6.逃亡、そして追跡
俺はなんとかバイクまで辿り着いた。まだ追っ手は現れない。もしかすると下で大変なことが起こって、俺のことはもう放置扱いなのかもしれなかった。だがとりあえず、ここを離れるにこしたことはない。俺はキーシリンダーを回すと、十年落ちのCB250で道路の上に乗りだした。一路北へ、N県の外へ。
検問がある可能性に思い当たった。県警は俺を消しにきたのだから、黙って見逃すはずがない。案の定、五キロも行かないうちに渋滞が見えて、その先に検問があることが予想された。どうする。脇道にそれるか、それとも――
と、後ろからヒタヒタヒタという不吉な音が聞こえてきた。俺はバックミラーを見て、危うく気を失いそうになった。『せいんとくん』だ。ニヒルに笑うむっちむちの童子が、ものすごいスピードで駆けてくる。色黒の肌が日差しに映えて、はためく袈裟が仏画でみる、雲に乗った人の衣のように皺をよせてなびいている。いつのまにか、二本のツノの角度が変わっていた。今やそれは深呼吸をする人の腕のように開いて、頭の左右に威嚇的に先端を伸ばしていた。前に検問、うしろに怪物、怪物の後ろには恐らく俺か『せいんとくん』を追う、県警のパトカーが迫っているだろう。やばい。どうする。ここは何食わぬ顔で『せいんとくん』をやり過ごし、怪物の到着で検問が浮き足だったところを突破するしかないのではないか。うん、そうするしかなさそうだ。
『せいんとくん』は俺を追い越しざま、えくぼのある顔を傾けながら、横目で俺の顔を見た。「ちばのひとだ」怪物は言った。ということは、まだ俺の偽装はバレていないということだ。俺はにこやかに微笑んで、怪物に軽く話しかけた。
「君は足が早いね。そんなに急いで、どこへ行くんだ?」
「K市。みなごろし、する」
「そうか。がんばれよ」
「うん、がんばる」
俺は暗鬱な気分になった。やはりこれは殺人マシーンだ。
と、そのとき急に気がついた。バイクの後ろについているナンバープレートには、K府陸運局のKの字が書かれているのだ。それは俺がK府民であることの証明にはならないが、見られないにこしたことはない。俺はほんのちょっとだけ後輪ブレーキをかけて、『せいんとくんを』に迅速に追い越させた。
怪物は俺を残して走り去った。やがて検問のところで大騒ぎになったようだった。恐らく一般の交通課員などは、このモンスターのことを知らないのだろう。つまり、この検問は俺を捕らえるためだけに張られたものだ。よし。
『せいんとくん』が検問を通過して、封鎖の警官が茫然と怪物の背中を見ている隙に、俺はスピードを上げてそのピケットを突破した。走り抜けざま、驚く警官の罵声が聞こえた。とにかくK府だ、K府警の管轄下まで入れば、この地獄のN県警追跡網からは逃れられる。俺は力走する『せいんとくん』の背を見ながら、五十メートルほどの距離を置いてそのあとに続いた。後ろでサイレンが鳴り響き、県警の追跡が始まったことがわかった。この二百五十CCのバイクで、逃げ切れるかどうか。畜生。
ここで俺はあることに気がついた。もし『せいんとくん』がK府民を殲滅するつもりなら、県境を越えたところで仕事にかかる可能性がある。つまり、県境を越えるまえにK府警かU市の自衛隊駐屯地か、そういった防衛力のある施設に連絡をしておかなければならない。いや待てよ、さっき『せいんとくん』はK市に行くといったのではなかったか。そうするとS町やK田辺市、J市はスルーかもしれない。いやしかし、聞き間違い、解釈の違いということも……。
とにかくどこか外部に知らせよう。なるべく早く、県境を越えるか、県警に俺が捕まってしまう前に。俺は顎ヒモをかけたままでメットを後頭部に落とし、左手をハンドルから離して、尻ポケットに入れていた携帯を取り出した。すさまじく反社会的な運転行為なので、こういう時以外はやってはいけない。二つ折りのボディを開くと、液晶画面に先ほどの着信メールがポップアップされているのが目に入った。ワンタッチで内容を表示する。
送信元:都鳥(miyakodori@k****.K-u.ac.jp)
件名:新しい城はどうだい?
