月光の侵入者
1
今まで明るい光を放っていた月が雲に隠れ、その間を逃すまいとした星が強く輝き出す。
静かな夜
そんな夜の空に突如として亀裂が生じる。
それは鏡に映った虚像の空というわけではなく、亀裂が生じるようなものではないはずだが。
何もない空間そのものが何かの力によって割られ、そこから白い腕が突き出される。
腕は亀裂の縁を掴むと亀裂を拡げるように押し割った。
夜空に生じた亀裂は今は裂け目となり、そこから赤い瞳が覗く。
更に押し入るように裂け目に体をねじ込んだその人影は、ついに裂け目を通り抜け星空の下へと出現した。
空を割り、この世界へと侵入を果たした存在は夥しい数のオベリスクが建ち並ぶ大地を見下ろす。
常識外の侵入者に驚いたのか、月を隠していた雲が流れ去っていき、再び光を取り戻した月がその人影を照らす。
それは月光にきらめく白に近い銀髪と、透き通るような白い肌に月明かりすら吸い込む闇色のローブを纏った子どもであった。
その子どもは何もない中空に立ったまま赤い瞳を細める。
「……オベリスクかと思ったが……あれは城か塔か?」
少し気配を探ってみればそこかしこに人間の気配を感じ、夜だというのにあくせくと動いている。
光もあちらこちらに溢れており、優しい夜の闇を下品に照らしている。
木々のざわめきも、人以外の生き物の息吹も驚くほど少ない。
「なんという世界だ。」
銀髪の子どもはとても信じられないといった様子で、その形の良い唇をわずかに歪ませた。
しかしすぐに目的を思い出したのか、目を閉じ、周囲の気配を探り始める。
人々の雑踏、聞きなれぬ乗り物の音、音楽、ぬるく吹き付ける風、空間に満ちる陰気や陽気……
様々な物を感じ、段々と世界を把握していく。
暫くそうしていたが、目を開けゆっくりと振り向いた。
目的のものを見つけたらしい。
顎のラインで切りそろえられた髪が揺れる。
「ここから一寸距離があるか……」
そう呟くと、こともなげに空を歩き出す。
足をかけるものなど無いはずであるが、そんなこの世界の理など全く気にしないように、悠然と空の上を歩いていく。
月は再び雲に姿を隠し、その異常な光景を見ている者は星達以外はいなかった。
2
「進路はまだ決まらんのか?」
受験シーズンを控え、職員達が忙しなく動き回る職員室。
その一角で進路相談が行われている。
「蘭堂……お前は成績も良いんだし行こうと思えばどこにでも行けるだろう。」
言われた側の少年はバツが悪そうに苦笑いを浮かべている。
「まぁ色々と難しい家庭だってのは判るが……一度ご両親と話してみなさい。」
「はい。」
返事を返す少年の顔は暗い、両親と相談しても無駄だと思っているのだろう。
「じゃあ今日はもう帰ってもいいぞ、お疲れさん。」
そういうと教師は少年の肩を軽く叩き、職員室から送り出す。
生徒を送り出した教師はふぅ、と一息つき手元の資料に目を落とす。
『蘭堂 善』
気が弱い所はあるが真面目で成績も良いので、出来れば望む進路に進ませてやりたいが……そこには問題があった。
教師は先程面談していた生徒の家庭環境を思って渋面を作る。
彼の両親が授業参観や体育大会などに来た事は無い。
家庭訪問の際も受け答えにあの少年への関心をあまり感じられなかった。
それだけではない、彼に対して少しもコストを掛けたくないかのような、そういう酷薄な空気が充満していた。
平たく言えばネグレクトに近いのかもしれない。
去年までの担任はこの状況を放置していたのだろうか?
