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便所掃除のミリーナ 第十一話 *

「…あの…どうしてもと…おっしゃるのですか…?」

「どうしてもよ」


 あれから数日。祭りまであと四日。あれからサリエルが知恵熱を出してずっと寝込んでいるので、伯爵令嬢の御用聞きには執事長のディミトリが、身の回りの世話には他のメイドが当たっていた。


 エレーヌはディミトリに避暑旅行の手配をさせていた。出発は三日後。

 そんな事をしたらコンスタン達が困る?ディミトリはサリエルと違い、そういう事をエレーヌに説いたりはしない。

 代わりに一緒に居たメイドの一人が言った。


「ですが…バレエは四日後。主役であるお嬢様が居なかったら、コンスタン様達のバレエが出来ないのではないでしょうか?」


「私が居なくても出来るから、私が稽古を休んでも心配して見に来たりしないのですわ。ミリーナが髪を切られたと聞いたら大慌てで飛んで来たくせに」


「お嬢様…」


「他のバレエ団からシュゼットが出来る人を借りたらいいだけなのよ。実際、コンスタン先生はそうするわ。バレエ団だけで四つも来るんだから、一人くらい居るわどうせ。ディミトリ。旅行の手配を忘れたフリをした上、私を叱らせる為に忙しいお父様を呼んだりしたら承知しないわよ?」


 図星を突かれたディミトリは僅かに動揺する。正直、そうするつもりだった。


「そのような事は致しません…」


「そうして頂きたいわね。それで…不審者は…捕まったのかしら?」


 ディミトリはさらに動揺する。不審者騒ぎの事は緘口令を引いており、エレーヌには秘密にしてあるつもりだった。


「では準備しておいていただけるかしら?避暑旅行を。ホーッホッホッホッホ!」


 勝利を確信したかのように、エレーヌは高笑いをする。



 その夜、深夜二時頃。


 紺色の厚手の上着を着て、大きな茶色い帽子を被った男は、今日はモップも雑巾も持たずに裏庭を歩いていた。


 男はこの所三日ばかり、こうしてあてどなく歩いている。

 例えば特に使用人の洗面所の辺りを。しかし最近は皆が綺麗に使うようになった上、日中に当番の者が二回掃除をしているそうなので、夜中にわざわざランプをつけて掃除をする必要が無くなってしまった。

 掃除の仕事だけでない。最近は夜中に出来る仕事が無い。屋敷の連中が、この男に勝手に仕事をされないよう、一生懸命仕事を消化しているからだ。


 それでもここに居る男は、誰かを探しているようだった。もしかしたら会えるかもしれない、約束していない誰かを。


「何を…お探しかしら?」


 少し離れた所から、女に声を掛けられ…男は立ち止まる。


 三日月の薄明かりに微かに照らされた裏庭に、もう一つの人影が浮かぶ。それは男が探していた人影ではなかった。


 髪の色は黒らしい。肩口で綺麗に切り揃えられたボブヘアに白いヘッドドレスを結び、初夏だというのに臙脂色のビロードで織られたフリルドレスをきっちりと着こなし、胸と腰には丁寧に結ばれたリボン、黒のタイツに磨き上げられた革靴…

 手にしているのは一見すると普通の樫の柄の箒に見えるが、実は鉄の芯が入っていて2kg近い重量のある鉄箒だ。


 暗がりの中でも、彼女の瞳は、まるで光を放っているかのように見えた。

 その姿はごく普通の者から見たら、そう…西洋諸国の裕福な貴族の屋敷で掃除や配膳、裁縫、ベッドメイク、子供の遊び相手や来客の接待を行う家政婦…すなわちメイドに…ただのメイドにしか見えないかもしれない。


