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便所掃除のミリーナ 第八話

 ミリーナは今、屋敷内の誰よりも勇敢だった。彼女は屋敷の二階の東側にある、伯爵令嬢の部屋へ繋がる両開きの扉をノックしていたのだ。


 ノックに応えて出て来たのはサリエルだった。

 彼女はここをノック出来るのは自分の他にはディミトリくらいだと思っていたので、そこにミリーナしか居ないのを見て大変驚いた。


「え…ミリーナ?もしかしてコンスタン先生がいらっしゃったの…?」


 サリエルはそう言った。ここにミリーナが来てノックをする理由を他に思いつかなかった。


「ごめんなさい、私、お嬢様に御願いがあって来たんです!」


 その言葉を聞いて、サリエルは10m以上後ろの壁際まで吹き飛ばされた。いや、実際に吹き飛ばされた訳ではないが、そのくらいの衝撃を受けた。


 お嬢様に、御願い!?


 日々、側仕えを許されている自分であれば、お嬢様に御願いをする事もある。

 自分以外の使用人がお嬢様に何か御願いをするとすれば、それは「お許し下さい」の他には無い。有り得ない。サリエル自身も数日おきにお嬢様にそれを言う。


 サリエルはとにかく、エレーヌに見つかる前にこの哀れな娘を帰らせなければと思った。


「ミリーナ、お嬢様に御願いがあれば後で私から聞いてあげるから…」


 しかし。伯爵令嬢は既にサリエルの真後ろに居た。


「私に用があるのでしょう?」

「ヒッ…!?」

「何よサリエル、お化けでも見たみたいに。とっとと通しなさい。本当にいつもグズなんだから」



 いつもなら自分用リビングの自分用ソファに座って、サリエルなどの相手を立たせたまま話す伯爵令嬢は、今日は何故かテラスの近くにあるティーテーブルの前の、肘掛の無い椅子に座った。テーブルの向かいには同じ椅子がもう一つある。


 サリエルが放心していると、ミリーナは躊躇なくその向かいの椅子に座った。サリエルはそれを見て吹き飛ばされ5m後ろの暖炉へ叩きつけられた…ような気がした。


 有り得ない。そこに平然と座るのは有り得ない。屋敷内で唯一側仕えを許されている自分だって、そんな風にお嬢様と差し向かいで座った事は無い。


「何ぼんやりしてるの。お茶でも出しなさいよ」


 エレーヌがそう言っても、サリエルは一瞬動けなかった。勿論一秒後には動き出し、お茶を用意する動作に入ったのだが…サリエル自身にとってはこの一秒は大変な恥であった。伯爵令嬢は気づいてもいないのだが。


「何かバレエの事かしら?どうぞ、おっしゃいなさい」


 エレーヌの声に、サリエルはまた吹き飛ばされ壁に叩きつけられた気がした。普通、エレーヌは目下の者の気持ちを察して、言い出しやすいように誘導してやったりはしない。言い出しにくい事を抱えた相手が居れば、とことんいたぶるのだ。


「はい、お嬢様…私、バレエの勉強がしたいんです、あの…」


「…それは…私に恥をかかせないようにする為ですの?貴方が無学なのが皆に知れたら、伯爵の娘が恥をかくからかしら?」


 このエレーヌの言い草は、密かにサリエルを刺激した。実際、メイドの質はその家の格を表すと言っていい。

 だからサリエルはメイドの身でありながら詩文学から自然科学、歴史、外交や時事問題に到るまで、そんじょそこらの有識者には負けない深い教養を身につけているつもりである。


「違います!私、自分の為に!バレエの事、もっと知りたいんです!」


 サリエルは今度は天井に叩きつけられたような気がした。

 エレーヌは薄笑いを浮かべ、軽く頷いた。


「だけど貴女、字が読めないのよね?字から勉強していては間に合わないわ」


 エレーヌの反応もサリエルには信じられなかった。サリエルはもう我を失っていた。お嬢様何故ですか?そこは爆発する所ではないのですか?いえ爆発して欲しい訳ではないのですが、いつものお嬢様ならここは…


「少しは勉強してきたので、易しい本なら読めると思うんです!コンスタン先生に聞きました、お嬢様ならバレエの手引き書や入門書、それに…『シュゼット』の絵本をお持ちなのではないかって!」


