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4.脱出

 ボリッ、ゴキッ、……

 俺はその一部始終を、長机の上から見ていた。見たかったわけではない。体が動かなかったのだ。子どものころ図鑑で見た『オスを食べるメスのカマキリ』の写真のように、図体の巨大な人間風の生きものが、自らのミニアチュアをむさぼり喰って、食われるほうは弛緩した体を、なすすべもなく相手の口からぶら下げている。おぞましい光景だった。

 モンスターは西大寺教授の体をへそのあたりまで食ったところで、突然食事を打ち切った。打ち捨てられた下半身が、水の中にばしゃりと落ちる。

「あ、あ、あ……」

 俺は腰が抜けていた。『せいんとくん』は俺のほうを見て、またニヤリと微笑んだ。怪物は言った。

「きみも、K府、すんでる、の?」

「あ、あ」

 巨大な体が向きを変えて、水を撥ねたてながらこちらへと這い寄ってくる。

「K府、すんでる、の?」

 その瞬間、俺の中の生存本能が、俺の脳をシフトチェンジした。このグロテスクで恐怖に充ちた状況を、とりあえずあるものとして受け入れることに成功したのだ。俺の思考能力は回復した。

「違う! 俺はK府民じゃない!」

「じゃあ、どこ、なの?」

「千葉! 俺は千葉県生まれ!」

 『せいんとくん』は急に俺から興味を失ったようだ。「ふうん」気のない返事をすると、その顔から笑顔が消えた。モンスターは向きを変え、部屋の隅にある大きな金属ボックスへと向かった。その蓋を掴み、メキャッという乱暴な音をたててこじ開ける。脂肪でふくよかな童子の手が、箱の中から、青と赤の布でできた大きな袈裟を取り出した。

「ふく、ないと、はずかし」

 ちらりとこちらを見て、また一瞬だけニヤリと笑う。俺もひきつった笑顔で返した。もしここに誰か別な人間がいたら、きっとそいつは俺を狂人だと思ったに違いない。

「じゃあ、ぼく、いって、くるね」

 袈裟をまとった『せいんとくん』は、研究所へと続く金属のドアに近づき、力任せに壁からひっぺがした。とたんに床上の水が廊下にあふれて、ざあざあと音たてて流れ去っていく。

 首だけ廊下に突っ込んだあと、『せいんとくん』は廊下の狭さに気づいたらしく、ふたたびこちらを振り返った。

「せまい。とおれ、ない」口が不満げに引き結ばれている。

「おまえ、でぐち、しってる?」

「さ、さあ、そこしか知らないな」

 床の水はこのとき既に、ほとんど残っていなかった。

「おまえ、やく、たたない」

 童子は不満げな顔をして、ドア脇の壁に手をついた。破れる箇所を探しているのだろう。むっちりした手が壁を押すと、壁面をコーティングしている石膏か何かの層が割れて、ばらばらと破片が床に落ちる。だが隠し扉などはないようだ。『せいんとくん』は壁に掌の跡をつけながら、壁伝いにじりじりと移動していった。

 『せいんとくん』がちょうどドアの反対側まで来たとき、俺は大きな賭けに出た。床に残った僅かな水では、もう感電しないと踏んだのだ。自信はなかった。俺は長机から飛び降りると、素早く通路に逃げ込んだ。感電しなかった。通路の中に入ってしまえば、さしあたりあの怪物は追ってこれまい。ちらりと振り返ってみたが、予想に反して、あの怪物はもう、俺がどこに行こうと無関心なようだった。俺は通路を駆け抜けて、逆側のドアにとりつき(幸いにもオートロックではなかった)、それを開けて研究室に転がりこんだ。そこはさっきまでの大惨事が嘘のように、なんとも平穏な佇まいだった。俺は教授のデスクの受話器を取ると、素早く110番を押した。

「N県警です」

「あの、怪物が、えっと」

「はい? いたずらですか?」

「いえ、あの、せいんとくんっていう」

「ああ、S計画関連ですね。少々お待ち下さい。担当の者に代わります」

 受話器からポール・モーリアの軽快な曲が流れ出す。なにを呑気な、こんなときに。

 ブツリという音とともに、中年の男の声が受話器の向こうにあらわれた。

「お電話代わりました。山下です」

 誰だろう。ってか、担当者って何だ。県警に話を通したというあれか。

「えーとですね。ラディカル生物学研究所の西大寺研究室ですが、実験動物が暴れてまして」

 俺の声を聞いて、男の声に警戒するような色が混じった。

「あなた、西大寺教授じゃないですね? どなたですか?」

「西大寺研究室の院生で、田村といいます。とにかく大変なんです。来ていただけますか」

「西大寺教授に代われますか?」

「教授は殺されました。あのバケモノに」

「殺された? 本当ですか?」相手の声が急に動揺した。受話器の向こうのどこかで遠くで、ひそひそと話す低い声が聞こえた。

「それで、あなたは生き残っているんですね」

「あたりまえです。こうやって電話してるんですから」

「そりゃそうか。で、アレはどうしました? 逃げ出したんですか?」

「まだ実験室にいます。大きすぎて、研究所とのあいだの通路は通れないみたいで」

「ハッチは閉まってるんですね?」

「ハッチ?」

「実験室の天井の――」

「ハッチがあるんですか?」

「……」受話器の向こうに、一瞬沈黙が降りた。

「もしもし? とにかくヤバそうなんで、すぐに来て下さい」

「……」

「もしもし? もしもし?」

「……あなた、本当に西大寺教授の学生さんですか?」

「え?」

「どこまで知ってるんです? この計画について」

「いや、俺もさっき聞いたばかりで」

「田村さんとおっしゃいましたね? こちらの名簿にはないものですから」

 このとき受話器の向こうでサイレンを鳴らす音が響いて、すぐにフェードアウトしていった。

「だから、さっき初めて聞いたばかりなんですって」

「みよしのの やまのしらゆき ふみわけて」

「はあ?」

「みよしのの やまのしらゆき ふみわけて」

「なんですか急に。なんでもいいんで、とにかくすぐ来て下さい」

「ひとつだけ質問に答えてください」

「え?」

「あなた、住民票はどこに置いてますか?」

「K市S区です」

 受話器の向こうの声が、ほんの僅か緊張するのがわかった。後ろのほうで、「……おい、K府……」とかいう囁き声がしたようだ。一体何だってんだ。畜生。早く来やがれ。

「K府K市ですね。なるほどなるほど。なるほどね。そこを動かないでください。すぐに署員が参ります」

 できれば逃げたいんですけど。そう言いかけたとき、いきなり通話が切れた。不自然な切れかただった。通話が終わると、急に孤独が身にしみた。この通路の向こうに、恐るべき殺戮マシーンがうごめいているのだ。勝手に逃げようかとも思ったが、アイツが通路を押し広げてまでここにやってくることはなさそうだったので、とりあえず警察が来るまでは、ここに留まることにした。やがて、パトカーのサイレンが聞こえてきた。

 しばらくして、激しい足音とともに警官が踏み込んできた。その数六人。それにボス格らしきコールテンの背広を着た中年の男がいた。彼らはどやどやと研究室に入ってくると、いきなり俺に掴みかかった。

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