お抱え料理人オルフェウス 第一話 *
「遅いじゃない!どうしていつもそんなグズなの!」
オーギュスト・ストーンハート伯爵の長女、エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは不機嫌だった。父が見ていない時は大概そうだ。
ストレートの長い金髪、青い瞳、長身で容姿端麗、母親譲りの端正で怜悧な顔立ち。父親の社会的身分と莫大な財産を合わせ、持たざる物が何も無いように見える彼女は、日々不満ばかりを口にしていた。
「申し訳ありません…これでも出来る限り急いだのです…」
伯爵令嬢に頭を下げさせられていたのは、彼女より四歳年上で、屋敷の雇われ料理人の一人、オルフェウスだった。
令嬢は今朝も。オムレツが出て来るのが遅いと言う。
「私がオムレツを作りなさいと言ってから、何分かかってるの!?」
「はい…御嬢様の御指示をいただいてからお作りしておりますので…」
「当然よ!私に作り置きなど食べさせてご覧なさい?ただでは済みませんわ!」
屋敷の中では機嫌がいい事の方が少ないエレーヌだが、オルフェウスの前では特に酷い。しかも最近はますます苛烈になって来た。
「…まあいいわ。下がりなさい…サリエル!私は一時間休むから。その間絶対に誰もこの扉を開けたり、この部屋に入って来たりする事が無いように!いいわね!」
若い料理人のオルフェウスと、メイドのサリエルはそう言われ、エレーヌの部屋から追い出された。
「はあ…今日は料理を壁に投げつけられなかっただけ、マシかな…」
オルフェウスはつぶやいた。五日程前には本当にそういう事があったのだ。オムレツが遅いというので、予め作っておいて出してみたら、そういう事になった。
「お嬢様は、お父様があまり帰って来られないので、寂しいのですわ」
サリエルは言った。サリエルは伯爵令嬢の専属のメイドで、彼女より一つ年上である。伯爵令嬢は、今年で十七歳になる。
オルフェウスは少し背中を丸めて去って行った。本来はなかなかの美男子で堂々とした青年なのに。最近はお嬢様にやられっ放しで元気が無い。
「…どうしたら、お嬢様は機嫌を直して下さるのかしら」
サリエルは呟いた。
伯爵の屋敷はカトラスブルグの町の外の、日当たりの良い丘の上にあった。周りには手入れの良い庭園と広大なブドウ畑が連なっている。
屋敷の裏手の、庭師の為の通用口を開け、一人の男が現れた。茶色の大き過ぎる帽子から微かな黒髪がのぞく、似合わない口髭と顎髭を蓄えた若者だった。
男は小さめの岡持ちをぶら下げ、扉の外を右、左、こっそりと見回すと、屋敷の塀とブドウ畑の間にあるその道へと駆け出して行った。
ブドウ畑から長屋通りへ、長屋通りから鍛冶屋通りへ…男は息を切らし、駆けて行く。
「おい!気をつけろ!」
路地から歩き出して来た鍛冶屋の見習いが男とぶつかりそうになり、怒鳴り声を上げる。
男は構わず、金融通りへ、そして戦勝記念通りへと、人々や馬車、人力車、露店などの合間をかいくぐって、駆け抜けて行った。
戦勝記念通りの裏路地に、控え目な表札がかかっていた。その周りでは数人の男達が、仕入れて来た野菜や魚の仕分けをしながら、店の中に運び込もうとしている所だった。
「シンドラーさんは居るかい!」
見た目より甲高い声で、岡持ちを持つ男は言った。
「またあんたか。よくやるねえ。近頃じゃ親方もあんたが来るのを楽しみにしてるみたいだぜ」
働いてる男達の一人が応えた。
岡持ちを持って来た男は、帽子の鍔に手を触れて軽い礼を示した上で、裏口から店に入る。
シンドラー・バルタザールはこの街でレストランを経営していた。その評判は町内のみに留まらず、遠く首都まで届いているという。
上流階級の顧客を多く抱えるシンドラーは硬骨漢としても知られている。彼はどんな客でも同じように扱い、どんな高い身分の者にも媚びたりしないという。
