消えない痛み
5回分まとめて、と宣言したせいなのか、彼はなかなか離してくれない。
「キスだけでこんなになるなんてね。この先を教えたら、どうなるのかな?」
「え? え? この先って?」
思わず手を突っ張って後ずさった私を見ながら、ジュールがクスクス笑う。
琥珀色の瞳で見つめられ、顔は火照るし胸のドキドキも治まらない。これ以上キスが続けば、確実に心臓麻痺を起こしてしまうだろう。
「残念だが、今日はここまでにしようか」
ジュールは紳士で、引き際も鮮やかだった。彼はカードを片付けると、私を部屋の前までエスコートしてくれる。
「おやすみセリーナ、よい夢を。独り寝が寂しいなら、いつでも僕を呼んでね」
これは近頃よく口にする、彼流の冗談だ。
小さな子供じゃあるまいし、暗闇が怖いと言って面倒をかけるつもりはない。
「ジュール様こそ、お一人で平気ですか?」
からかうような口調でやり返せば、彼は一瞬キョトンとした。
してやったりと微笑む私。
するとジュールは、大きな目を妖しく細めた。
「平気じゃないと言ったら? 優しい君は添い寝をしてくれる?」
「……は?」
冗談に真顔で返すのは反則だ。
結婚前の男女が同じ屋根の下ってだけでもどうかと思うのに、同じ部屋で眠るのは……。
「いやいや、それは無理でしょう」
「そうだね。僕も君の隣で、朝まで眠れる自信がない」
謎の言葉を残して立ち去るジュール。
私はいびきをかかないし、ベッドから落っこちた覚えもない。そこまで寝相が悪いと思われていたなんて、心外だ。
着替えてベッドに潜り込んだものの、目が冴えなかなか眠れない。私は寝るのを諦め、自分の唇に指を当てる。
「可愛い顔して大人のキス……。普通、好きでもない相手にはしないよね?」
甘く痺れるキスは激しく、周りの景色がかき消えた。唇から伝わる彼の熱。暗に「好きだ」と言われているようで、胸が切なく苦しくなった。
「私の気持ちはきっと筒抜け。でも、待てよ。ちゃんと言葉で伝えたら? 好きっていっぱい示したら、好きになってもらえるのかな?」
こんなこと、少し前の自分なら考えもしなかった。死なないために適当な相手を見つけ、恋人にしてもらおうと、頭を悩ませていたはずだ。けれど今は彼が良く、他の誰かなど考えられない。
「こんなに好きになるなんて……。前世の私が知ったら、びっくりするかな」
両親の離婚後、父親に引き取られた私は、小学生の時に「ハズレ」と言われて捨てられた。そのせいで男の人が苦手になる。以降も異性に興味はなく、ケンカやバイクを飛ばす方が楽しかった。愛を語るより拳で語るとわかりやすいし、気も晴れる。
「そんな自分が、誰かを想って眠れない夜を過ごすとはねぇ。この世界に転生したおかげで、嫌な思い出を克服できたということか。ま、今の私に言わせれば、父親の方がハズレなんだけどね」
授業参観中、何度も振り向き父の姿を探した。
公園では、迎えに来る親の姿に憧れた。
誕生会を開いてもらったとか、ペットを飼ったとか。嬉しそうに語る同級生が羨ましく、妬ましく思ったこともある。
この世界に来て、ようやくわかった。
機嫌の良い時にだけ子供を構い、たまにしか食事を与えず、邪魔だという理由で捨てるような親は親じゃない。だけど当時は『あたしが悪い子だから父ちゃんに好かれないんだ』と、本気で自分を責めていた。
「ああもう! あいつはどうでもいい。もっと楽しいことを考えよう」
頭に浮かぶのは、もちろんさっきのジュールだ。
彼のカードはちょうど22。限界まで目を開く私を見て、噴き出すジュール。何度やっても勝てなくて、ちょっぴりいかさまを疑った。カードを確認しようと飛びつく私を抱きしめて、彼がクスクス笑う。
『セリーナ。ずいぶん積極的だけど、キスは勝負の後でいいよ』
結局ジュールはいかさまをしておらず、勝ったのは彼の実力だ。騎士団で一番強いなら、ハンデをもらうべきだったかも――。次に勝負をする時は、ぜひそうしよう。
私は口元を綻ばせ、幸せな眠りに落ちた。
――はずなのに。
*****
「嫌、ぶたないで! お腹が空いたし缶詰だし、猫が食べられるならあたしも食べられると思っただけだもん」
「は? 人間がペットの餌を横取りして良いとでも? 大家の猫だぞ。アパートの前に置いた缶詰を、お前が食べていたと苦情が来た。俺がどれだけ恥ずかしかったと思う?」
「それは父ちゃんのせいでしょ。何日も帰って来ないから、食べるものがなくて…………痛っ、つねらないで」
「給食はどうした?」
「今は休みだよ。学校にも入れない」
泣きながら訴えても、父ちゃんは聞く耳を持たなかった。それどころか「だったら休みが明けても、学校に行くな」と言う。あたしが首を横に振ると、父ちゃんは呟く。
「やっぱりハズレだな。妹の方がおとなしくて良かった」
ああ、また――。
どうすれば父ちゃんに「好き」って言ってもらえるの? おとなしくすればいい? 逆らわなければ愛してくれる?
