挨拶ってなんですか?
「待っ、ままま……」
「いや、待たない」
「ですが、ここ、これは……」
頭の中がパニックで、言葉がすんなり出てこない。
いやいや、ちょっと落ち着こう。
王太子の唇が、たまたま私の手の平に当たっただけかもしれない。
「そのままの意味だよ。私はいずれ、君を妃に迎えたい」
――どっひゃあ~~~!!!
あまりのことに、口をあんぐり開けてしまう。冷や汗が、背中を滝のように流れていく。
恋人だって無理なのに、私がお妃様?
私が王太子妃だと、この国危なくなるよ?
けれど、このまま彼と恋をした方が、命は助かるかもしれない。振り向いてくれない人を想っても、どうにもならないと知っている。
それでも、私は――――。
「……ごめんなさい」
頭を下げると、ヴァンフリードが目を細めた。青い瞳に一瞬、つらそうな光が見えた気がする。
「セリーナ。私が聞きたいのは、そんな言葉じゃない」
再びヴァンフリードの顔が接近するが、私は彼に両手を掴まれているため、抵抗できない。
――いや、できる! 頭突きか頭突き、それとも頭突き?
上体を低くして構えたその瞬間、戸口から低い声がした。
「ヴァン、そこまでだ! 私のセリーナから、離れてもらおう」
「グイード様!」
声だけでわかり、思わず叫ぶ。
すると、ヴァンフリードが舌打ちする。
「……チッ。嫌だ、と言ったら?」
グイードは大股で近づくと、ヴァンフリードを一気に引き剥がす。
「ヴァン、嫌がる女性に手を出すほど、落ちぶれたわけではあるまい?」
「ただの女性ではない、セリーナだよ」
「余計に許しがたい。セリーナは、私の相手だ!」
向かい合い、睨み合う二人。
険悪な雰囲気の彼らに挟まれた私は、何もできずにおろおろしてしまう。
「私のセリーナ」とのグイードの言葉は、ちょっと嬉しい。それだとまるで、本当に付き合っているみたい。
緩んだ頬を引き締めて、彫りの深いグイードの顔を見つめた。彼も私の視線を感じたのか、薄青の瞳をこちらに向ける。
グイードの少し垂れた目じりが笑いじわを刻んだ瞬間、私の心臓は大きく跳ね上がった。
「グイード様……」
「セリーナ、大丈夫だよ。私が君を護るから」
かすれた声のグイードと、見つめ合うこと数十秒。二人の世界に浸っていたところ、根負けした王太子が、ため息をつく。
「はあぁ~~。まさかグイードが、一人の女性にここまで執着するとはね」
「さっきのお前の言葉を、そのまま返そう。ただの女性ではない、セリーナだ」
その途端、ヴァンフリードが悔しそうな顔をする。
「だからこそ、渡したくなかった。今日のところは引くが、諦めたわけではないから」
きつい口調の彼は、私には甘い笑みを向ける。
「セリーナ、またね。グイードには注意して」
「え? それって……」
忠告は、これで二度目だ。
どういう意味かと聞き返そうとした私の肩に、グイードが後ろから両腕を回す。ドキドキした私は、何も考えられなくなってしまう。
「ヴァン、いい加減に戻ったらどうだ? こんなところで、油を売っている暇はないと思うが?」
「グイードこそ。承認すべき書類が、山積みのはずだ」
「終わらせて、今はお前の机にある。早くしないと、オーロフが探しにくるぞ」
皮肉っぽいグイードの声に、ヴァンフリードは肩をすくめた。
「なんでもそつなくこなすなら、あの時どうして……」
「ヴァン、ぐずぐずして私達の邪魔をするつもりか?」
グイードはヴァンフリードのセリフを遮ると、私の耳に頬を擦り寄せた。
後ろから抱きすくめられて、髪にキスを落とされて。グイードの大人の魅力に圧倒されて、今すぐにでも倒れそう。顔が火照って真っ赤になっていくのが、自分でもよくわかる。
「やれやれ。この私に見せつけるとはね。セリーナ、グイードが手に負えないと思ったら、迷わず私のところに来るんだよ」
ヴァンフリードはそう言うと、私の頭頂部にサッと掃くようなキスを落とした。
「ヴァン!!」
「ハハハ。じゃあね、セリーナ」
王太子は明るく手を振り、部屋を出た。
ドアが閉まった瞬間、身体を反転させられた。グイードが、苦虫を噛み潰したような顔で私を見下ろす。
「やはり、ここでは安心できないな」
呟いた後、彼は私を優しく抱きしめた。
グイードとは、ほんのちょっぴり一緒に過ごしただけ。それなのに、飛竜騎士が彼を呼びに来てしまう。
がっかりして肩を落とした私に、グイードがこう提案する。
「セリーナ、良ければまた、飛竜に乗せてあげよう」
「本当? やったあ!! いや、ええっと……ええ、ぜひ!」
思いがけない誘いが嬉しくて、私は首をぶんぶん縦に振る。
グイードはそんな私を見ながら、面白そうに笑っていた。
オレンジのタルト? もちろん、他の焼き菓子と一緒にお土産に持たせてもらった。
結論――グイードはやっぱり、いい人だ。
カラッと晴れたある日の午後、グイードが我が家にやって来たらしい。
兄は城に勤務中で、父は領地の視察中。私は庭を駆け回っていたため、家の中にいるのは母だけだ。
執事に言われて客間へ急ぐと、グイードはすでにうちの母を虜にしていた。
「ふふふ。王弟殿下はお世辞ばっかり」
「いいえ、さすがはセリーナ嬢のお母上。目を瞠るほどに美しい」
「まあ、王弟殿下ったら」
少女のように頬を染める母を見て、なんとなく胸の奥がモヤッとする。
「いずれ家族になるのです。どうぞ、グイードと呼んでください」
「そう。それならグイード様、とお呼びしようかしら」
「光栄です」
微笑み合うグイードと母に、私は戸口から声をかけた。
「グイード様、ごきげんよう。あの、今家族って聞こえた気が……」
「あら、ようやくお出ましなのね。セリーナったら照れちゃって」
グイードの代わりに母が答えたので、ますますわけがわからない。
「それでは、セリーナ嬢をお借りします。正式な挨拶は、伯爵がご在宅の時にでも」
「ええ。お待ちしておりますわ」
挨拶ってなんだろう?
まさか、グイードが私との交際を認めてほしいと、わざわざ言ったとか?
仮にそうなら、非常にマズい。
だって私が彼に付き合うのは、グイードが想う人とくっつくまでの間だ。私達の嘘に親まで巻き込むなんて、聞いてない。
「グイード様、ちょっと」
ムッとした私は別室で話し合おうと、彼の袖を引っ張った。