本文:きれいな建物で研究できるなんて羨ましいよ。ぼくもあやかりたいあやかりたい。
次に本部に来るときには、西大寺君の様子を聞かせてくれよ。
この教授には、友人とかいないのだろうか。いやそんなことはどうでもよい。俺は左手で返信ボタンを押し、『で』-『ん』-『わ』を押して予測変換候補を探す。思った通り、『電話して』が上位に来た。このまま変換し、即座に送信した。激しくタメ口だが、気にしている余裕はない。
そうこうするうちに、怪物と俺はK府内に入った。さすがに他府県で横暴はできないのだろう、N県警もそこまでは追ってこなかった。『せいんとくん』はこの地点ではまだ、殺戮行為を開始しないようだった。一安心だ。童子は相変わらずツノを左右に振りつつ、ぽっちゃりした肉体に見合わぬ速度で国道を走っている。と、都鳥教授からコールがあった。
「はい、田村です。よかった連絡がついて。大変なんです、都鳥教授」
「あー、うー」
教授は俺のメール文体に文句でも言うつもりだったのか、こちらからまくし立てると混乱したようなうめき声を上げた。
「西大寺教授は亡くなられました。いま、西大寺教授の作った人造人間みたいなのが、K府に、そっちに向かってるんです。いまちょうどK田辺のあたりです。あいつはK府民を皆殺しにするようにプログラムされてるらしくて――」
途端に、携帯の向こうから都鳥教授の哄笑が起こった。
「え? なんだって? 死んだ? 西大寺のやつが? あっはあ、なるほどね、おっほお、それはそれは。やっぱりね、N県でそんなの作ってたんだ。そうだと思ってたよ。で、我が子に殺されちゃったのね、へへ。彼らしいなあ。うんうん、警察と自衛隊ね、わかった。K市に入るあたりでヤバイことが起こりそうなのね? うんうん、わかった。オッケー、準備しとく。じゃ」
通話が切れた。俺は携帯を胸ポケットにしまい、また両手でハンドルを握った。しかし都鳥教授、準備しとくってなんだよ。通報しとくとかではないのか。しかしそれ以上考えるのはやめにした。とにかくこうなった以上、『せいんとくん』の動向を見極めて、できるかぎり被害が少なくなるように行動するのが俺の使命だろう。
やがて道路はJ市に入り、あたりが随分と町めいてきた。道行く人は道路を疾走する巨人を目にして、腰を抜かしたり失神したりした。だが『せいんとくん』は、それら全てを無視して道を駆け抜けていった。まさに疾風のごとき速度である。俺たちはU市に入った。ここでも通行人を脅かす以外に実害はなく、ただただK市を目指して北上していく。
そしてついに怪物は、U市とK市F区との境界をなす小川を渡った。だが、ここでも奴は行動を開始しない。回りが駐車場ばかりだからか。俺の予想では、このへんで大防衛戦が展開するはずだった。配備が間に合わなかったのか。でもパトカーの一台くらい、待ち伏せしててもよさそうなものだ。いやそもそも、『せいんとくん』はなぜ行動を開始しないんだ。F区では田舎すぎて不満なのか。だとしたらどこまで行くんだ。K市の中枢を叩くとか? 市庁舎? 府庁? 古寺? 神社? X文字山? それとも――?
俺ははたと思い当たった。この国道2*号を北へ行くと、最終的にK市駅の近くに出る。そこには有名なKタワーと、ゴッズィラァーが映画の中でアタックした、巨大な駅ビルがそそり立っている。人通りも多いだろう。もしかして『せいんとくん』はそこまで一気に乗り込んで、そこで初めて凶行に及ぶつもりなのか。
それは最初はたんなる疑問だったが、『せいんとくん』が脇目もふらずにこの国道を邁進するのを眺めるうち、確信に変わった。そして事実、そうなったのである。駅近辺の市街地に入り、JR線をまたぐクランクカーブを通過した『せいんとくん』は、S小路通りで国道を外れて、K駅北口バスターミナルに向かった。そこまで武力による妨害などは一切なかった。都鳥教授、いったいあんたはなにをやっているんだ。自衛隊はどこだ。警官隊は。