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尾瀬ヶ原にて

作者: 清水 和紀
掲載日:2018/10/28

尾瀬ヶ原に行ってきました

尾瀬ヶ原


 足の痛みを和らげるために、入ってはならない湿原の柔らかい地面にゆっくりと足をうずめる。登山靴のソールは完全に埋まり、くるぶしぐらいまで泥に埋まった。尾瀬ヶ原の沼は火山灰と、大量に生えた葦が分解微生物に分解されきらず、蓄積したもので出来ている。墨に水を混ぜてぐちゃぐちゃにしたような泥に、足をうずめる。しばらくじっとしていると、足の痛みが幾分かましになった気がした。しかし木道から足を踏み外しているところを見られれば、口うるさい自然保護職員から何を言われるか分かったものではない。私は木道から足を引き上げた。

 晩秋の尾瀬に生える葦は薄い黄色に枯れていて、どこまでも続いている。奥にはさっき私が登ってきた燧ケ岳が見えるはずだが、曇っていて見えない。不覚だった。まさか下りで足をくじくとは。後は尾瀬ヶ原の平らな林道を歩くだけだと思い油断した。

 私は泥で汚れた足を引きづりながら、どこまでも続くかと思われる木道をゆっくりと歩いて行った。しばらく行くと、小屋があって、今日はそこで止まって明日下山することにした。仕様が無い。運がなかった。仕事にも行きたくないので内心は嬉しいほどだ。


 リュックを置きテントを張り、しばらく休んでから、何も持たず尾瀬ヶ原に出かけてみた。木道のわきに作られた休憩用のベンチに腰を下ろす。尾瀬はさっきと変わらず、薄い霧に包まれながら、どこまでも広がっている。精力を無くした枯れた葦。その間にひょろりと人二人分ほどの幅の木道が霧の向こうに延びている。葦は霧で見えなくなる少し手前で薄くなって、そこからは完全な沼だ。

 なんとなくさみしい景色を見ながら、着ていたジャケットから煙草を取りだし、火を点ける。はぁぁーというため息が自然に漏れた。こんなところに来て、足をくじいて、一体何がしたいのだろうか。私は、ふと足元に生えた葦に煙草の火を押し付けてみる。音も立てず、葦は途中で焼き切れて、ぽと、と落ちた。その後も、手持ちぶたさ何本かの近くの葦に煙草を押し付けた。どの葦も湿っているのか、燃え広がりはせず、押し付けられたところだけが焼き切れ、ポトリ、と葉の先端が落ちた。

 いっそのこと燃えてくれればいいのに、と思った。この尾瀬の葦原が、霧の中で燃え上がるところをみたい、と思った。


 夜、なかなか寝付けなかった。昼間ひねった足首が、熱を持っているのが分かった。水を入れたポリタンをあてがいながら、何回も何回も寝返りを打った。どうしてお寝れず、明日まで不眠でも良い、と思い、テントからはい出した。

 夜の尾瀬は、暗く、しかしぼんやりとその輪郭を見せていた。周囲の森からは、時々葉の落ちる音か、獣が飛び回る音か分からないが、ざわざわと音がする。私は昼座ったのと同じベンチに腰かけて、夜の闇に沈んでいる尾瀬を見つめた。慣れてくると、葦の黄色っぽい感じや、その後ろのどす黒い沼の水面も見ることが出来た。後ろの山からは、相変わらず、何かの音がする。木々が黒々とこちらに覆いかぶさるように見えた。煙草を点けようと思い、ライターを点けると、いっぺんに明るくなった。後ろの木々の方にライターを当ててみたが、遠すぎるのか、不思議と濃い影のままだった。


 ライターを沼の方に向けてみると、もう少しはっきりと沼を見ることが出来た。沼を見た時、森の方からの音が、耳のそばでなったように、いっぺんに近くなったように思われ、全身が総毛立つような気がした。

 ふと、沼に視線を戻すと、何やら小さな船のようなものが浮かんでいる、なんだろう、と思うと、その船の形をした帽子の下から、ひょろひょろと細長い人のようなものが上体を表し、足を上げ、沼から葦原の方に上がってきた。船のような帽子の下には荒っぽく木を削って、目と口だけつけたような粗末なお面を点けていた。体は今にも折れてしまいそうなほど細い。

 とりあえず煙草を点けて見続けていると、次々と沼に小さい船のようなものが現れ始めた。その小さい船たちも最初のやつの後に続いて、次々と沼から上がって姿を見せ始めた。きづけば、百人、二百人ともつかない数えきれないほどの数の小さな船が沼に現れ、上がってきた。彼らは木道には上がってこず、細い体をこすりつけ合うように葦原でうろうろしていたが、そのうち、沼を背にして葦原を囲うような形になって、一様に片手を手を挙げ始めた。よく見ると、松明のようなものを持っている。赤々とした火がその先端にともると、見る見るうちに広がって、いくらいるともしれない彼らの手には、余すことなく火が掲げられ、周囲を照らし出した。それをさらに足元の葦原に点けると、葦原は炎に包まれた。

 煌々と燃え続ける尾瀬ヶ原に、私は見とれていた。炎を映した沼の水面がちらちらと光る。右奥には、ぼんやりと燧ケ岳がその巨大な山肌を浮かび上がらしている。耳の後ろで、森の中から聞こえていたざわめきが、いっそう大きくなり、ほとんど狂わんばかりになった。

 気付けば、細長い体をした彼らも、葦と一緒に燃え始めていた。特に苦しむでもなく、彼らはお面を日が燃やし尽くすまで、ふらふらと踊るように葦原を歩き回っていた。


 ふと、煙草の火が唇に近くなっていることに気付いた。あわてて手に取り、炎の方に放り投げた。その瞬間、すっと周りは夜の尾瀬ヶ原に戻っていた。私は煙草を触った指の先を少し火傷していた。森からは相変わらず、葉が擦れるような、獣が森を歩くような細かい音がしていた。テントに戻るとよく眠れた。


 次の日、朝テントを閉まって、尾瀬ヶ原に出た。帰路に就こうと、木道を歩くと、途中で焼き切れた細長い葦の葉が、木道にたくさん散らばっていた。もう一度燃え上がる尾瀬を見たい、と思い、火傷した指で唇に触れた。足が痛かった。


夢です(尾瀬に煙草を投げてはいけません)

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