1.引っ越しのとき
この小説に登場する土地、組織、人物、キャラクター等は、現実世界に存在するいかなるものとも、一切、何ら、まったく、これっぽっちも関係ございません。あしからずご了承ください。
「やあ、君もここを引き払うのか。指導教官が浮気性だと大変だね」
隣の研究室の都鳥教授がいった。日焼けした顔にヤニだらけの歯を剥き出して、ニヤついた顔がいかにも嬉しそうだ。
「ええ、西大寺教授が新しくできた研究所に移るっておっしゃるんで、僕もそこに机もらうことになったんですよ」
俺は山と積んだ研究資料を段ボールに詰めながら答えた。雑談をする暇が惜しい。引っ越しのトラックは今日の夕方に出ることになっていた。指導教官の西大寺教授が移籍すると言い出したのが三日前で、それに合わせて、俺まで大学から出て行くハメになったのだ。もっとも、学籍はここに置いたままだが。
「ラジ研ねえ。よくやるねえ。大学本部にいたほうが何かと有利だと思うけど。ま、きみの教官はちょっとアレだからね」
都鳥教授はくすくすと笑った。失礼な言いぐさだが、西大寺教授がちょっとアレだというのは否定のしようがない事実なので、なにも言い返すことができない。もっとも、この都鳥教授もたいがいの変人だった。というか、この学部の教官はみな変人だといっても過言ではないのだが。
「まあ頑張りなさい。困ったことがあったらメール頂戴よ。指導教官を変えて、こっちでやってくことだってできるんだから」
都鳥教授はそういうと、俺の返事を待たずに学生室から出て行ってしまった。まさか研究室を移るわけにもいかないだろうが、この人が俺に興味を持つのはなんとなくわかる。なんせ、西大寺vs都鳥のライバル関係は学部内でも有名で、研究分野も似通っており、しかもこの五年間で彼らの下についた学生は俺一人なのだ。要は絶望的に不人気な研究室ってやつである。俺が西大寺教授の研究室に入ったのは、都鳥教授に比べていくぶん情熱家に見えたからといういい加減な理由からだった。それが単に年中躁状態であるせいだと気がついたのは、院生になって最初の週のことだった。
理学部付属ラジカル生物学研究所。今年完成した小さな施設で、学内外から何人かの研究者が入ることになっていた。研究領域はてんでバラバラ。教授に見せてもらった名簿を見ると、初期メンバーはかなり微妙で、具体的にいえば、学会の発表スケジュールにおいて、ある一日の午後に全員集められてしまうようなメンツ、まともな研究者は昼であがって街中の飲み屋で交歓会をやり出すようなアフタヌーンに、閑散とした会場でひっそりと発表しているようなオン・ザ・エッジ研究者ばかりという感じだった。西大寺教授の異動を事実上の都落ちとみなす周囲の視線も、あながちハズレているとはいえない。
しかも実は、ある意味では文字通りの都落ちなのだ。研究所は大学のあるK府K市ではなく、南のN県にあるのである。金のない自分は急に引っ越すこともままならず、当面晴れた日はバイクで、雨の日は電車を使ってK市から通うつもりだった。そもそも移動がめんどくさい日には、研究所泊まりでやっていく覚悟である。
荷物をトラックに積みこんで運ちゃんを送り出したあと、俺は西大寺教授の携帯に電話をかけた。
「いま一通り送りました。私は掃除してからそっちへ向かいます。ほかに何か必要な事ってありました?」
甲高い教授の声が携帯から響いた。
「ご苦労さん。それだけでオーケー。受け取りはボクがやっておくよ。ちょっと遠いし、君は今日はもうこっち来なくていいよ。明日直で来ればいい」
「ありがとうございます。じゃあ明日、また」