便所掃除のミリーナ 第九話
コンスタンは伯爵邸のレッスンルームで震えていた。
本番まであと二週間。午後の教室では通し稽古も控えている。
もう何も変更は出来なくなった今、ミリーナが爆発的に成長しているのだ。
「どうするの貴女、今になってこんな…」
コンスタンは震えながらそう言って、苦笑いをした。
一番変わったのは表現だった。ほんの二週間前のオーディションではただの運動でしかなかった彼女の演技に、突然神がかりと言っていい程の表現力が宿ったのである。つま先から指先まで、神経の通っていない所は何一つない。
ミリーナの動きには華もあった。舞台の上では体は大きいに越した事は無いのだが、彼女の場合は体の小ささはマイナスにはなっていない。手足は長くしなやかで、動きは機敏なのに繊細だ。
初日に関節が固く見えたのも今となっては嘘のようだ。毎日しっかり伸ばして来たのだろう。恐らく、彼女はもう教室の誰よりも柔らかい。
そして何と言ってもジャンプだ。まず本当に優雅に跳ぶ。まるで力を入れてないかのように、フワリと浮き上がるように。それなのに本当に高く、滞空時間が長い。
ミリーナを全体で見た場合。華奢で小柄だが意外に出る所は出ているし、やはり手足が長いのでスタイルはかなり良い。
ただ、そばかすが多かったり、髪がかなり痛んでいたり…玉にキズな部分もあるし、雰囲気はどうしても垢抜けないが…これはこれで仕方無い。
技術はどうか。バックダンサーとしては申し分ないだろう。何なら王立バレエ団のバックダンサーに加わる事も夢ではないかもしれない。そのくらいのレベルにまで来ている。
ただ…先日までは技術が素直に猛練習を積んで来たミリーナの一番の武器だったのだが、突如として圧倒的な表現力を身につけてしまった今となっては、技術がボトルネックになってしまった。
あと二週間で、どれだけ正確な技術を身に着けられるだろうか?
そこまで思い込んでから、コンスタンは溜息をついた。
そんな心配をしてどうするのか。
どんな成長をしようと、今回の公演にはミリーナは間に合わない。当日の彼女の役はバックダンサーである。スズメ役の子だって努力して来たのだ。
でも、ミリーナに次はあるのだろうか?あるならば話は早い。慌てず、騒がず、腰を据えて、これからの彼女の成長を見守っていけばいい。だけど…もしこれが最初で最後のチャンスだったら…
コンスタンは一度エレーヌとその話をしなければと思っていた。
しかしエレーヌは午前中はほとんど毎日学校へ行っていて、屋敷では会えず、教室には週二日くらいしか来ないので、来た時に集中的にレッスンをしないと『シュゼット』が出来なくなる。そしてレッスンが終わるとそそくさと帰ってしまう。
また、この件に関しては別の心配もあった。伯爵令嬢の気性を考えると、あまりミリーナを褒め過ぎるのも危険なのだ。令嬢がその事で気分を害したら、その瞬間にミリーナのバレリーナ生命は絶たれるだろう。
コンスタンが帰った後。
「ミリーナ…しばらく農園の仕事は来なくていいぞ…」
エドモンが言った。その機嫌は決してそんなに良さそうではなかった。
「あの、待って下さい、私にも仕事を下さい、エドモンさん!」
「違うんだミリーナ、無いんだよその仕事が、お前に頼もうと思っていたキャベツを、夜のうちに誰かが収穫して洗って箱詰めしちまったんだ…怪人だ…怪人の仕業に決まってやがる」
最近は怪人に掃除されないように、エドモンを始めとする農園の男達が、自主的に洗面所や洗濯場を掃除するようになった。
そうした動きの副産物として、洗面所自体があまり汚れなくなったという。皆自分で掃除してみて、散らかしたら誰かが困ると気付いたのだ。
「意地悪をしたいんじゃないんだ、ただ…お前と違って農園の男達は仕事が無くなったら解雇されるかもしれないし、給料を下げられるかもしれない。またお前に回せる仕事が出来たら、その時は頼むからさ…」
キッチンでも。
「手持ち無沙汰なのは同情するよ、ミリーナ。だけどこっちも…怪人が出たら困るから皆掃除を徹底するようになっちまった。お前に御願いする分が無いんだよ」
執事に聞いても。
「ミリーナ、君だけじゃない、最近は皆が仕事を探しているような状態だよ。私も玄関の前を掃除しようとしたら別のメイドに怒られた。仕事を取るなとね」
他のメイド達も暇があればそこかしこ掃除して、清掃済みの札を掛けて行く。最近では裏庭も落ち葉一つ落ちていない。
「みんな怪人が怖いのよ…怪人は掃除していない所に現れるのだわ。貴女もそんなに暇なら自分の部屋を掃除するのよ!怪人が部屋に来たらどうするの!」
夕食の後。
サリエルはそんな屋敷の使用人達の間の出来事を、伯爵令嬢に報告していた。
「まるでネズミかゴキブリですわね」
エレーヌが呟く。
「今まではそう…散らかっている場所にしか出なかったのですが…最近は農園にも出るようになってしまいました」
「それで農園の男達が、明日に仕事を残さないようになったのね?」
「はい…」
バスローブ姿のエレーヌはソファに寝そべり、長い金髪の手入れをさせていた。
サリエルは先日、ミリーナに嫉妬してしまった事を恥じていた。お嬢様の髪の手入れが出来るのは自分だけではないか。やはりお嬢様の一番のメイドは自分である。
それに、もしもお嬢様の寵愛が他のメイドに移る事があっても…メイドの世界では常に有り得る事である…もしもそうなっても、正しいメイドというのは絶対に動揺してはいけないのだ。
「そういう事ならその怪人、定期的に出て下さるといいですわね」
「お嬢様、そんな…」
「そもそも今回の件は、皆がミリーナ一人にトイレ掃除を押し付けていた事が原因ではなくて?」
サリエルもそれは反省していた。自分だってミリーナのバレエをやめさせてとは言ったが、洗面所の掃除を代わろうとはしていなかった。
「お嬢様…やはり屋敷内の洗面所を…あるいはせめてお嬢様用の洗面所だけでも、私に掃除させていただく訳には行かないのですか?」
「駄目よ」
「なぜですか、お嬢様…」
「お黙りなさい」
いつもこうだ。お嬢様は何かにつけ、理由を聞いても教えてくれない。
「ミリーナ以外のメイドが掃除するのは…構わないのですか?」
「そうね」
「私だけ駄目なんですか?」
「貴女はお黙りなさい」
その時。また、部屋の向こうから控え目なノックの音がした。
「ああ、ミリーナなら通して。それで貴女は下がっていいわ」
エレーヌはそう言って、サリエルを暗闇に突き落とした。