まだ若い教師は前担任と生徒の両親の無責任に憤り、我知らず拳を握る。
「今度親御さんと話をしないといけないな……。」
職員室から出た少年、善は緊張で凝った肩を回したり伸ばしたりしながら鞄を背負い直す。
三年で新しく担任となった先生は中々いい先生なのだが、こっちの家庭環境にあまり口出しされても困る。
自分は卒業したら働くつもりだし、あの家もこの街も出ていくつもりなのだ。
どこか知らない街で、一人で、自分の力だけで生きていく……考えるだけでワクワクしてくる。
今のあの家も家族も、自分が本当に居る場所じゃない。
あの家を出てもきっとなんとかなる。
あの時とは違って力もあるし、何か働き口も見つかるはずだ。
本当の父さんや母さんもきっと応援してくれる……。
そうやって少年は心の中に燻る不安を見ない振りをして、ひたすら自分の明るい未来と過去の優しい思い出のみを信じた。
小学校の卒業式、運命はゼンからすべてを奪った。
病院で見たその日の夕方のニュースでは、ニュースキャスターが淡々とその事故について報道していた。
「A県✕市で痛ましい事故が起きました、小学校の卒業式に向かおうとしていた一家が交通事故に遭い両親は死亡、男の子は奇跡的に軽傷でした。」
代々続く武術道場を営んでおり武の道に関しては厳しく、普段は無口で不器用だがゼンには愛情を注いでくれた父親。
その父を支え、いつも笑顔を絶やさず誰に対しても優しかった母親。
その両親をその日同時に、唐突に喪ってしまったゼンは世界が一気に暗い闇に包まれたようだった。
そしてその暗闇は未だ晴れてはいない。
保護者を失ったゼンは遠い親戚に引き取られたが、その親戚はゼンが受け取るはずの保険金を目当てに引き取ったに過ぎず、ゼンに対しては必要最低限の事しかしなかった。
「ただいま。」
暗い気持ちで家に帰り着き、一応言ってみるもそれに応える声はない。
家の奥では義母がテレビを見ながら笑う声が聞こえてくる。
自分はこの家では居ないも同然の存在なのだということを改めて思い知らされる。
ゼンは早々に自分の部屋に引っ込んだ。
ゼンの自室は元は蜘蛛の巣や虫の死骸まみれだった屋根裏部屋を無理矢理使えるようにしたもので、その時の掃除も全て引き取られて間もないゼンが自身でやったものだ。
鞄をおろし、制服を脱いでハンガーにかけるとジーパンとシャツ、パーカーの普段着に着替えた。
外を見ればもう夕日も沈みかけている。
自室の布団の上に座り込み、日課の瞑想を始めた。
小さい頃から実の父親の武術道場で鍛えられていたゼンは、瞑想を日課にしている。
深く息を吸い、またゆっくりと吐きながら己の身体の隅々まで気を張り巡らせるよう意識していく。
すると今までささくれ立っていた心も、いくらか楽になっていくような気がした。
ゼンが瞑想を終え目を開けた時には日は完全に沈んで、部屋も闇に包まれている。
瞑想に集中し過ぎたか……時々時間を忘れて瞑想に入り込んでしまう時がある。
悪い癖だが、心がざわついている時はついついやってしまうのだ。
窓を見ればやはり闇に覆われている、しかし、どこか違和感がある。
何かが張り付いているような気がする。
風で飛んだ雑誌か新聞か、そんな所だろうか。
立ち上がって明かりを付け、窓を見れば果たしてそこには何者かがぴたりと張り付いていた。
3
何者かが窓に張り付いている。
普通なら恐ろしくて声も上げたくなる場面だが、張り付いてこちらを見ている人物があまりにも無邪気な、そして爛々とした眼をしていたためそんな気も失せてしまった。
銀髪に白い肌、整った目鼻立ちに悪戯っ子らしい口元……ありていに言えばかなり可愛らしい子どもが赤みがかった瞳を輝かせながらこちらを覗き込んでいる。
窓の下は屋根がある、雨樋なんかを伝って登ってきたのだろうか?
窓を開けようか、警察に通報した方がいいかとても迷ったが、ゼンの積み重ねてきた武術の鍛錬による自信と、相手が子どもという事が後押しして窓を開ける方に傾いた。
窓を開け、少し離れるとその銀髪の子どもはのそのそと部屋の中に入ってきた。
黒いローブのようなものを纏っているようだ、足には何も履いておらず裸足である。
そのまま歩いてきたにしては汚れてもいないようなので、窓の外で脱いだのだろうか。
「オレに何か用かな?うちの学校の子じゃないみたいだけど……。」
目の前の子が強盗だったりする可能性が無いことも無いので油断なく足を少し開き、何時でも動き出せるよう構えながら尋ねる。
見たところ歳はゼンと同じか少し下ぐらいだろう、明るい所で見る彼だか彼女だかはゼンが見た事のある人間と比べても一番の美人と言ってよかった。
唯一瑕疵があるとすれば口元である、その部分がどこか少年のような悪戯っぽさを醸し出しており、おかっぱ気味に整えられた髪型と合わせて見た目の性別を曖昧にさせている。
窓のすぐ近くに立った銀髪の侵入者は物珍しそうにキョロキョロと見回していたが、ゼンの声に反応し目を細めこちらに向けて口を開いた。
「〜〜〜!〜〜〜。」
なんと、とても美しく伸びやかでありながら、どこか歌うような軽やかさも含んだソプラノである。
しかし、内容が全くわからない。
この子の発した言語をゼンは知らないのだ。
顔立ちや髪の色からなんとなく外国人ではないかと察してはいたが、もしそうでも英語なら授業レベルは話せるのでなんとか大丈夫かと思っていた。
だが、目の前の子が話しているのはどうやら英語ではない、のみならず聞いたこともない言語のようである。
「えっと……迷子かな?日本語わからない……よな?エクスキューズミー?」
迷子になって手近な家の屋根に登る人なんて聞いたこともないが、外国人で日本の文化に慣れていないならそういう事もあるのかもしれない。
落ち着いて意思の疎通を図ろうとするがどうやら全く通じないようだ。
「困ったぞ……」
腕を組むゼン、こんな事なら先に警察を呼んでおけばよかったのではないか?
