便所掃除のミリーナ 第六話
使用人達の奮闘をあざ笑うかのように。伯爵屋敷の怪人はトイレを掃除し続けた。
夜を見張れば昼、昼を見張れば夜、誰も見張らなければ堂々と。
怪人は現れ、トイレを、洗濯場を、鶏小屋を掃除した。そうして仕事を奪われたミリーナは、毎日ゆっくり食事をして、毎晩早寝をする事になった。
ある日には、皆交代でトイレを一日中見張ってみた。すると怪人は鶏小屋だけを襲い、そこを綺麗に掃除してしまった。
今度は鶏小屋も含めて見張ろうとすると、さすがに手が足りなくなった。仕方なく深夜一時から三時だけ見張りをやめると、その時間に両方掃除されてしまった。
ただ…この神出鬼没の怪人がする事は掃除だけで、何かが無くなったり、何かを残していったりという事は全く無かった。勿論誰かを傷つけるわけでもない。ただ、綺麗に掃除をして行くだけ、ミリーナの仕事を奪ってゆくだけだ。
普通の使用人であったら、仕事を奪われるのはそれはそれで困る事だったかもしれない。しかしミリーナは元々無給の使用人だった。衣食住を与えられる代わりに十六歳まで給料は要らない、そういう使用人だったのだ。
一方。バレエ再開宣言からちょうど一ヶ月が過ぎた頃。伯爵令嬢は久しぶりにバレエ教室にやって来た。
「ごきげんよう。長く休んでいて申し訳ありませんわ。ちょっとダイエットをしておりましたのよ。ほほほ、少々美食が過ぎましたわ」
今日、エレーヌが現れる事はコンスタンも少し予想していた。
今日はエレーヌも他の生徒達も、本番に使うのと同じような衣装、ハレエ用のチュチュを着ていた。確かにエレーヌは少し痩せたようである。
「ミリーナ!何をグスグズしてるの!」
今までエレーヌは、バレエ教室の生徒の前でミリーナを叱責するのは控えていた。しかしこの日は普通に上から物を言っていた。
この日のミリーナは実際少し気後れしていた。ミリーナもチュチュを着せられているのだが、彼女は他の生徒と違い、こんな服を着るのは初めてだった。
これはお嬢様が十歳の時に着ていたものだという。それは別に構わない。身長は同じくらいなのだから。
しかし十歳の頃のお嬢様と違い、十四歳の自分には胸回りが少しきつかった。
このバレエ団は少女バレエ団で、男性団員はここには居なかったが、少女達の付き添いの男性は普通に居る。彼らの前にこの姿で出るのが恥ずかしかった。
「人を待たせるものではありませんわ!」
エレーナはきつく言った。すると、傍らの…教室に通う少女の一人が言った。
「ミリーナは初めてだから恥ずかしいのよ、最初は仕方ないわ」
ひたむきで素直なミリーナには、少ないが味方も出来始めていた。誰よりも練習熱心だし、最初の頃のおどおどした感じが抜けて来てからは、いつも皆を励ましてくれるのだ。
今日はオーディションの日だった。
出来るだけ良い役が貰えるよう、一ヶ月の練習を通して身につけた事を使ってアピールするのだ。
とはいえ、主役はもう決まっていた。少なくともそういう空気が流れていた。
大口のスポンサーである伯爵令嬢がオーディションを受けに来たという事は、そういう事である。
他の生徒達もそれは察していたので、主役に立候補する者はエレーヌの他には居なかった。
それでもコンスタンはエレーヌに演技を求めた。
実際、エレーヌ本人の演技には大きな問題は無かった。彼女の問題は他人と合わせる気があるかどうかだけである。技術的には練習不足は否めないが、無難にまとまってはいる。
「主役はエレーヌさんね…」
今回の演目は『シュゼット』というもので、様々な色や形の鳥達が織り成す物語だ。出来損ないなので何鳥でもなく、どこの巣にもどこの群れにも入れて貰えないシュゼットという名前の鳥が主人公だという。
このシュゼットがもう伯爵令嬢に決まっているので、あとは出来るだけ見せ場の多い役が欲しいという話になる。役がもらえなかった生徒はバックダンサーになる。
ミリーナは最初からバックダンサーの練習しかしていなかったし、オーディションに参加するつもりも無かった。
「ミリーナ。貴女も参加なさい」
先にそう言ったのは彼女の女主人だった。ミリーナは少し気後れしていたが、そう言われる事を想像していなかった訳でもない。
「はい…じゃあ、では、スズメの役で!」
「雀斑だらけの貴女がスズメね!ホッホッホ!」
ミリーナはそれに笑顔で頷いてまで見せ、オーディションに参加した。
コンスタンはミリーナの演技をじっと見つめた。
今までチュチュを着た所を見た事がなかったけど…やっぱり。この子は背は低いけど手足はとても長い。身体能力も、エレーヌのようにパワフルではないけれど、とても機敏で回転が早い。おそらく体幹がかなり強いのだと思う。
技術的には…練習で身に付く事に関しては吸収が早いし、一度覚えた動作は忘れないので、彼女の中では十分な武器になっていると思う。とは言えまだバレエを始めて一ヶ月、絶対的な練習時間が少な過ぎる。それで何年もやっている子達と比べるのは、その子達にも失礼だし…実際、未熟さを隠しきれてない部分もある。
そして練習と実際の演技との違い。実際の演技の中で求められる、物語への深い理解とそこから醸し出される表現力。ミリーナにはそれが全く無い。仕方が無い。教養の無い彼女にとって、バレエはただの運動でしかないのだ。
「ありがとうミリーナ。では…次の人」
コンスタンはメモをして、手帳のミリーナのページを閉じる。
面白いんだけど、やっぱり足りない物が多過ぎる。コンスタンはそう思った。
「それでは…皆いい?自分の物になった役は最後までやりきるのよ?それからバックダンサーになった子達も。控え役の準備をきちんとするのよ?」
主役は問題なくエレーヌに決まり、他の役も問題なく決まった。また、全ての役には控え役というものがあり、バックダンサーの生徒達も何か一つは役の控えを受け持つ事になる。
結局バックダンサーになったミリーナにも、スズメの役の控えが命じられた。本来のスズメ役に何かあった時には、ミリーナが代わるという事だ。
その日帰宅したエレーヌはいつにも増して不機嫌そうな表情をしていて、サリエルは今夜は何か起こるのではないかと、大変気を揉んだ。
しかし、そんな日に限ってエレーヌは珍しく食事の後でジェフロワに礼を言ったり、デザートの桃を針仕事のメイド達にも差し入れるよう指示したり…
不思議としおらしくしていた。