3.せいんとくん登場
中は二十畳くらいの部屋だった。入り口のほかに出口はみあたらない。窓もない。壁に添って見慣れない機器がずらりと並び、無造作に置かれたいくつもの長机の上に、各種の実験器具が並んでいる。机のひとつには、A4用紙に印刷された文献がうずたかく積まれていた。床の上には太いコード類に混じって、よくわからないパイプのようなものが縦横に走っていた。そして部屋の中央に、恐るべきものがあった。B級SF映画に見るような、緑色の液体に満たされた培養槽だ。培養槽はそれだけで十畳間ほどの広さがあり、高さは天井につかんばかりだ。槽の中には巨大な幼児、いや太り気味の少年か、が仰臥していた。少年は色黒で、頭からはねじくれた二本のツノを生やしている。ツノは側頭部から真横に生えていたが、生え際から急角度に上方向に曲がって、ノコギリクワガタの鋏のように二本揃って鋭く頭上をさしていた。
「紹介しよう。N県委託の研究生物、Saintくんだ」
「せ、せいんとくん」
「そう。N県の切り札だよ。ボクは十年前から、ここで『せいんとくん』を育ててきた。新設された研究所は、むしろこの実験室の付帯施設なんだ。『せいんとくん』は優秀な生物兵器だ。高い身体能力、人間に近い頭脳、恐るべき戦闘力を持った殺戮マシーンさ」
「教授、そんなものを作っていたんですか……」
「まあ聞け。『せいんとくん』は高度な研究の精華だ。これを発表すれば、世界中の軍需産業からお呼びがかかるだろう。N県に渡すのはこれ一体だけだが、作ろうと思えばいくらでも作れる。火薬の発明に匹敵するイノベーションだよ。ただ、ボクも信頼できる助手がほしくてね。君がやってくれるとありがたい」
「……」
「嫌なら嫌と言ってくれ」
どういうことだ。部屋に入る前、計画からの脱退は許さないと言っていたじゃないか。殺戮兵器。N県の依頼。軍需産業……。そうか。ノーと言えば殺される。そういうことなんですね、教授。
「やります。任せてください」
「よし、それでこそ僕の学生だ」
教授は安心したように微笑んで、それまで手で弄んでいたキーリングを、背広の内ポケットに入れようとした。そのとき俺は、教授が脇の下に拳銃をぶら下げていることに気がついた。やっぱりね。
「いまから君も共犯だ。いや言い方が悪いな。われわれは別に悪いことをしようとしているわけじゃない。県警にも話は通してあるし、そもそもが県庁の依頼だ。むしろわれわれは正義の代行者といっていい」
そうだろうか。
「県警も、県庁も、運命共同体ってことだな。さて、計画に参加するために、ひとつ必要なことがある。君はできるだけ早く、この県に引っ越さなければならない」
「引っ越し? なぜです?」
「『せいんとくん』を操るには、N県民であることが必要なんだよ」
なんだそりゃ。
「え、でも教授はK府内に持ち家を持ってらっしゃいますよね」
「うん。僕も引っ越すよ。県民でなくちゃならないのは、こいつを起動してからのハナシだ。ただその日はもう遠くない」
「じゃあちょっと時間が欲しいです。バイトして引っ越し代を貯めないと」
「ああ、それはN県から出るから大丈夫。予定を組んでくれれば、担当者に言って手配させるよ」
「はあ」
教授はさて、といって培養槽に近よった。緑色の液体に充たされたガラス面を、手の甲でこんこんと叩く。
「じゃあ説明しよう。具体的に『せいんとくん』が何者であるかを――あれ? 培養槽がぬるいな」
「そうなんですか?」
「おかしいな。冷却装置の調子が悪いのかな」
教授は培養槽の脇にある、パイプが出入りする金属の箱に触れた。
「……動いてない。いつからだ? 壊れたのかな。まずいぞ」
教授は太い電源ケーブルを辿って、壁際のコンセントのところまで歩いていく。
「もしかして、ここまで電気が来てないのか? 電気系統はきのう、タイムラグなしで研究所側に切り替えたはずなのに」
「どういうことですか?」
