胸焼けの正体
セリーナのターンです。
「なんだろう? カラスにしては大きいような」
庭で洗濯物を干していた私は、空を見上げて呟いた。
青い空を一瞬で横切った黒い姿に、なぜか胸が痛む。
「怪我をしたのは脇腹で、胸じゃなかったよね。だったらこれは、何?」
ラズオル国の南にあるベルパ村。
そこで年老いた漁師夫婦と暮らす私には、以前の記憶がない。
二人によると、私は海食洞という波の浸食でできた崖下の穴に、倒れていたそうだ。
「カラスと海は、関係ないし。ただのカラスに反応するとは、疲れているのかな?」
最近たまに、具合が悪くなる。
異常な眠気に襲われたり、熱っぽかったり怠かったり、ひどい時には吐き気がするのだ。
「マーレ、洗濯物を干し終わったら、魚の鱗取りをお願いね」
「はーい」
漁師の奥さんの声が聞こえたので、私は元気よく返事をした。
老夫婦は、私にとって親代わり。
名前すら思い出せない私に、彼らは海を意味する『マーレ』と名付けてくれた。「行き場がないならずっとここにいていいよ」とも言ってくれて、娘のように可愛がってくれている。
だから私は二人の役に立ちたくて、家事を手伝っているのだ。
室内に戻って準備する。
魚は上手くさばけないので、鱗を取るまでが私の仕事だ。
「今日の昼食は魚のスープかな? パンを浸して食べると、美味しいんだよね〜♪」
水を張ったたらいには、赤い魚が入っている。ほぼ毎日新鮮な魚介類が食べられるので、ここでの暮らしは悪くない。
優しい老夫婦のおかげで、記憶がなくても快適だった。
たらいの水に映る自分の顔は、いつものように歪んでいる。
髪は水色、瞳は緑。色はわかるが、顔立ちはよくわからない。借りものの身体にいるようで、なんだか落ち着かなかった。
「実は私、もんのすごく不細工なんじゃあ……」
鏡があれば便利だけれど、「それは貴族が使う贅沢品だよ」と教えてもらった。自分のことすら忘れた平民の私が、どうして鏡のことを覚えているんだろう?
「鏡とカラスに共通点はないよね。でも、カラスは光りものが好きだって、本で読んだ気がする」
私はなぜか字が読めた。
漁村の識字率は低いから、意外に重宝されている。
「でも学んだのって、詩の暗唱とか単語の書き取りとか。……う。考えただけで、気分が悪くなってきた」
余計なことは思い出せるのに、自分の過去はわからない。口にしたせいなのか、本当に胸がムカムカする。
「怪我の後遺症? 助けられてだいぶ経つのに、今頃出てくるものなの?」
脇腹に走るひっかき傷は、すでに完治している。それなら見えないところ――たとえば頭を強く打ったとか?
怪我した私を、訪ねてきた者はいない。
誰にも探されないってことは、嫌われ者だった可能性もある。
「あ、そっか。だからカラス! 生ゴミを食べ散らかすから迷惑しているって、ゴミ収集車のおじさんが言っていたもんね」
知らない言葉が頭に浮かび、混乱してしまう。
「ちょっと待った。『ゴミ収集車』って何?」
やっぱり頭の中も怪我してる?
岩場に強く打ちつけたせいで、おかしくなっているのだろうか?
「ま、いっか。ぐだぐだ考えても仕方がないし」
少し気分が良くなったので、ぎざぎざが付いた鱗取りを用意する。
母親代わりの老婦人は、ナイフで綺麗に取っていた。だけど私は初心者なので、道具の方がありがたい。
「さてと、あとは魚……ううっ」
赤い魚を持ち上げた途端、匂いが鼻腔を刺激する。
耐えられないほどの胸焼けに襲われた私は、慌てて厠に駆け込んだ。
「……ふう、あっぶなかったー。でも、なんで?」
魚は好きだし、獲ったばかりで腐っているとは思えない。
それなのに匂いが鼻につき、吐き気を感じてしまうとは……。
ふらふらしながら戻ったところを、老婦人に見つかった。
「マーレ? おやまあ、顔が真っ青だよ」
母親代わりの彼女が、横になるよう勧めてくれる。
しかし、彼女のエプロンにも魚の匂いが染みついていたので、私は口を手で覆う。
「うっ……」
「マーレ、あんたまさか……」
「ごめんなさい。匂いを嗅ぐとこうなって。でも、つまみ食いはしてません」
「つまみ食い? いいや、違うと思うよ。その症状、見たことがある」
「えっ!?」
まさかこの地方特有の、謎の病気?
それとも崖下の岩場で発見されたそうだから、寄生虫?
「おめでた、だね」
「オメデタ? それは、病気の名前ですか?」
「あら、やだよ。この子ったら」
ポカンとする私の前で、老婦人がクスクス笑う。
匂いに慣れてきたせいか、むかつきは幾分収まった。
「まさかマーレが、お母さんになるとはね」
「お母さん?」
聞き間違いだろうか?
けれど老婦人は、ニコニコしていた。
「子供のいないあたしでも、それくらいは知ってるよ。妊娠中は匂いに敏感になるって言うからね」
「妊娠中? 私が? ……まさか!!」
思わずお腹に手を当てた。
確かにここ最近、全体的にふっくらしてきた気がする。
食べものが美味しくて、たくさんお代わりしたせいだと思っていたのに……。
ここ最近の具合の悪さは、お腹に子供がいるせい?
「じゃあ私、結婚していたの!?」
声に出した途端、母親代わりの老婦人が悲しい顔をした。
その表情を見た瞬間、脳裏に閃くものがある。それはなんと、真っ逆さまに海に落ちる自分の姿だ。
「なっ……」
「マーレ?」
「まさか恋人に捨てられたから、海に身を投げた? ……そんなバカな!」
戻って来た記憶が信じられずに、頭を抱えた。
自分がそんなことをするとは、思えない。
私なら、逃げ出そうとした相手の首根っこを捕まえて、引きずり倒してでも二三発拳を入れて……。
――ちょっと待った。どこからそんな考えが?
自分で自分がわからない。
妊娠しているせいで、気持ちが不安定になっているのだろうか?
「そっか。私、一人ぼっちじゃないんだね」
不思議と不安は感じない。
嬉しいような恥ずかしいような。
老婦人の言葉に刺激されたのか、その夜、久しぶりに夢を見た。
夢の中で私は、真っ黒な影に包まれている。大きく優しいその影は、すごく温かい。
「……ナ」
名前を呼ばれたような気がしたけれど、よくわからなかった。
側にいるだけで幸せで、自ら頬をすり寄せた。
朝になって目覚めた途端、虚しさが私を襲う。
「あれはいったい誰? 私を優しく抱きしめたあの影は――」
――お腹の子の父親だろうか?
新作、始めました。
『私の推しは暗殺者〜限界オタクな王女は不憫な脇役を笑わせたい〜』
ヒロイン、叫んでます(≧∀≦)