お嬢様!!」
叫んだのはサリエルだった。その見開かれた目からは、とめどなく涙が溢れている…まあ彼女は、朝からずっとそうしているのだが。
「どうかこれ以上の気まぐれはおやめ下さい!お嬢様!あんまりです!皆様が一生懸命頑張っている事なのです、それがお嬢様にお解りにならない筈がありません、何故ですかお嬢様!!」
「貴女はお黙りなさい」
泣きながらすがりつくサリエルに、エレーヌは冷たく言い放ち、その手を払いのける。
「ミリーナ、やってくださいますね?」
ミリーナは。真っ直ぐにエレーヌを見据えて、大きく頷いた。
「やります!私が必ず、シュゼットを成功させます!」
「宜しいですわ…コンスタン先生?如何かしら」
エレーヌもサリエルも、コンスタンに視線を向ける。
コンスタンは、険しい顔つきで…頷いた。
「解りました。本番まであと三日…最高のシュゼットに仕上げてみせますわ」
エレーヌは満足げに頷く。
サリエルは信じられなかった。何故こんな事になってしまったのか?コンスタン先生までもが、何故こんな事を承諾するのか?
お嬢様はこんな事をして何を得るというのか…どうすれば。どうすれば自分はお嬢様を守れるのか。
コンスタンとミリーナはさっそくレッスン場へと去る。
エレーヌのリビングには、彼女とサリエルだけが残った。
「ホ、ホ、ホ…聞きました?やります、ですってよ…無知程怖い物はございませんわねえ…ホーッホッホッホ…何が起こるかしら?どんな大惨事になるかしら?超満員のカトラスブルグ劇場、各界の紳士淑女、他国から招待された芸術関係者、都から来た皮肉な批評家達の前で…シュゼットを演じるのは…便所掃除の下級メイドのミリーナ!世紀の見世物よ、きっと今世紀最大の冗談になるわ、ホーッホッホッホッホ!…大変。私の席、無いんじゃないの?だって私出演するつもりだったんですから。サリエル!今すぐ行って、私の為に一番いい席を取ってらっしゃい!まさか貴女、私に天井桟敷で見ろなんて言うのではないでしょうね?サリエル?いつまで泣いているの鬱陶しい!さっさと行きなさい!本当にグズなんだから!!」