屋敷の正体
義兄はそう口にして、再び顔を近づけた。
これって、かなりまずい状況なのでは?
「やっぱり嫌~~っ」
覆い被さるオーロフを、力いっぱい突き飛ばす。
よろける彼に目もくれず、転がるようにベッドを下りて部屋の扉まで一気に走った。
「……待て、リーナ!」
待てと言われて待ったら、確実にアウトだ。背後を振り返る余裕もなく、階段を三段飛ばしに駆け下りる。とにかくここから逃げなくちゃ。
「あら、セリーナ。どうかしたの?」
「なんだ? 騒いでも夕食はまだだぞ」
のんきな両親の助けは、期待できそうにない。義兄に捕まったら最後なので、一目散に外を目指す。玄関の扉に手をかけて、怖々後ろを振り返る。
義兄の姿は見えないから、両親に捕まったのかな?
外に出た後で、馬小屋は反対側の方角だったと気づいた。屋敷をぐるっと回るとなると、たどり着く前に義兄に追いつかれてしまう。今から馬車を出すよう、御者に頼むのも時間がかかるし。
「走って逃げるしかないか」
諦めて、とにかく走った。
王都郊外にある我が家の敷地は結構広く、門までかなりの距離がある。とりあえずそこまで逃げて、それからどうするかを考えよう。ある程度の時間を置けば、義兄だって冷静になるはずだ。
脇目も振らずに走っていたら、はるか前方に白馬が見えた。門衛が通したってことは、誰かの知り合いかな?
馬上の人物が私に気づいたようで、まっすぐこちらへ向かってくる。夕日に輝く金色の髪は――。
「ジュール様!」
「セリーナ、こんなところで何しているの? 今からお宅に伺おうと思っていたんだけど」
白馬に跨がるのはジュールで、着替えて戻ってきたみたい。モスグリーンの上下に黒のブーツという落ち着いた格好をしている。かくいう私は白が基調の腰に青いリボンが付いた楽なドレスで、もちろんコルセットもなし。
さっきうちで別れてから、そんなに経っていない。なのに、彼の顔を見ただけで嬉しくなるのはなぜ?
「セリーナ、どうかした?」
「あの、えっと。私、あ、義兄に……」
情けなくも声が震えた。この後、どう続ければいい?
――私、義兄に告白されて押し倒されました。いや、順番は逆だったかな? どっちでもいいけど、なるべく遠くに逃げて、どこかに隠れるつもりです。オーロフが落ち着くまで、家に戻りたくありません。
ジュールに訴えても、なんの解決にもならない。しかもこれでは、身内の恥をさらすようなもの。彼だって、友人の義妹の口からそんな話は聞きたくないだろう。
ひらりと馬を飛び降りたジュールが、私の目の前に立った。
「なるほどね。危険を感じて来てみれば、そういうことか」
「危険って?」
聞き返すと、彼が口元に手を当てて苦笑する。
「ああ、ごめん。つまりオーロフが怒って、君に手を出そうとしたんでしょう?」
「なぜそれを!」
ジュールったら、どうしてわかった?
私は驚きに目を開く。その時、袖口から覗く銀――プラチナに緑の宝石が埋め込まれた腕輪に気がついた。
そうか、そもそもの原因は腕輪だ。婚約する者同士が、相手の瞳の色を入れた腕輪を交換する習慣があるなんて、私は知らなかったのに。外さずにいたせいで、義兄はこれを見て豹変した。だったら、これさえなければ……。
私はうつむき、腕輪を取ろうと指をかけた。
するとジュールが腕を伸ばし、私の手に自分の手を重ねる。
「ダメだよ。たとえ君でも、僕から君を取り上げるなんて許さない」
かすれた声を聞いた途端、私の心臓が大きく跳ねた。「好きだ」と言われたわけじゃないのに、ドキドキするのはおかしい。それともジュールは、私のことを――好き?
「ジュール様……」
彼の名を呼び見つめれば、猫のように大きな目が細められた。
「セリーナ」
頬にジュールの手が触れて、親指が私の唇をなぞる。
綺麗な顔が迫った瞬間、時が止まるような気がした。
二度目のキスは優しくて、いたわるようで。
「セリーナ、僕と一緒に行こう」
口づけの合間に囁かれるものの、ボーッとしているせいでよくわからない。
「……行くってどこへ?」
ようやくそれだけ口にした。
その直後、遠くで男性の声がする。
「……ナ、リーナ! どこにいる」
あれは……義兄だ!