 しかしある種の覚悟のある人間、この場で言えば、この紺色の厚手の上着を着て、大きな茶色い帽子を被った男には、彼女の正体がはっきりと見えた。


 彼女は何かを恥と感じ、暫くどこかに閉じ篭っていたように見える。

 だけど自分に出来る事は自分の全身全霊を持って主に仕える事だと思い直した。

 自らの恥を雪ぎ、再び主の前で顔を上げる為になら…元より命など全く惜しまないし、鬼にも邪にもなる覚悟は出来ている。


 これは武力に特化し無の境地に達した人間の姿。武神と呼ばれる者である。


「ジルベルスタイン流メイド術皆伝。サリエル・サルヴェール…貴殿も御名乗りあそばせ」


 武神と化したメイド、サリエルは、淀んだ光を纏った目を細め、そうはっきり発音した。


 男のこめかみを冷や汗が伝う。この人物との出会いを、男は欲していなかった。


「名も名乗れない不逞の輩なのであれば、私も遠慮が出来なくなりますわ…伯爵屋敷の怪人!私は貴方を討ち取って伯爵令嬢に忠誠を示す!」


 サリエルはゆっくりと、鉄箒を大上段に構える。

 男は苦笑いを浮かべ、左右に目を配る。



 旋風は巻き起こった。

 大上段から放たれたやや大振りな横薙ぎはフェイクだ。

 直後に凄まじく速く遠い突きが続く。

 数多の挑戦者の額を割って来たこの技に、男は正しく対処していた。

 この男も、出来る。

 決して侮らずに二段構えのステップで攻撃を回避し、男は鉄箒の端を掴んだ。

 しかし次の瞬間、サリエルはあっさりそれを振り払う。

 男は逆手方向へ走る。

 サリエルは後ろからではなく併走するように追い掛ける。

 男の足は速かったが、サリエルの足は更に速い。

 壁が迫る。立ち止まり戦うかサリエルの居ない側へ走るか。

 男はサリエルの反対側を走る。

 勿論サリエルはそれを意図していた。

 ブドウ畑が迫る。低いブドウの木が何列も連なる緩やかな坂道だ。

 男はスコップを見つけ、拾い上げようとする。

 背後から鉄箒が襲う。ギリギリで男はかわしきる。

 ブドウの木を挟み、男は再びサリエルに向き直る。少し地面が高い。

 サリエルの鉄箒が殺到する。膝元へ、腰へ、頭へ。

 上下に突き分けられた襲撃を、男はスコップでかわし、かわし、受け流す。

 四つ目の薙ぎ払いを受け止めたところで…スコップの柄は折れた。

 男はスコップを捨て再び横へ走る。

 サリエルも併走して追う。

 ブドウの木の列を挟み、二人は走る。

 男は向きを変え、サリエルに背を向け斜面を登る道へ向かう。

 サリエルはそれを追うが、登り傾斜を走るのは手ぶらの男が有利だった。

 少し、二人の距離が離れる。

 しかしその時、一瞬のふらつきから、男はバランスを崩した。

 その瞬間を逃さず、加速して追いついたサリエルの鉄箒が…

 男の右足の踝を…捉えた…!



「がっ…!!」


 回転し、転倒する男。その表情は大きな帽子と前髪と髭に隠れて、窺えない。


 男は実の所、貧血を起こしていた。自身の過労を侮り過ぎていた。この過労が無ければ、なんとか逃げ切っていたかもしれない。


 男は足首を押さえて転げ回る。転がってでも逃げようというのか。

 しかしサリエルは、その男の首筋に、鉄箒を突きつけた。


「…」


 サリエルが一突きすれば、男の頚椎は砕かれ、その命は絶えるだろう。


「…」


 サリエルは冷たく男を見据えたまま、暫くは無言だった。


「…貴方を殺す事も、司直に引き渡す事も簡単ですが。ここは伯爵様の葡萄畑。そして…貴方は伯爵屋敷に忍び込んだ男…その事が世間に知れるのは口惜しいですわ。下賎な連中が、どんな噂を流すか解りませんから」


 サリエルは更に男に近づき、仁王立ちで見下ろす。


「ですが。次に貴方を見掛けるような事があれば…二度目はありませんわよ」


 そう言うや否や、サリエルは鉄箒を返し、男の尻を激しく打った。


「ぎッ…」


 男が短く、見た目によらぬ甲高い悲鳴を上げた。


「お分かりいただけたかしら?二度とこの近くに現れてはいけませんわ」


 サリエルはそう言い捨てると、踵を返し、ゆっくりと歩み去って行った。



 男は暫く横たわり、呼吸を整えていた。


 足と尻の痛みも辛かったが、貧血もなかなか回復しなかった。時折、意識が遠のきかける。


 前髪の間から染みた涙が、頬に毀れる。


 しかし男はどうにか立ち上がると、髭面の奥に微かな笑みを浮かべた。

 そして痛む足を引きずりながら、歩み去って行った。




 翌朝。


 ――ガラゴロガタタタン!!!!


