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便所掃除のミリーナ 第十話

※前回第14部分の誤字を訂正させていただきました。お知らせいただきまして誠に有難うございました。

 本番が近づくにつれ、街にも掲示物が増えて来た。

 ストーンハート伯爵、ローゼンバーク男爵、他にも町の有力者や商人がスポンサーとなり、カトラスブルグ劇場を中心に三日間。オーケストラの演奏や歌劇や演劇、バレエなど、様々な演目を集めた舞台芸術の祭典である。

 その開幕まで、あと一週間となったある日。


「暑くなって来たわね…最近」


 屋敷の玄関を通りながら、伯爵令嬢は呟いた。六月にもなればそういう日もある。


「サリエル…そろそろ避暑に行こうかしら」

「お嬢様、夏休みはまだ先ですが…」


「いいじゃない。この屋敷、怪人が出るんでしょ?前々から気持ち悪いとは思っていたのよ。私が避暑に行ってる間に大掃除でもしておいて下さらない?」


 エレーヌの何気ない一言に、サリエルは不吉な予感を覚えた。


「あ、あの…お嬢様、それは…バレエの公演が終わってから…でございますね?お嬢様は主役のシュゼットを演じられるとお伺いしておりましたが」


「余所余所しい言い方ね。貴女私の専属メイドなのに、私がコンスタン先生の所で何をしてるのかも御存知無いのね。私、本当に可哀想な令嬢ですわ」

「お嬢…様!」


 思わずサリエルは一瞬言葉を飲み込んでしまった。


「私、何度も申し上げたではありませんか!バレエなら私がお付き合い致しますと、だけどお嬢様が私では駄目だとおっしゃって…」


「それで?」


「い、いえ…その節は差し出口を申し訳ありませんでした、お許し下さい…それで、あの…お嬢様は主役のシュゼットですし、お嬢様が代役は不要と仰るので、他には誰もシュゼットを練習されていないと伺っておりますが…お嬢様がお出にならないと、皆様大変困った事になるかと…」


「あれねぇ…私、本当に出ないと駄目なのかしら」


 サリエルは青ざめる。時折これが冗談では済まなくなるのが彼女の女主人である。


「貴女…バレエをするならミリーナより私を連れて行けとおっしゃいましたわね」


 エレーヌはサリエルに横顔を向け…邪悪な笑みを浮かべた。


「お…お嬢様?」


「やりたいのでしょう?バレエ。確か昔習っていたし今でも出来るともおっしゃってましたわ。ホホホ」

「何の…お話しでしょう…」


 エレーヌはサリエルに背中を向けた。


「シュゼット。貴女にやっていただこうかしら?ホーッホッホッホッホ!!」


 そう言ってエレーヌは廊下をヒラヒラと舞う。


「お嬢様!お嬢様!どうかそれはお許し下さい、お嬢様!」

「あらどうして!!貴女、自分がやりたくない事を私にやらせようとしてたの?なんて酷いメイドなんでしょう!ああ可哀想な私!ホーッホッホッホッホ!!」

「違います!違いますお嬢様!どうか悪質な冗談はおやめ下さいお嬢様!皆が、皆が不幸になります、どうか考えなおして下さいお嬢様!!」

「そうよサリエル、貴女がシュゼットをやればいいんだわ、これで万事解決よ、ホーッホッホッホ!!!」



 数分後。エレーヌは自分のリビングのソファに座っていた。

 サリエルは床に四つん這いになって過呼吸を抑えていた。


「冗談よ」


 エレーヌは羽根の扇子で口元を隠した。


「最近稽古がつまらないとは感じておりますけどね」


 サリエルはようやく呼吸を整えて立ち上がる。


「それは…何故でしょう?」


「あの汚いチビ。なんでか上手い事コンスタン先生に取り入って、お気に入りになってしまったみたいですの」


 エレーヌは自分の口元を隠したまま扇をぱたつかせ、不機嫌そうにそっぽを向く。


「…そんな…」


「あのね貴女。じゃなきゃ何で私があの下賎なチビを呼んで本なんか読んでやってると思いますの?有り得ないでしょ?私、仕方なくやってますのよ」


 エレーヌはわざとらしく溜息をついて、ソファに横たわる。


「あの子がちょっと何か出来るようになると、先生は孫が初めて歩いたみたいに喜びますの!あの子が出来るような事なんて、教室の生徒なら誰でも出来ますのよ!何せバレエを始めて二ヶ月しか経ってないんだから!」