そう考え始めた時だった。
顎に指をあて、何事か考えていた銀髪の子どもが何かを閃いた風に手を叩いた。
人が考え込んだり思いついたりした時の動きは万国共通なのだろうか?
などくだらない事を考えていた所で、目の前の人物が急にこちらに近付いてきた。
少しでも殺気があれば何時でも動けるよう心していたが、その動作にはなんら危ない気配を感じられなかった。
むしろ好意、目の前の外国人はこちらに好意を持って悪戯っぽい笑みを浮かべながら近付いて来る。
どう動いていいかゼンが考えている内にどんどんと。
近付いて近付いて……至近距離、口から息を吐けば相手の顔にかかるほどの距離まで近付いてしまった。
背はゼンの方がいくらか高いようだ。
長い銀のまつ毛やきめ細かく透き通った肌がよく見え、どこか不思議ないい匂いがゼンの鼻をくすぐる。
こんなに可愛らしい子がこんなに近くに顔を寄せてくるなんていう経験は、ゼンの人生では全くない事だった。
その暴威を前に思春期真っ只中のゼンは思考が完全に止まった。
銀髪の子に肩を掴まれ上から押され座り込む形になる。
そして銀髪の侵入者もすっと膝を折り顔を近付けてきて、両者の額がピタと合わさった。
その時、ゼンは何が起こったのか分からなかった。
何かが、ゼンの頭に入り込む感覚。
例えるならヒヤリとした冷気とでもいったものが頭に流れ込んだような、不思議な感覚だ。
どれだけそうしていたか判らない、気が付くと目の前の顔が悪戯っぽく笑って、口を近付けてくる。
「うっ…うわぁっ!」
びっくりしたゼンは思わず尻もちを付き後ずさった。
「ななな……何するんだ!」
その姿を見て銀髪の子どもは口を抑え笑う。
「クックックッ……すまんすまん、我とした事が、つい悪戯心に火がついてしまった。」
驚いた事にその口からは流暢な日本語が聞こえてきた。
4
「日本語喋れるのかよ!」
ゼンは憤慨しながら抗議の声をあげた。
せっかく色んな言葉で意思疎通しようと頑張ったのに、こいつはそんな頑張りを嘲笑っていたのだ!
なんてやつだ!
そう怒りに任せ立ち上がったゼンだったが、いきなり殴り掛かるほど短絡的でもなければ暴力的でもなかった。
むしろ武術を嗜んできたため、暴力に関しては普段は決して使わぬよう自制しているぐらいである。
そんなゼンを前に、銀髪の子どもは言葉を続ける。
「我の名はアルバ、先程はすまなかったなゼンよ。」
どうやら目の前の子はアルバと言うらしい。
外国人だろうか?
やけに時代がかった喋り方をするものだ。
それより気になる事があった、ゼンは名前を名乗ってなどいない。
どうやって名前を知ったのか?もしやこいつはオレのストーカーなのか?
