安価:選球眼
手を出すべきか、出さないべきか。
全ては決められた時間のうちに判断しなければならない。
頭では分かっているのだ。いつも。
「お客様、すみません。後ろが詰まっておりまして」
「あ、すいません。後でいいです」
ボーイに急かされて、俺は机に埋め込まれたiPadの前から退いた。後ろのスーツ姿の団体客が遠慮なく前に出て、思い思いに今晩の相手を選んでいく。お、この子可愛いじゃん。あれ、エリカちゃん、今日は出てないの? エリカちゃん、他の店に移っちゃったんですよ。えーっ。なんだよ、どの店? それはちょっと教えられなくて…。
酒の入った男達に怖いものはなく、愛想笑いのボーイに連れられて、順に店の奥へと消えていく。
「あ……」
やっと俺の番が回ってきた時、悩んでいたあの子の顔には、『指名済み』のスタンプが押されていた。
「くそ」思わず声に出た。
俺はまた、無意味にバットを振りそこねていた。
店の外に出ると、夏の熱気が服の下に潜り込んできた。午前零時すぎ。ここら辺の風俗店の殆どが入店拒否をする時間帯だ。しばらく歩いて、やっと見つけた深夜営業の店舗だったのに。
昔から、決断力がない、と言われてきた。父親からだ。お前は、選球眼以前の問題だ。バットを振るか振らないか、決めかねているうちにチャンス自体をフイにする。むりやり少年球団に俺を入団させ、休みの度に練習を見学に来た父親は、帰りの車の中でいつもそう俺を叱った。
風俗の指名に失敗してこんなことを思い出し凹む自分が滑稽で、俺は一人虚しく笑った。まあいい。どうせ、人生が上手くいかないイライラが募って、思い付きで繰り出してみた夜の街だ。最寄りから二駅のこの風俗街は、ネオンや照明が思ったよりもまばらで、経験の無い俺にも歩きやすかった。
四年越しの恋人の圭子は、ひと月前に出て行った。他の男に貰った婚約指輪を薬指にはめて。
もともと、何事にも煮え切らない俺に不満を抱いていたのだろう。あの間男は、出会った半年後には圭子にプロポーズをした。野球の話をした事はないが、圭子の選球眼はきっと正しい。彼女はもう二十九だった。
突き付けられた二択に隠された、タイムアップという名の三択目ーーフォアボールという救済は大抵の場合人生には無く、積もるのは後悔だけ。成功がない代わりに失敗もない。そう言えばいくらかマシに聞こえるが、失敗に学ばない人生が空虚なことも分かっていた。
圭子は今頃どうしているだろう。幸せにやっているだろうか? やっていなければいい。汚い本音だった。俺から去って行ったことを、少しでも後悔してくれていれば。
『行動しない人間ほど結果論にすがる』。前に読んだ本に書いてあったが、あれは自分のことだったんだな。
このまま自宅に帰る気にはならず、とはいえ、今から新しい店を探すのも面倒で、小さな公園にふらりと入った。猛暑に寝苦しそうな顔をした象の滑り台を横目に、ベンチに座る。園内には退屈そうな顔をした街頭占いの男が端にポツリと屋台を構えている他は、俺だけだった。
「あなた、悩んでるね」
男が話しかけてきたのを、俺は無視した。
「選べなくて、迷ってるんでしょう」
俺は男の方を見た。驚いたからでも、図星だったからでもない。こんな文句で客を引けると思っている男がどんな人間かを見たかったからだ。
「ほら、当たってる」
男は何を勘違いしたのか、立ち上がり、客用のパイプ椅子をひいた。
「どうぞ、お代は気持ちで結構ですから」
俺は仕方なく、促されるままにパイプ椅子に座った。急にツンとした匂いがして、顔をしかめる。男の髪はボサボサに荒れ、肩に達する長さだった。
ああこいつ、小遣い稼ぎのホームレスだ。
「右手でしたっけ? 左手でしたっけ?」
「手相占いじゃありませんよ」
男は鞄から意味ありげに水晶を取り出し、台座に乗せて手をかざし始める。水晶の表面には水垢がこびりついている。笑いそうになった。商売道具さえこの扱いの男に一体俺の何が分かるというのか。続いて、イラついた。俺なら騙せるとでも思ったのか?
「あなたは、人生の岐路に立っている」
「そうでもありませんね」
ぶっきらぼうに答えた。コイツは、カモとして俺を選んだ。俺はその程度の球ってことか?
「いえ、確かに、岐路に立っている。そしてどちらも選べず迷っている」
「へえ、具体的に何を」
「それはあなた自身で分かっているはずだ」
「そんなの、誰でも言える」
鼻で笑って、俺は立ち上がった。帰ろう。時間の無駄だ。財布から千円札を抜き出して、机に置いた。
「あんた、選んだのか」
最後に聞いてみることにした。
「はい?」
「その立場だよ。あんた、選んでそこにいるのか。それとも、選ばなかったからそうなったのか」
後者だろうと分かって聞く、意地の悪い質問だった。それなのに、男が笑ったので、俺は面食らった。
「もちろん、ここにいるのは私が私の人生を選んだ結果です」
「随分な人生を選んだんだな」
「別に、捨てたもんじゃない」
「そうか、俺なら捨てる」
捨て台詞を吐いて、俺は公園を出た。何故だか無性に腹が立っていた。選択の結果ならどんな人生でも満足だと? 選べることがそれほど偉いと? 頭の片隅では、自分が駄々をこねているだけなのが分かっていた。目の前の男を勝手に見下し、心無い言葉を投げかける。人生に余裕がないのも、汚いのも俺の方だった。
まばらなネオンが目にしみた。最終電車はもう発ってしまっただろう。
歩いて帰るか、タクシーか。
そんなくだらない選択しか、今の俺には残っていなかった。