燈籠流離譚
「燈籠」をキーワードに書きました。
人にあげるために小説なんて始めて書いた。そろそろお盆ですね。
気付けば黒い水面の上を滑るように浮かぶハコの中にいた。一面の夜である。
頭に激痛が走ったが一瞬で蒸発したように消えた。
「――痛っ、ココはどこだって言うの」
何も思い出せない。くすんだ木製の立方体――子供のころのお祭りで見た灯籠流しを思い出した。まるで檜風呂の中にいるようである。内側から見ると木だが、外から見てみると和紙で出来ているみたいだ。淡く光る外壁は、真っ黒な水の表面を怪しく照らす。
既視感のある外見だった。いや、これって。
「……私が作ったやつじゃん」
下手くそな骨組みだ。間違いない。この不器用さは他の誰でもない。適当な感じがあふれ出ている。ひっくり返せばご丁寧に汚い文字で名前が書かれているだろう。
そう、十年以上も前のころだった。
母に連れだされたのだ。大好きな父が死んで、ずっと部屋にこもっていた。アレは五才のころだった。紺の浴衣を着ていたんだった。
「へ!?」
身体にずっしりと重力がかかる。よろけて燈籠の船の縁を掴む。紺色の袖が目についた。
「懐かし! これって! えええ、噓でしょう」
そう、あのお祭りの時着ていた浴衣である。なぜだか、どうしてかわからない。
綻びも何もかもあのときのものである。すっかり忘れていた縫い目の隅まで再現されている。着ていたのは五才の時である。大学生になった私が着るのには無理がないだろうか。
「……よく着れたね」
しかし、懐かしいものである。このおんぼろの船も案外悪いものでもないかもしれない。船の縁に肘をついて、ボンヤリと遠くを眺める。実家には当分帰っていなかった。一人暮らしを始めてから二年。あれだけ恋しかったのに、去年は盆休みすら帰っていない。
流れている燈籠の周囲数メートルしか照らされていない。それ以外に光源はない。乗っている船の発する光は酷く温かい。思わずしがみつきたくなってしまう。
「……?」
真っ暗闇の空気の中では星や月さえも見えない。そう思っていたが、遠くの方で幻のように浮かんでいる小さな点が無数にある。手前が明るすぎてなかなか気付けなかった。蛍ほどの微小な光だった。
「他にも誰かいるのかな?」
自分の夢みたいな現状を踏まえて、ようやくこれからどうなってしまうのだろう。そんな現実的な思考が芽生え始めた。
自他共に認める能天気な私だが、実は何も考えていないわけではない。能天気にも様々なタイプがあるのだ。
さて、どうしよう。自分が作ったくせに、随分居心地の良い船である。ずっといても良いのかもしれない。
私はだらしなく、船の縁に突っ伏した。
******
このままでは何週間も漂流するかもしれないという、ボンヤリとした巨大な危機感が生じ始めたときである。
背後から進む小さな折り紙の船に追いつかれた。形は船ではない、鶴だ。ぐんぐん進む桃色の折り鶴の上にまたがっている。私の船より二倍くらい速い。
少年は私と目が合って手を振った。
「こんばんは!」
とても笑顔が似合う少年だった。パジャマ姿で勢いよく手を振っている。あそこまでのハイテンションは流石の私でもなれなかった。
「こんばんは」
「身体がね、痛くないんです。動くんだ!」
「……そうなんだ」
誰かに伝えたくてしょうがないようである。そんなにも嬉しいのか、お姉さんも嬉しくなってしまう。
パジャマの少年は僕の方が早いでしょと言わんばかりのどや顔で、そのまま通り過ぎていった。
「羨ましくないもんね……」
私は悔しかったが、あの少年の顔を見て言いたいことがないわけじゃない。言いたいことを大人の心で抑えこんだ。
今にも沈みそうなユニットバスに出会ったのは、そのだいぶ後のことである。それは暗闇から突然現れた。前回の折り鶴船や私の船と比べて、全くもって光を発していないである。古いバスタブだ。
これまでこれと言った恐怖体験はなかった。車を運転するのにも交通ルールをキッチリ守る(実は動体視力がゴミなだけなんだけど……)。そんな安全運転な私は事故や事件に一つも巻き込まれること無く、これまで生きてきた――気がする。
でも、そんな私でも明らかに近づいてはいけない。
直感でわかる。勘が鈍くてもわかる。
だって、浮かぶバスタブのおじさんは血まみれだったからである。私でもブラッドバスを見れば絶句する。
「……」
急いでその場にしゃがみ込む。煌々と光る私の燈籠の船が憎かった。バスタブおじさんの真っ赤な船は私のよりもほんの少し早い速度である。
ここは音を発する者は自分か他人しかいない。黙っていればやり過ごせるはずだ。口に手を当てて、狭い立法体の隅にしゃがみ込んだ。
心の中で百秒数える。
あそこには何もいない誰もいない。あるはずなんてない。そう何度も何度も張り裂けそうな心臓を必死に黙らせる。
もう随分時間が経過した。
通り過ぎたのかもしれない。もしかしたらいなくなったのかも。浮かんだ期待に縋り付くように、私は恐る恐る顔をあげて、船の外を見た。
血みどろバスタブおじさんと目が合った。十メートルの距離である。こっちに手を伸ばしていた。