「もともとこの地下研究室には別電源を引いていたんだ。今回あそこに研究所を建てることになったから、電源系をあっち経由に統一したんだよ。でも、重電系がここまで来てないみたいだな。まずいな。培養液の温度が二時間以上十五℃を上回ると、こいつが目覚めてしまうんだが」
「そういえば、来るとき配電盤とかうっちゃってありましたね。もしかしたら、工事が済んでいないのかも」
「計器類は動いてるから、軽電は来てるっぽいんだけどね。君、培養槽のそちら側に水温計があるだろう。何度を指してる?」
俺はなるべく中に横たわる生きものを見ないようにして、培養槽に近寄った。水温計は十五度よりも少しだけ上を示していた。
「十五.四度くらいですね」
「ふむ。気温よりはかなり低いな。ポンプが止まってまだそんなに経ってないのかな。なんにせよ、すぐに関西エレパワーに連絡しよう。このままだと危険だ」
「こいつが起きるとまずいんですか」まずいんだろうなあ。
「この強化ガラスが破られることはないと思うが、一回起きてしまうと、もう一度寝付かせるのが面倒でね。まあ薬で眠らせればいいんだけど、寝相を調整するのが面倒なんだよ」
「なるほど」
「じゃあ、研究室に戻ろうか。電話はいまあっちにしかないんだ」
教授がそう言ったとき、『せいんとくん』のつぶらな瞳がパチリと開いた。巨大な黒目がすばやく動き、一瞬だけ俺と目があった。俺は思わず息を呑んだ。『せいんとくん』は水槽の中で、肉厚な頬をニヤリと歪めた。ドアのところで、教授が振り返った。
「どうした? 早く来たまえ」
「教授、目が、目が開きました」
「なんだって?」
『せいんとくん』は素早く起き上がった。禿げ上がったおでこが水槽の天井に当たって、ごいんと大きな音を立てる。高さが足りないことに気づいた『せいんとくん』は、立ち上がることを諦めて水槽の床を転げ、俺とは逆側の壁に体当たりした。どんというすさまじい音が起こり、激しく攪拌された緑の液体が、水槽の中に淡い濃淡の縞模様を描く。
「大変だ! 麻酔システム作動を!」
教授はそう言って機械のひとつに駆け寄ると、青い大きな丸ボタンを殴りつけた。しかしなにも起こらない。ばんばんと連続して叩いても、やはりなにも起こらなかった。
「それも重電系なんじゃ?」
「しまった。いままで使ったことないから、気づかなかった」
「どうするんです」
「逃げよう。とにかく危険だ。はやくこっちへ――」
教授の言葉が終わらないうちに、培養槽のガラスが破られた。ひどい匂いのする緑の液体があふれ出して、どどっという音とともに床面を洗う。俺は咄嗟に近くの長机に飛び乗った。教授は一瞬立ちすくんだあと、身を翻してドアノブに手をかけた。その瞬間、培養液が教授の足元に達した。
バチリという音がして、教授の体がのけぞった。手足を微妙に曲げたまま、痙攣したように体全体を震わせている。感電したのだ。
「教授!」
俺は焦った。助けにいこうにも、床に足をおろせば教授の二の舞になる。慌てて周囲を見まわしてみたものの、使えそうな棒その他の道具は見あたらなかった。だが、その心配もすぐにどこかへ吹き飛んだ。床に降りたった『せいんとくん』が、四つんばいでのっしのっしと教授のほうへ歩き出したのだ。『せいんとくん』は教授の前までくると、横目で俺のほうを見て、口元だけでニヤリと笑った。
「この、ひと、K府、すんでる、いってた、ね? さっき、ね?」
俺はたまげた。この怪物、人語を解するのだ。巨大な童子は繰り返した。
「K府、すんでる、いってた、ね? よね?」
俺はあまりのできごとに気圧され、思わず頷いてしまった。
「あ……ああ。言ってたよ。言ってた。なあ、『せいんとくん』、教授を水から持ち上げてくれな――」
言いかけたとき、とんでもないことが起こった。『せいんとくん』は教授の体にのしかかると、文字通り頭からがぶりと貪りだしたのである。ボリボリッ、ミチャミチャッと、聞き慣れぬ凄まじい音がした。と同時に、巨大な口から真っ赤な血潮が吹き出して、教授の胴体から下、それと色だけは綺麗だった緑の培養液に、くろぐろとした汚れを広げたのだ。
俺はさすがにぶったまげて、声にならない叫びをあげた。