 サリエルはミリーナのバレエを見た事が無い。午前中はエレーヌについて学校に行ってるし、バレエ教室には連れて行って貰った事が無い。


「あの子は使用人達の間でも人気者だそうね」


「ですが…」


 ですが、と言ってみたサリエルだが、その光景は容易に想像出来た。教室で他の生徒に愛されているのは、人付き合いが少し苦手なお嬢様より、貧しくても善良なミリーナの方なのではないだろうか。



 その夜。


 サリエルはエレーヌの部屋の入り口のでミリーナを待っていた。

 今までエレーヌはミリーナをチビとか汚いとか言う事はあっても、具体的に何が気に入らないという事は無かった。

 だから、嫌な予感がした。


 ミリーナはやって来た。


「ミリーナ、今日もお嬢様とバレエの話をするのね?…ちょっと待って」


 サリエルはミリーナを呼び止め、声を落とす。


「最近、お嬢様に変わった所は無い?…例えば…急に優しくなったとか…」


 ミリーナは怪訝な顔をする。


「はい…でもお嬢様は昔から優しいです」


 それは優等生的な答えなんだけど、今必要なのはそれじゃない…とにかく。


「あの…お嬢様が優し過ぎる時は、少し気をつけてね…何か悪戯を考えている事があるから…」


「?…はい、気をつけます」


 サリエルはそれだけ言って、自分の控え室へと戻った。



 翌朝、サリエルがエレーヌの部屋を訪れた時には、ミリーナは居なかった。エレーヌも特に何も言わなかったので、二人はそのまま、朝の支度をして学校へ行った。


 午後になると、普段は居残りを嫌うエレーヌが今日に限って図書館に行きたいと言い出した。サリエルは一応バレエ教室がある事を告げたが黙らされた。

 そしてエレーヌは何故か、ミリーナを送れと言って馬車を帰らせてしまった。その為、エレーヌとサリエルは3km近い図書館から屋敷までの道を歩いて帰る事になった。


 それでようやく屋敷に戻ると、エレーヌはまた自室に戻り人払いをしてしまった。借りて来た本に集中したいので、今日は何人たりとも部屋に入れるなと。夕食も控えの間に置いておけと。