ニヤリと笑われた。
私の口内から音にならない悲鳴が上がる。
心臓が緊急収縮を繰り返して、壊れた蛇口のように汗が噴き出してきた。
「じょひおひおひう」
バスタブおじさんが何か喋った。固まった私はその腕に持っている刃物しか知覚できない。おじさんがおかしいのか、私の耳がおかしいのか、わからなかった。彼の言葉は聞き取れなかった。
彼のバスタブには小さな屠殺場が出来ていた。落ちているのは豚の頭や手脚ではない。今にも沈みそうな小さなお風呂だった。
彼は必死にしがみつこうと私の船に手を伸ばす。
「……嫌」
それでも彼は止めなかった。遅い私の船を恨んでも恨みきれなかった。
私は船に接着した塊になって、身動き一つ取れなかった。
じりじりと近づく彼に、私は為す術もなかった。
「いやあああ!!」
しかし――バスタブおじさんは私の船に触れることができなかった。まるで固くて透明な硝子のようなもので被われているのか、私の船に指一本も触れることができず、
「!??」
汚いバスタブはひっくり返り、無様にも赤いシルエットが黒く塗りつぶされていく。おじさんは口を開くが全く音が聞えなかった。水を掻き分ける音さえも響かない。
バスタブも沈み、おじさんもたぶん沈んだ。
たぶんというのは、限られた燈籠の視界の中ではすぐ暗闇に消えてしまったのと、私ももうこれ以上見つめたくなかったから目を反らしていたためである。
どうやらココは尋常ではない場所であるらしい。
今乗っている船がとてつもなく懐かしいが、船の外はとてつもなく危険な場所であるみたいだ。
それから私はずっと燈籠の隅で震え続けることしか出来なかった。
安心させるかのように現れたお爺さんと出会ったのは、それから随分後のことである。
「――ようやく落ち着いたか」
お爺さんは、巨大な鯨のぬいぐるみの上に乗っていた。お孫さんが作ってくれたものらしい。私が震えて縮こまっている間、お爺さんはベラベラと喋り続けていた。
しかし、船というのだろうか。徳の高そうなお爺さんは、数メートル浮遊する鯨の上にいて、私は見下ろされていた。
「良いもんじゃろう」
「……立派ですね」
お爺さんは昔船乗りをしていたらしい。美味しそうに煙草を吸って、吐いていた。一体どこからあの煙の量がでてくるのかわからないほど吐き出した。ずっと吐いている。とてつもない肺活量なのか、煙を吐き続けている。まるで人間煙突である。
「……」
「どうしたんじゃ?」
「どうやってやってるんですか? それ?」
「お主まだ気付いとらんのか」
「お嬢ちゃんはもう死んでいるんじゃよ。気づかなかったのか?」
「え?」
安心しきった所に転がってきたのは、理解できない現実である。
「あ……あ……」
頭の中に残るささくれが次第に大きくなっていく。まるで栓が抜かれて頭の中の泥水が抜けていくようだった。頭の痛みが思い出したようにぶり返してく。
クラクションが鳴り響く。
「止めといた方がいい。思い出さない方がいい。もちろん、忘れてはいけないよ。痛い思いをさせてすまなんのう」
「あがっ……」
「ワシは正確には元人間じゃよ。ここでバイトしているしがない案内人と言えば良いのかのう。お嬢ちゃんもいろいろな者にあったろう。ごく希に自覚する者もおるが、君は違ったらしい」
「沈んだ人はどうなるんですか?」
「地獄行きだ。船がもろかったのだろう」
「やっぱり船が人によって違うのも理由があるんですか」
「んー」
お爺さんはまた煙草を吸ってしまった。何か答えを考えあぐねているようだった。
「それを言うのは面白くない。沈む者と辿り着く者、多くは二つに分けられるがお嬢さんの場合は特例でのう。特例と言っても結構ある。ま、その船に感謝するのが良いじゃろう。わかっておるわかっておる。一回こっきりでもう使えないからのう。確かにポイントはギリギリ足りておる」
一体誰と喋っているんだ。
首を傾げる私を尻目に、お爺さんは黒い手帳に更々と万年筆で何か記入して、勢いよく払う。そして、私を見てにこりと笑った。
「今度はどんな船かのう」
船丸ごとが泡のようにはじけて、消えた。
私はぎゅっと船の縁を握りしめて、一緒に消えた。
*******
暗黒の世界、瞼を閉じてあげると真っ白な世界にいた。病院である。頭は包帯でぐるぐる巻き。自分の肌が熱かった。
すぐ横の窓辺でうとうとしていた母が飛び起きて、すぐさま私に飛びついた。久しぶりにあった気がした。実家には全く帰っていなかったのだ。それもそうだろう。
泣き喚く母に強く抱きしめられて、私は息苦しくなってしまう。
それでも私はたった一つの事実をいち早く伝えたくてどうしようもなかった。
「……私ね、お父さんに会っちゃった」
想定外のカウンターパンチを食らう。死の淵を彷徨った一人娘が、意識を覚まして最初の一言としては、予想できないものだろう。
母は両手で強く私を抱きしめて、私の耳元で搾り出すように声を出した。
「……お礼言わなきゃね」
そうね。墓参りに行かなければ。あの船の温もりを忘れないうちに。私もなんだか泣きたくなってきた。