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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
便所掃除のミリーナ

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便所掃除のミリーナ 第七話

 オーディションが終わってから一週間程経った。


 相変わらずコンスタンは午前中にはよく伯爵邸を訪れ、ミリーナにレッスンを施していた。週に一度くらいは来ない日もある。


 相変わらずエレーヌは何かにつけて午後のレッスンを休んでは、部屋に篭っていた。週に二度くらいは行く日もある。


 相変わらず怪人は出没し続けていた。最近ではトイレにこだわらないようになってしまい、毎日所構わず現れては掃除をするようになった。


 屋敷は二つの空気に包まれていた。


 一つはミリーナの挑戦を応援する空気。バックダンサーでも、バレエダンサーとしてカトラスブルグ劇場に立てるのなら名誉な事だ。使用人達は、みんな明るいミリーナが好きだったのだ。

 もう一つは勿論怪人をなんとかしなければという空気である。ただ、いずれの空気も、屋敷の女主人である伯爵令嬢とは無縁の物だった。


 一方、ミリーナ本人は執事長ディミトリに何度も訴え出ていた。


「御願いします、私にも掃除の御仕事を割り振って下さい、バレエのレッスンの間に洗面所の掃除をされてると聞くと、落ち着かないんです!」


「少なくとも、三週間後の公演まではレッスンに集中しなさい。お前は見所があると、コンスタン先生がおっしゃっていたようだ。きっとお嬢様は、お前の才能を見抜いてそうなさったんだよ」


「でも、私…」


 バレエをするのはあくまでお嬢様の言いつけなので、楽しいとか楽しくないとか、やりたいとかやりたくないという事は全く無い。

 だけどバレエのせいで他の仕事が疎かになるのは悔しいし、トイレ掃除を他の綺麗なメイド達にやらせてしまっては、申し訳なくて気が気ではない。


「…それに掃除については、例の怪人がね…まあとにかく。農園の手伝いはしてくれているのだし、お前はそれでいいよ。それより、また貧血で倒れたりしないように、しっかりと食事を摂りなさい」



 その日の夜。深夜二時。


 紺色の厚手の上着を着て、大きな茶色い帽子を被った男は、今日も裏庭に居た。

 注意深く辺りを見回しながら離れの水回り棟に近づく男。その手にはモップと、雑巾を掛けた手桶が握られている。


「貴方は…」


 男は、不意に声を掛けられ、少し飛び上がった。

 近くに居た誰かが、ランプのシャッターを開けた。


 水回り棟の近くに、少女の人影があった。少女と男には一つ共通点があった。ボサボサの前髪で、目が殆ど隠れている事だ。


 少女はこの夜、誰にも相談せず、自分の判断で、屋敷に巣食う怪人を見つける為、使用人用の洗面所を見張っていたのだ。


 男の方は例の怪人と呼ばれている男だったが、自分を見つけたのが少女だと解ると、逃げもせず、じっと彼女を見つめていた。


「あ、あの…貴方が…いつもお掃除をして下さっている…怪人さんですか?」


 男は黙って頷いた。


「あ…貴方は何故…そんな事をして下さるんですか?」


 少女は恐る恐る尋ねた。


 男はただ黙っていた。何を語るでも、何か否定するでも肯定するでもなく…まるで、この場をどうしようかと考え込むかのように。


「あの?」


「あー…そ、それはだな…」


 男は見た目より甲高い声で口を開いた。


「あー…私は…実は…お前の父なのだ!」



「え…ええええ!?」


 少女は…そのまま膝を曲げて崩れ落ち、ぺたんと尻餅をついた。


「う、うむ…」


 男はぎこちなく頷く。


「本当はその…もう天国に行かなくてはならないんだが…最後にどうしても、お前の事が気になってだな…あー…うむ…ミリーナ…元気そうで何よりだ…」


 少女…ミリーナは完全に崩壊していた。あいにく彼女にはこういう事を正しく処理する為の教養が無かった。ただ目を白黒させ、口を開けて、男を見ていた。


「私は天使なので勿論、お前がこの屋敷に勤めている事も、意地悪な伯爵令嬢にいじめられている事も知っている…先日は酷い貧血で倒れてしまったようだな…とても心配したぞ…」


 男はゆっくりとミリーナに背中を向けた。


「ところでミリーナ…お前が仕事熱心なのはとても良い事だ…お前は執事長の男に、いつも相談しているだろう?もっとトイレ掃除をさせて欲しいと…うん…私は何でも知っている…」


 ミリーナは何も言葉を発する事が出来ないまま、這って前に出る。

 男は横顔だけをミリーナに向けた。


「だけど今は、お前はバレエに集中すべき時なのだ…私には見えるんだよ…お前がいつの日か、王立バレエ団のエトワールになるのがな…ああ、言葉の意味は後でコンスタン先生に聞くがいい…私はその日を、とても楽しみにしている!」


 ミリーナは必死に言葉を搾り出そうとしていた。だけど、一言も言葉は出て来なかった。


「さて…こんな夜中に、どうしてもトイレ掃除がしたいと言うのなら、たまにはいいだろう…今夜は思う存分掃除を楽しむがいい。私も最近ね、トイレ掃除が楽しいと思うようになって来たよ…ではさらばだ、我が最愛の娘よ…達者でな…」


 男はそう言うと、モップと手桶を置いて去って行った。



 翌朝。


 エレーヌは朝食の前に、サリエルに手招きをした。


「ちょっと聞きたい事があるの。あのチビで小汚い…何でしたかしら?」


 チビで小汚いだけ言われて、それは誰ですと言う訳にも行かず、サリエルは困惑していた。幸い、エレーヌは思い出したように続けてくれた。


「ああミリーナでしたかしら。あの子身寄りがなくてうちで面倒見てるのよね?」

「はい…既に両親は共に無いと」

「そう…父親はどんな人だったのかしら?」

「よく解らないそうですわ…母親はミリーナが九歳の時に亡くなったそうですが」


 エレーヌは急に、もう行けという風に手を振った。


「まあ、別に興味は無いのよ」



 その日の午後。


 今日はエレーヌもコンスタンの教室に行った。


 行きがけの馬車の中で、普段はなるべく女主人の方を見ないようにしているミリーナが、今日は何度か何か言いたそうにエレーヌの方を見ていたが、結局彼女がそれ以上の勇気を出す事はなかった。


 エレーヌの方は何かに気づいた様子もなく、馬車の小さな窓から外を見ていた。



 教室に着くと、コンスタンが出迎えに来た。伯爵令嬢はバレエ団の大口のスポンサーでもあるので、コンスタンがそうするのは自然な事かもしれない。

 しかし、ここではエレーヌはあくまで生徒の一人だし、エレーヌもそう扱うよう口では言っており、コンスタンも普段はそういう事はしないようにしていた。


「エレーヌさん…ミリーナに何かおっしゃったのですか!?」


「何かございましたの?」


「いえ…何も変わりが無いのなら、それで宜しいのですが…」



 ミリーナは今までも練習熱心で、言われた事は必ずやり遂げる性格だった。それは勿論ミリーナの持ち味だったし、コンスタンも気に入っていた。


 そんなミリーナが今朝から豹変したのである。


「コンスタン先生!ここは何故足を開くのですか!」

「先生!この表現についてもっと詳しく教えて下さい!」

「この場面はどんな物語なのでしょうか、教えて下さい、御願いします!」


 今までは言われた事をただやるだけだったミリーナが、疑問を持ち追及する事を始めたのである。それも、非常に熱心に。

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