 この一日が無事に終わればいい。そう思っていたサリエルだったが。



 エレーヌ達が戻ってから少し経って、馬車が帰って来た。馬車には勿論ミリーナが乗っていた。だけどそのミリーナが、珍しくフードを被っている。


 サリエルはミリーナを呼び止め、近づいた。


「お稽古はどう?ミリーナ…そのフード、どうしたの…?」

「い、いえ、その…」


 珍しく歯切れの悪いミリーナ。サリエルは彼女の肩に手を置き、目線の高さを合わせた。


「どうしたの?ミリーナ…ミリーナ!?」


 サリエルはミリーナのフードを取り払った。

 ミリーナは髪の毛を切られていた。それも乱雑に…苦労して編んだ三つ編みも切り落とされていて、半ば男の子のような髪型にされていた。


「ど…どうしたのこの髪!?だ、誰に…」


 ミリーナは苦笑いしていた。


「私の髪…汚かったから…」


「お嬢様ね!?そうでしょう!?お嬢様に切られたのね!?」


 ミリーナは泣いていなかったが、サリエルの瞳にはそう言っている間にも涙が溜まり、流れ落ちてしまった。



「お嬢様!お嬢様!!」


 サリエルは二階に駆け上がり、エレーヌの部屋の両開きの扉をマスターキーで開けた。立ち入り禁止の札にも構わず。


「お嬢様!!」


 しかし、控えの間から次の間に向かう両開きの扉は、向こうで取っ手につっかえ棒でも入れているらしく、開かなかった。

 サリエルは開かない扉を叩きながら泣き叫んだ。


「お嬢様!あんまりです!何故ですかお嬢様!!」


 サリエルは号泣していた。ミリーナが可哀想なのも勿論ある。だけどそれ以上にエレーヌが可哀想だと思っていた。


「そういう事をなさったら…皆がどう思うか…解らないわけないでしょう、お嬢様…何故…お嬢様…」


 農作業や水仕事。様々なダメージを受け、手入れもしてもらえないミリーナの髪は、確かに毎晩きちんと手入れをするエレーヌの髪と比べたら、綺麗であるはずなどない。だけどそんな髪でも…ミリーナは大事にしていたのだ。

 それをあんな風にされて。例えミリーナが平気だと言っても、周りがどう思うか何故解らないのか。


 サリエルは扉の前で泣き崩れる。



 幼い頃のエレーヌは天使のようだった。誰にでも分け隔てなく優しく、誰からも愛された。一つ年下のエレーヌ…彼女がこれからも、誰からも愛される素敵なお嬢様でいられるように…自分は、その事に人生の全てを捧げるつもりだった。


 しかし現実はどうか。何故こうなるのか。自分のしてきた事の何が悪かったのか。


 エレーヌの性格は年を追うごとにキツくなり、意地悪になり、時にはこうして、誰もが眉をしかめるような事を平然とやってしまう。


 ミリーナ本人がどう思うかだけではない。周りがどう思うか、それが解らないのだろうか。そんなはずはない。エレーヌは頭だっていいはず。なのにどうしてこうなるのか。


 自分の努力が無駄だったのか。それとも、自分のしている事のせいでこうなってしまったのか。もし後者だというのなら、どうか雷が降って私の体が引き裂かれますように。サリエルはそう、天に願った。




 コンスタンは翌日、慌てた様子で伯爵邸にやって来た。

 エレーヌは既に学校に出掛けていて居らず、サリエルはショックで寝込んでいた。


 昨日は祭典の為の会議があり、伯爵邸にも教室にも来られなかったのだが、異変については昨日のうちに数人の生徒から聞いていた。

 生徒達の何人かはミリーナに同情して泣いていた。エレーヌのした事はあまりにも酷いと、公然と批判する者もたくさん居た。


「ミリーナ!」


 コンスタンはレッスン室に駆け込んだ。そして彼女を見た。


「ミリーナ…貴女本当に、ミリーナなの!?」


 砂埃や日光で痛んでボロボロだった髪の下には、無傷の艶やかな濃栗色の髪が隠れていた。無造作に切られているように見えて実は計算されて切られた髪は、いくつもの躍動感ある毛束を形作り、妖精めいた不思議な美しさを創り出していた。

 そしてそれ以上に。そばかすを気にし過ぎるあまり、無様に伸ばしていた前髪の下に隠れていたのは、強い意志を感じさせる力強く長く形の良い眉毛と、爛々と輝く美しく大きな若栗色の瞳だった。

 そばかすが何だというのか。オーラさえ感じる程の大変な美少女ではないか。中性的な美貌と華奢な体、意外にボリュームのあるバストのアンバランスさがまた良い。正直、男性観衆のリビドーを揺さぶるだろう。


 隠していたのだろうか。伯爵令嬢はこの切り札を直前まで隠し持っていたというのか。だけどどうするのだ?一体どうすればいいのだろう?


 もう彼女はバックダンサーの中には置けない。このオーラ、この表現力、この運動力、この技術…こんな子が後ろで踊っていたら舞台が全部食われてしまうかもしれない。


「あの…先生?」


 ミリーナはハンカチを噛みしめながら泣き笑いをしているコンスタンの顔を、心配そうに覗き込んだ。

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