そんな奴を部屋に上げるなど無用心過ぎではないか?確かに自分に下心が無かったかといえば即答は出来ない……。
そう自問自答するゼンであったが答えは出ない。
アルバは立ち上がると自身の黒いローブを手で軽く払い、ゼンと向き合った。
「おぬしの頭の知識を分けてもらった、言語分野だけだから安心せい。」
「知識を、分けて……?」
何を言っているのかわからない。
そんな事が出来るのなら、わざわざ学校で頑張って英語の授業を受ける必要などないではないか。
アルバという奴はどうやらどこまでもゼンをおちょくる気らしい。
「しかし、直前の思考は見えてしもうた……我はそんなにニオうのか?いや、いい匂いと思われてそこまで嫌ではないのだが人それぞれ好き嫌いもあるゆえに……。」
「え……。」
アルバが言っているのはゼンが額を付ける直前に感じていた事、頭の中で考えていた事だ。
まさかそんな事があるはずが……。
「それに可愛らしいだとか、透き通るような肌だとか……我ちょっと面映ゆい……。」
そう言いながら頬を赤く染め、その頬に手を当てながら身悶えするアルバ。
そしてそれを見ながら同様に恥ずかしさで顔が赤くなるゼン。
そんな事まで言い当てられると、もはやこいつは本当にオレの頭の中を見ていると思うしかない。
自分が知らずに口に出していたのだとしたらあまりにも恥ずかしすぎるし、そんな事はありえないと信じたい。
ゼンは漂う桃色の空気を吹き飛ばし、この恥ずかしさを誤魔化すためにもアルバに質問してみる事にした。
「そ……その突拍子もない話を信じるとして、君はなんでここに来たんだ?」
その質問が正鵠を射たのか、アルバは真面目な顔をして応える。
「おぬしに我の世界に来てほしい、こちらの言葉で言えばそう……『スカウト』と言うやつよ。」
「スカウト?それに世界?」
その意味のわからない答えに、やはり危ない奴だったかもしれないと思い始める。
しかし、アルバの顔は真剣そのものだ。
嘘をついている様にも、正気を失っているようにも見えない。
「おぬしの力が必要なのだ、一緒に来てはくれぬか?」
アルバは右手を上げ、ゼンの前に差し出しながら半ば縋るように頼む。
その真剣な表情と決意を込めた声音に、ゼンは少し心が動きそうになった。
が、アルバの言葉が本気だとして、別の世界へ行けたとして、しかし、無理な話だった。
「仮にその言葉を信じるとしても、オレはまだ武術も極めていない、学業だって中途半端、一人前にもなってない。」
「そんなオレが何か力になれるとは思えないし、そもそも危ない事はしたくない。」
「そんなに真剣に頼んでもらって悪いけど……やっぱり無理だよ。」
遠回りだがはっきりと拒絶の言葉を口にする。
気の毒だが仕方ない事だ、仮にアルバの言を信じるとしてだが。
ゼンの中ではアルバがただの頭のネジが外れた子で、アブナい世界に生きている可能性の方が高いと思っているのでやはり拒否するしかない。
「そうか……。」
あからさまに残念そうで悲しそうな顔をするアルバ、目には涙も溜まっている。
「うっ……このままでは我はどうすれば……ううっ!」
と、突然顔を覆って泣き始めた。
「おい!泣いたって無理なもんは無理だ!諦めてくれ!」
焦ってゼンが続けると、アルバはすっと手を下ろし泣き止んだ。
完全に嘘泣きである。
「嘘泣きかよ!」
もう絶対に話は聞いてやらない、そう決めた。
「バレたか……仕方ない。」
そう言うとアルバはまた悪戯っぽく笑った。
「おぬしは知らぬかもしれんが、我々はおぬしに恩がある、無理強いはできぬよ。達者で暮らせ。」
アルバが窓から出ようと振り向く。
最後の言葉を口にしている時のアルバの目はとても優しく、ゼンへの思いやりに溢れていた。
父や母が子どもに向けるような、そういう目だった。
さっきも、もしかしたらゼンが断りやすいように嘘泣きの演技をしたのではないか。
ゼンの心の内に生前の父の言葉が浮かんでくる。
「強く在りたければ、まず優しく在るべし。」
思いやりを忘れた武はただの暴力であり、それを戒める言葉だ。
ふぅと息を吐き、ゼンは覚悟を決める。
目の前のこいつがアブナい奴でもいいじゃないか、もしそうなら放り出さずちゃんと病院に連れて行ってやらなければならない。
もし本当に別の世界に行ったり出来るなら……それもいいではないか。
そもそも卒業したらこの家やこの街から出ていくつもりだったのだ、それが少し早まる……いや、少し早まった上でこの世界からも出ていくというだけだ。
今の家族は自分が消えても多分悲しまないだろう。
よし、決めた!
我ながら甘すぎる気もするが、決してこの子の見た目が可愛いからって訳ではないぞ。
多少なりとも判断の材料にはなっている事も否定はしないが。
そうと決まれば必要な準備をして、両親の墓参りに行って、ちょっとぐらいこの子を手伝ってやってもいいかもしれない。
帰ろうとしていたアルバの背に声をかける。
「待ってくれ、やっぱりオレ……っておい!大丈夫か?」
意を決して顔を上げると、床に蹲ってアルバが苦しんでいた。
一体何があったのか、急いで抱き起こす。
「この……世界…マナが薄……否……存在せん…のか……!」
苦しそうに呟きながら顔を歪めるアルバ、助けたいが何がどうなっているのかわからない。
「大丈夫か!?とりあえず救急車……!」
その時、突然部屋全体が震動を始める。
「おいおい今度はなんなんだ!!」
足元に光が溢れ何かの陣形を形作っていき、それに気付いたアルバが忌々しげに呻く。
「くっ……教団…かっ!」
震動と光はどんどん強くなり、ゼンとアルバを呑み込んでいく。
何一つ見えぬほどの光の奔流は足元の魔法陣の完成により最高潮を迎え――
部屋全体を光で包み込んだ次の瞬間、嘘のように消え去った。
残ったのは裸電球が揺れうごく、主を失ったゼンの部屋のみであった。