それから父ちゃんは、あたしを押し入れに押し込めた。なぜか空っぽで秘密基地みたいだし、中には水と食料もある。
「父ちゃんが友達を連れて来るから、この中に隠れてそいつを驚かせて欲しい。でも、やつは用心深いから、ちょっとやそっとじゃ驚かない。だから父ちゃんが良いと言うまで、出て来てはダメだぞ」
ただのかくれんぼ。だけどあたしは、この先に起きる出来事を知っている。
押し入れから慌てて飛び出し、声の限りに叫ぶ。
「嫌だ! 行かないで、捨てないで、お願い!」
父ちゃんは振り向かず、汚れた部屋を大股で歩き、玄関のドアノブに手をかける。
「さよならだ。ハズレに構う暇はない」
そんな声が聞こえたような気がした。
どうして? ちゃんと言うこと聞いてたでしょう?
一人でも我慢したし、お腹が空いても耐えた。
それなのにどうして!
あたしは要らない子だったの?
「嫌だ、嫌だ、嫌だーーーーーーーーーー!!!!!」
*****
自分の絶叫で目が覚めた。
心臓の鼓動は激しく、背中に汗もかいている。
「寝る前に前世のことを考えたから? よりにもよって、一番ひどい記憶とは……って、誰?」
暗闇に気配を感じて問いかける。
冷静に考えれば、ここにいるのは私とジュールの二人だけ。
「驚かせてごめんね。声が聞こえたから、急いで来たんだ。セリーナ、大丈夫?」
ジュールがしなやかな動きで歩み寄る。
窓から射し込む月明かりが、彼の整った顔に陰影を落とす。こうして見ると、彼は本当に綺麗だ。
「ごめんなさい。怖い夢を見て、つい……」
謝るものの、心臓はまだドキドキしている。
ベッドに腰かけたジュールが、こちらに向かって手を伸ばす。その動きは優しく、避けようとは思わない。彼の親指が頬に触れ、何かを拭う。
「泣いていたのか。よっぽど怖かったんだね」
確かめるように自分の指を舐める彼の目の前で、私は首を横に振る。
これは決して涙じゃない。
父親とは呼べないあんなやつのために、私が泣くはずないでしょう?
必死に言い聞かせても、まだ胸が痛い。
甦った過去の記憶は、そう簡単に消せるものではないようだ。
「セリーナ。君はこの前、僕の話を聞いてくれたよね。だから今度は僕の番。君の見た夢を教えてくれる?」
彼の優しさに、身体の奥が熱くなる。
私は前世の父の仕打ちを、この世ではまだ、誰にも話していない。そもそも「生まれ変わる前……」と語った時点で、頭がおかしくなったと思われそう。
打ち明けたいけど嫌われるのはイヤ。私は迷い、唇を噛む。
ジュールが両腕を私の背中に回し、優しく包んでくれた。あやすように髪を撫で、かすれた声を出す。
「全部じゃなくていい、話せる範囲でいいんだ。僕は君の力になりたい」
私は微かに頷いて、口を開く。
「小さな私が、父親に捨てられる夢を見ました。それは、こことは別の世界で……」
あくまでも『夢』だと前置きしておく。
ずっと秘めていた心の痛みを、私もまた、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。