「きゃあああああぁぁぁぁああああ!!」


 早朝から、伯爵令嬢の悲鳴が、屋敷内に轟いた。


「お嬢様!?」


 真っ先に控え室篭りのサリエルが飛び出し、他のメイドやディミトリも続く。


 女主人は、屋敷の階段の踊り場に倒れていた。彼女が履いていたハイヒールの片方のヒールが、もげて転がっていた。


「お嬢様!お嬢様!しっかりなさって下さい!!」


 サリエルは倒れているエレーヌにすがりつき、泣き叫ぶ。ディミトリは階下に居る他の執事に向かって叫ぶ。


「医者だ!医者を呼ぶのだ!」



 今朝に限って、階下のダイニングで朝食を食べたくなったエレーヌは、メイドが呼びに来る前に一人で部屋を出て階段を降りようとしていたという。

 彼女は、覚えているのはそれだけだと言う。気がつけば自分は踊り場に倒れていたと。

 ハイヒールが折れて転倒したのか、転倒してハイヒールが折れたのかは解らない。


 医師の診断によれば、エレーヌの右足の足首の怪我は全治三週間だという。尻もぶつけたらしいがそれは伯爵令嬢が診せなかった。

 いつもお読みいただきまして誠に有難うございます。


 ここから先も一応作品の一部なのですが、内容は所謂ネタバレを含んだものとなっております。

 あまりそういう物は見たくないと思われる方は、ここで御戻りいただけるよう、お願い申し上げます。ここまでお読みいただきまして誠にありがとうございます。


 もう少々お付き合いいただける方は下へスクロールをお願い致します。

 

 

 

 

 ↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この話は、時々かつら付きの大きな帽子や厚手の上着や付け髭をつけ、謎の下男に変装して暗躍する、伯爵令嬢エレーヌの物語でございます。


 屋敷の中での高慢が演技なのか、高慢は本当だけど何か変装して裏工作しなきゃならない訳があるのか、それはよく解りません。


 エレーヌの裏工作はわりとずさんです。オルフェウス編ではむやみに道に飛び出して七日目のオムレツを台無しにしてしまいました。


 今日の話では、変装したエレーヌはミリーナを探していたものの会えず、代わりに(それがエレーヌとは知らない)サリエルに見つかりボコボコにされました。これはエレーヌには予定外の出来事でした。


 ミリーナ編でのエレーヌは、自分が直前で避暑旅行に逃亡、みんなが困る、ミリーナが主役を引き受ける、という青写真を描いていました。

 それでエレーヌの姿でミリーナにシュゼットの歴史や解釈を教えた上で、怪人の姿でミリーナにバレエを頑張るよう駄目押しをする機会を伺っていたんです。


 しかし、前回の出会いが強烈過ぎた為、ミリーナはもうバレエにかける決意を固めており、夜は休養の為眠っております。薬が効き過ぎたというやつですね。


 ミリーナに変装状態で出会って話がしたいエレーヌ。しかしなかなかミリーナに会えません。それで雪辱の為怪人を探していたサリエルに見つかってしまいました。

 夜中に、変装状態のエレーヌを、サリエルがそうとは気づかずボコボコにしてしまったのは仕方ありません。


 まあエレーヌはサリエルに対しては普段非道い事ばかりしてますし時には暴力もふるっています。一方のサリエルは間違いなくエレーヌの忠臣です。何故忠義を尽くすのかは、こっちもよく解りません。

 ともかく、たまにはこんな偶発事故が起きても良いのではないでしょうか。



 今回も事故を装い怪我を誤魔化すエレーヌ。彼女の次の一手は?そもそもこんな回りくどい事をするのは何の為なのか?

 物語は続きます…

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― 新着の感想 ―
[良い点] ストーリーテラー!このモヤモヤする感情が爆発する時、大きなカタルシスをもたらすんですね。モヤモヤがモヤモヤ!が溜まっていく。 [気になる点] 案外、雑に計画する所なんかはマリーに引き継がれ…
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