「ちょっとお待ちいただけるかしら。ねえサリエル」


 半ば自我を失いかけていたサリエルは、エレーヌの声で正気を取り戻した。


「はい!お嬢様!」


 サリエルは予想した。本を貸してあげるのかしら?どうか意地悪を言わず貸してあげて下さいお嬢様、本を取って来いとおっしゃって下さいお嬢様!でももしかしたら…お嬢様の事だから、何か意地悪を言い出すかも、ミリーナに無理難題を出すかも、そうしたら私何と言ってお嬢様を守りましょう、お願い致しますお嬢様、どうかお手柔らかに…


「貴女は今日はもういいわ。下がりなさい」


 エレーヌの予想外の一言が、サリエルの心の中に暗黒の緞帳どんちょうを降ろした。



 散々に打ちのめされた気の毒なサリエルは退室した。


「お茶ぐらい最後まで煎れて貰えば良かったわね」


 伯爵令嬢は自ら煎れたお茶をカップに注いでいた。

 幼いミリーナは、女主人が渡してくれた絵本に夢中になっていた。

『シュゼット』…出来損ないで何鳥でもないシュゼットが、様々な鳥に仲間に入れてくれるように頼んでは拒絶され、最後は意味深に終わる物語。


「可哀想…」


 ミリーナは呟いた。


「そうかしら?シュゼットは他人と交わる事で自我を得るのよ」


 ミリーナが怪訝そうな顔をしているのを見て、エレーヌは続ける。


「シュゼットは最初孤独なわけ。自分が何者なのかも解らないし、自分がどうなりたいのかも思いつかない。だけど勇気を出して他の鳥達に仲間に入れてくれるように頼むの。それで自分と他の鳥との違いに気付く」


 エレーヌは砂糖とミルクをたっぷり入れた紅茶のカップをミリーナに差し出す。


「カラスは美しく羽ばたけるのに自分は出来ない。スズメは可憐に踊れるのに自分は出来ない。アヒルは優雅に泳げるのに自分は出来ない…」


 ミリーナはエレーヌが煎れてくれたミルクティーを一口飲む。


「やっぱり、可哀想です…」


「違うのよ。だってそれでシュゼットは自分が何者なのか考える事が出来るようになって、なりたい自分に気付いて行くの…その絵本、ちょっと良くないの。シュゼットを滑稽にばかり扱っていて私は好きじゃないわ」


 エレーヌはミルクティーを一口飲んで続ける。


「まあ、シュゼットは最後には死んでしまうんだけど…」

「…はい」


 ミリーナは絵本を手に俯く。


 エレーヌは二人のティーカップをトレイに乗せる。

「でもね…色々な解釈があるのよこの話。ちょっとこっちにいらっしゃい」


 ミリーナはさすがに気付いて、トレイを持ってついて行く。エレーヌはソファの方にミリーナを招き、隣に座らせる。


「『シュゼット』は二百年くらい前に書かれた童話だけど、バレエの脚本になったのはほんの二十年前よ。いい?私が読んであげるから聞きなさい」


 エレーヌは少し難しい本をミリーナに開いて見せ、指でなぞりながら文章を読み上げて行く。




「ありがとうございました!お嬢様!」

「これ以上は面倒見きれないわよ」


 翌朝。伯爵令嬢の部屋へ朝食を運んで来たサリエルは、その光景を見て卒倒しかかっていた。

 この屋敷には六歳から勤めている。十二歳でお嬢様専属になって、今年で六年目。自分はこの屋敷の中では誰よりも、この気難しいお嬢様に近い場所に居る者であると…信じていた。

 信じていたのに。この光景は何でしょう?ミリーナは今お嬢様の部屋から出て来たように見える。昨夜ミリーナがお嬢様の部屋を訪れたのも知っている。つまり?


 サリエルはこの扉の向こうで夜を明かした事は一度も無い。


「おはようございます!」

「おはよう…ございます…」


 そして今挨拶をしてすれ違って行った少女は、私ですら過ごした事の無い時間を、お嬢様と過ごしたというのか…サリエルの心中に雷鳴轟く黒雲が巻き起こる。


「何をしているの。それは私の朝食でしょう!早く持って来なさい!」


 エレーナの鋭い叱咤に、サリエルは我を取り戻す。

 大丈夫。私は誰よりも多くお嬢様から叱責される、特別なメイドなのだ、と。

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