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便所掃除のミリーナ 第五話

 伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは大変な気まぐれで知られていたが、最近は特に気まぐれだった。

 三週間前、急にバレエ教室通いを再開し、何故か下級のメイドを一緒に通わせたかと思えば、今度は急に本に夢中になりだした。

 ここ数日は学校から帰るなり自室に篭り、バレエ教室にも行かない。そして自身は行かないのにメイドには行けと言う。


 そんなエレーヌの部屋の扉には、午後五時までは絶対に何があっても邪魔するなという、手書きの札が掛けられていた。



 ミリーナが馬車に乗せられて屋敷を離れた頃。


 屋敷の裏庭に一人の男が居た。初夏だというのに厚手の上着を羽織り、大き過ぎる帽子を被った髭面の男。


 男は裏庭を走ると使用人達に水回りの利便を提供する建物へと向かう。使用人の為の洗面所や体を洗う為の洗い場、洗濯用の水槽などはここにある。


 男はまずトイレに向かい、桶で水を撒いた。そしてモップで床の汚れを拭いて行く。汚れの頑固な所は腰に下げていた雑巾で拭き上げる。


 男性用のトイレは農場の無教養な男共が散らかすもので、特に汚い。男は昨日も一昨日もここを綺麗に掃除していたのだが、一日経つともうこうだ。


 男は一心不乱に掃除を続ける。便座の汚物のこびりつきには一瞬躊躇したが、小さな棒を持ち出してこすり落とし、雑巾で拭く。


 最後に男はモップや雑巾を水で綺麗に洗う。次は女性用トイレだ。



 筆頭庭師のエドモンは、ブドウ棚の手入れの途中に小を催して来た為、使用人のトイレまで駆け戻っていた。伯爵邸では庭での粗相など許されないのである。


 エドモンは見慣れない男が女性用トイレを掃除している事に気付いた。一心不乱、なかなか熱心にやっているではないか。


「…そういや、こないだミリーナが倒れたって言ってたもんな…誰か臨時の下働きを雇ったのかな?」


 エドモンは一人そう呟いた。今は急ぎの用があるし、声を掛けてる暇は無い。後で執事のディミトリにでも聞いてみるか。エドモンはその時はそう思った。



 夜。ミリーナは困惑していた。ここ数日、こんな事が続いていた。


 バレエ教室から戻ったミリーナは、屋敷中の洗面所を清掃しようとした。しかしたくさんある屋敷内の洗面所の多くにはほとんど『使用禁止』の札が掛けられていた。ディミトリに尋ねると、お嬢様が急にそうなさったと言う。掃除も禁止だと。


 結局、掃除をさせてもらえる屋敷内の洗面所は、一箇所だけになっていた。


 それから使用人の洗面所、洗濯場を掃除しに行くのだが、最近誰かが掃除しているらしい。他の使用人の何人かが、見覚えのない男が掃除しているのを見たという。


 時間のかかる鶏小屋の掃除も。一応ミリーナも行って掃除するのだが、別の時間に誰かが掃除しているらしく、すぐに済んでしまう。


 昼にはまだ農園の手伝いなどがあるものの、ここ数日、ミリーナは午後九時には眠れるようになってしまった。



 しかしそれはすぐに、看過出来ない話になった。


「誰も知らないというんだよ、その男を!無用心も甚だしい!」

 エドモンが声を荒らげる。


「ここ一年、新たに雇った者など居りません」

 ディミトリが頷く。


 他のメイド達も口々に不安を漏らす。得体の知れない男が屋敷に居て、勝手にトイレ掃除をしているのだ。これが不気味でないはずがない。


 一度エドモンが以前男を見掛けた時間を見計らい、使用人用のトイレで待ち伏せをしてみた。しかし男は現れなかった。

 そこで今度はミリーナを含め、誰もトイレを掃除するなという約束をして、一晩放置してみた。明け方にはいつの間にかトイレは掃除されていた。

 次の晩はエドモン、ディミトリ、さらにコック長のジェフロワが交代でトイレを見張った。男はその夜は現れなかったが、三人が見張りの疲れを午後の居眠りで癒しているうちに…やられた。


「誰だ!誰がトイレを掃除しているんだ!」

「鶏小屋もなんでしょう?怖いわねぇ…何考えてるか解らないじゃない!」

「ミリーナ…屋敷内のトイレも掃除されてるのかい!?」


「…お嬢様が使われる洗面所はもともといつも綺麗なのですが…この前…私はしていないのに、紙が補充されておりました…今までそんな事なかったのに!」


 サリエルはただただ、青ざめ、呟いていた。


「私とした事が…私とした事が…」


 誰もサリエルに声を掛けられなかった。執事長ディミトリでさえも。

 だけど他の大人達は皆ディミトリに視線を向けた。ここはディミトリが言うべきであると。ディミトリは頷き、決心して、声を掛けた。


「サリエル…その…気にするなというのは無理と思うが…起きた事は仕方が無い。どうすれば良いかを考えようじゃないか」


 使用人達は皆、サリエルが極端に高い忠誠心を持っている事を知っていた。

 彼女にしてみれば、伯爵令嬢である女主人が使っている自邸の洗面所が、不審者の手によって清掃されていただなど、耐え難い屈辱なのだ。


 サリエルは震えながら、呟いた。


「私がついていながら…お嬢様の使用されるトイレに、不審者の侵入を許していただなど…!」


「とにかく…今はまだ、お嬢様には秘密にするのだ。今こんな事をお伝えしてもお怒りを買うだけだ…うーむ…なんとかお嬢様だけでも、どこかに避難していただく方法は無いだろうか?避暑に出掛けていただくとか…」


 ディミトリはサリエルから視線を離して言った。


「避暑か…まだ早いよなあ…お嬢様も学校があるし…」

「お嬢様に何か気づかれたら終わりだしな…御父上に会いに行っていただくのはどうだろう」


 エドモンが、ジェフロワが相槌を打つ。



「申し訳ありません!!」


 伯爵令嬢の専用リビング。

 他に人目の無いこの場所で、サリエルは全力の土下座をしていた。


「私めがついていながら!お嬢様のこんな近くに不審者を!不審者の侵入を許しておりました!申し訳ありませんお嬢様!どうか如何様にも罰をお与え下さい!」


 サリエルは一つ年下の女主人の前で、本当に額を床にこすりつけて慟哭していた。

 こんな大事な事を、女主人に告げずにいる勇気は彼女には無かったのである。


 一方、エレーヌはソファに足を組んで座り、そのつま先でスリッパを揺らせながらそっぽを向いていた。


「…ねえ、サリエル」


「はい!お嬢様!!」


「それで、皆は何で私に報告しないの?特にディミトリ。執事長なのにそういう事私に秘密にして宜しいと思いますかしら?つくづく可哀想な令嬢ですわ…私」


「そ…それは…」


 エレーヌは扇でぱしっとリビングのテーブルを打った。サリエルは微かに震えた。


「貴女今、どんな罰でも与えろとおっしゃいましたわね?」

「は…はいっ…!」

「では貴女は仲間を裏切るのよ。それが貴女への罰。私の近くに、不審者が侵入するのを許した事へのね…貴女はこれから、ディミトリを始めとする使用人達が私に隠してる事を調べ、残らず私に報告するの。スパイよ、スパイ。宜しくて?」


 サリエルはますます青ざめた顔を上げる。


「お嬢様…そんな…!」


「どんな罰でもと貴女はおっしゃいましたわ!ホーッホッホッホ!私のスパイサリエル!皆の裏切り者サリエル!さあ皆が私に隠してやろうとしている事を全部言いなさい!ホーッホッホッホ!」

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