ジュールにキスされ、甘い雰囲気に浸っている場合ではなかった。早くここから逃げなくちゃ。
一礼して再び走り出そうとした私の手首を、ジュールが掴む。
「オーロフから逃げるんだろう? 僕の家なら安全だ。しばらく滞在するといい」
「はい? 急に言われましても、手ぶらなのでちょっと……」
義兄を避けるというだけで、いきなり家出?
そんなことをすれば、事情を知らないうちの親がびっくりしてしまう。
「必要なものは向こうで揃えればいい。僕らは結婚の約束を交わした仲だ。君のお父上も許してくれると思うよ」
「結婚の約束? だったらこれって……」
目を落とすと、腕輪の琥珀がキラリと光る。どうやらこれは、本物の『婚約腕輪』らしい。
「君の家にはきちんと伝言を届けさせるから、心配は要らない。ほら、おいで」
馬に飛び乗るジュールが、笑顔で腕を差し出す。
私は一瞬迷った後、思い切って手を重ねた。
そこからは、夢を見ているようだった。
白くて大きな馬に乗り、夕日の中を駆け抜ける。ジュールの手綱捌きは安定感が抜群で、しっかり掴まっていれば振り落とされることはない。
彼の屋敷は王都ではなく、結構遠くにあるそうだ。郊外に出てさらに速度を上げたため、回りの景色が飛ぶように過ぎていく。
腰は若干痛いけど、バイクと同じく気分爽快!
楽しくて思わずはしゃぐと、後ろに座ったジュールがクスクス笑う。
「セリーナ、君は本当に得がたい人だ。盛り上がっているところに水を差すようで悪いけど、明日は身体中が痛むかもね」
筋肉痛などどうってことはなく、そんなの日頃の稽古で慣れている。
速駆けで興奮するのは、ジュールが側にいるせいだ。「来て良かった」と口にしたら、彼はどんな顔をするだろう?
夜になり、ジュールはある村で馬をとめた。
彼の屋敷はここよりまだ先にあるらしい。
……ってことは屋敷とは名ばかりで、森の中の掘っ立て小屋?
小さな家でも構わなかった。何も持たずに逃げたため、屋根があるだけでもありがたい。狭い家なら前世でとっくに経験済みだし。
「もう少しかかるから、今日はここで一泊しよう」
「泊まり!?」
「ああ。馬を替え夜通し駆けてもいいけれど、君にはきついだろう?」
ジュールは、慣れない私を気遣ってくれたみたい。野宿だって良かったのに、宿の部屋まで用意してくれるとは。他に空きがなく、ベッドが一つしかないのは問題だけど。
「僕は椅子でも眠れる。君がベッドを使うといい」
「でも……」
「遠慮しなくていいよ。それともセリーナは、僕のものになるのが待ちきれない?」
「なっ……バ……」
窮地を救ってくれた恩人に、バカと言ってはいけない。しかも彼は、私と恋をする人だ(たぶん)。
今日一日いろいろあって疲れた私は、朝までぐっすり眠った。頬に何かが触れたような気がしたけれど、夢かもしれない。ジュールが紳士で本当に良かった。
翌朝、スープとパンの簡単な朝食を済ませ、私達は早々に宿を出る。王都をずいぶん離れたせいで、人通りや馬車は少なかった。まったく見覚えのない景色だけれど、風が時々潮の香りを運んでくるため、どこか懐かしい。
「もしかして今、海の近くですか?」
「そうだよ。もうすぐ見える」
林を抜けると、青い海が広がっていた。道に沿って砂浜が続き、ずっと先にある崖へと繋がっている。崖の上にぼんやり見える陰は、大木だろうか?
「お天気だし景色もいいし、最高ですね」
「喜んでくれて嬉しいよ」
海の見える綺麗な場所で、好きな人との二人乗り。昨日に続き、なんだかデートをしているみたい。
浮かれる私は、ジュールが馬で崖の道を上り始めるまで気がつかなかった。さっきぼんやり見えた大きな陰は、大木ではなく建物だ。崖の上に建つ、海に面したそれは――。
海辺の古城だ。