「ナッシュとか言ったか。また来たのか…」
シンドラーは広いキッチンで包丁を砥石に当てていた。ナッシュと呼ばれた、岡持ちを持つ男は片膝をついて言った。
「今日の分です!お願いします、味見してやって下さい!」
ナッシュは岡持ちを開き、中から皿を取り出す…皿の上には、何の変哲もないオムレツが乗せられていた。
「ここに置け」
シンドラーが言うと、ナッシュはうやうやしく皿を差し出し、賄い用のテーブルの上に置く。
シンドラーはスプーンを一つ取り、オムレツに匙を入れる…まだ少し温かさが残っているオムレツから、ほんのりとバターの香りが立ち昇る。
「フン…」
シンドラーはそれを一口、口に入れた。
ナッシュはただ、片膝をついてシンドラーを見上げていた。ナッシュの髪はボサボサに伸びている上、帽子を深く被っている為、その目元はよく見えない。
シンドラーは、そんな男に言った。
「悪くねえ…これで五日目だな。いいか小僧。プロの料理ってのは一回や二回上手く出来ても意味はねえ。千回やっても万回やっても上手く出来なきゃいけねえんだ。だが、まあ…七回上手く出来たら話を聞いてやるって約束だ…」
「ありがとうございます!」
「しかしなあ…どうして本人は来れねえんだ?」
「はい、オルフェウスは今は、意地悪な伯爵令嬢にこき使われていて…例えばお嬢様がプリンを食いてえと言い出せば、三十分以内にプリンを作って出さなきゃいけねえんで。なかなか屋敷を出る暇がねえんです」
「それで庭師見習いで友人のお前が、代わりに来てるのか」
「シンドラーさん、あいつは本当に、あんな場所でこき使われてていい奴じゃねえんです、性根も腕前もいい、役に立つ男です…今日もお時間をいただきまして、どうもありがとうございます。これで失礼させていただきます、明日もまた来ます」
「フン…」
シンドラーはただ、鼻を鳴らした。
ナッシュは入り口の片隅に置かれていた、昨日の分の皿を拾い、岡持ちに仕舞うと、一礼をして、慌ただしく帰って行った。
戦勝記念通りから金融通り、鍛冶屋通りを通って長屋通りへ…ナッシュは最短距離になる道順を来た時と逆に辿り、疾走する。
「ハァ、ハァ…」
そしてブドウ畑に出て、伯爵家の裏手の塀際を走り…庭師用の勝手口から、中をそっと窺い…その敷地内へと消えて行った。
『伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない』
第一部分をお読み下さいまして誠にありがとうございます。作者の堂道でございます。この後書きは3月3日に追加された物であり、2月18日の第一稿にはありませんでした。
以下の文章も一応、作品の一部でございます。
内容は一言で言えば「ネタバレ」、少し良いように言えば「解説」となります。
(ヽ´ω`)
自分が書いた小説にそんな物をつけるのは、芸人がネタをやった後で、
「今のネタのどこを笑っていただきたかったかというとですね」
…と、ネタの説明と笑いの御願いを始めるようなものでございます。
勿論そのような不様な物を目にしたくはない、そういう向きのお客様もいらっしゃると思います。お目汚し大変失礼致しました、こちらから戻るボタン等で御戻りいただければ幸いです。お読みいただきまして誠にありがとうございます。
その「ネタバレ」とやら、見てやっても良いというお客様は、このまま下にスクロールをお願い致します。
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本文中には『庭師の為の通用口を開け、一人の男が現れた』とございますが、この「男」、中の人は伯爵令嬢エレーヌ本人でございます。
彼女がその姿で何をしようというのか、何の為にそれをするのか、それがこの小説のテーマでございます。