私の大好きな人
待って。女性を口説くのは、グイード様の挨拶だから。
この流れでお仕置きってことは、やっぱり書き取り?
ノート一冊分『伯爵夫人』と書かせるつもり?
でも、他の女性の存在を疑ったのって、オーロフのせいだ。
「貴方が距離を置いたのよ! 夜だけでなく昼間も。だから好きな人ができたのかなって……」
「ああ。私がお前から離れようとしたのは、事実だ」
ショックを受け、思わずシュンとしてしまう。
「だが、お前の考えとは違う」
「……え?」
「私は、お前の隣で焦る自分にいらだっていた」
「焦る?」
「そう。ゆっくり治そうと言っておきながら、私を思い出さないお前の側にいるのはつらかった。だから離れて、頭を冷やそうとしたんだ」
「ごめんなさい」
「謝ってほしいわけではないし、お前が悪くないのもわかっている。しかし欲を言えば、他の全てを忘れても、私のことは覚えておいてほしかった」
悲しそうな彼の様子に心が痛む。
だけど、全部忘れていたわけじゃない。記憶のない間も、私の心の奥には大切な存在がいた。それが貴方だと、ようやく気づいたのだ。
「セリーナと口にしながら、苦しかった。私が愛したのは、大人のリーナだ」
「リーナと呼んでも構わなかったのに」
「それだとお前が混乱するだろう? ただでさえ、つらい記憶を忘れて子供に戻っていたんだ。けれどお前はこの世界に順応し、ここで暮らしていかなければならない。そのため『セリーナ』と呼ぶことにした。無邪気な子供に『リーナ』はお前だと伝えて、手を出すわけにもいかないだろう?」
う……まあね、確かに。
それにしても、手を出すって――
恥ずかしく、一気に顔が熱くなる。
自分を子供だと思っていた私は「寝室も一緒じゃないと嫌だ」と駄々をこねて、夜もオーロフにめちゃくちゃ抱きついていた。兄だと思っていたから平気で密着し、甘えていたのだ。
手を出してたのって、実は私!?
気づいた途端に青くなる。
大人の今より、子供の時の方が大胆なんておかしいでしょ。オーロフが焦る気持ちもわかるような気がする。
彼の言葉を反芻した私は、ふと気づく。
「今、この世界って……」
「ああ。事情は全て司書のコレットから聞いた。お前と彼女が以前、『日本』という国にいたことも。【私の日本語は、なかなかのものだと思うが?】」
オーロフは最後だけ、流暢な日本語で話した。言葉がわからなかった時にコレットさんを連れて来たのも、彼女に習って私を理解しようとしてくれたのも、彼だった。
「そうだね。さすがはオーロフ、頭がいい!」
「何を言う。お前のためでなければ、こんなに努力はしない。それに、好きな相手の事を理解したいと思うのは当然だろう?」
「当然って……」
甘い言葉を平然と口にするオーロフ。
私は逆で、彼の元カノの事とかは知りたくないかな? もう懲りたし。
「いいの? 私は貴方の義妹のセリーナとは別人で、元々この世界の人間ですらないんだけど」
「以前も言ったはずだ。私はリーナを、今のお前を愛している」
金色の瞳がまっすぐ私を見つめた。
そう言われて、嬉しくないわけがない。
心臓がうるさいくらいにドキドキしたので、私は自分の胸に両手を当てた。
オーロフは私の水色の髪を一房掴み、自分の口元に持って行く。そして笑みを浮かべると、そこに優しくキスをした。
「わ、私も。すっごく愛しているから」
想いを必死に伝えると、彼の顔が嬉しそうに綻ぶ。
「体調が良ければ、すぐにでもお仕置きをしたいところだがな。まあ、あと少し待つのは構わない。治ったら、覚悟をしておくように」
覚悟ってなんの覚悟?
にやりと笑う彼を見て、なんだかすっごく嫌な予感。
それ、絶対に書き取りの流れじゃないよね?
治るの怖くなってきた。このまま引きこもった方がいいような気が……
「ああ、それと。忘れないうちに、書類にサインをしてくれ。終わったら、今夜は早めに休むといい」
もちろん私に異論はない。
オーロフに言われるまま、空欄に名前を書いた。医師の診断書の確認かな?
名前を書くだけで疲れてしまったので、彼の言う通り、今日は早めに寝た方が良さそうだ。
私は夢も見ず、ぐっすり眠った。
それから二週間――。
さすがに身体が鈍ってきた……というより、すっかり回復!
休養も十分だし、いくらでも暴れられそう(?)。
ちなみにお仕置きが実行される暇はなく、忙しいオーロフは今、王都に出掛けている。私のために休暇をとっていたようなものだから、城の職がなくても伯爵家当主としての仕事が溜まっているのだろう。想いが通じた今、特に心配はしていない。
外出する時、彼は私に侍女と護衛を張りつかせた。こんな田舎で襲われるわけないし、鉄パイプか角材さえあれば、自分の身は自分で守れる。
でもこの世界の男どもはクソ強いから、油断はできない。だから私は今日も、庭で引き抜いた棒を使って素振りをしている。わき腹の傷が時々引きつるくらいで、それ以外たいしたことはない。
近くの砂浜を走り込むっていうのも、いいアイディアだと思ったんだけど。侍女のオルガに「頼むからやめてください」と、泣いて止められる。護衛には「花嫁修業の代わりに兵士の修行をしてどうするんですか?」と、真顔で問われた。仕方がないから、素振りで我慢しよう。
古城の庭で棒を上下に振りながら、思いに耽る。
婚約前なので、オーロフと私の寝室は当然別。「私は一緒でも構わない」って、彼は涼しい顔で言うけど、それはちょっと。
私は近頃、夜も一人で平気になった。全部思い出したっていうのもあるし、好きな人に好きだと言われ、安心したからかもしれない。オーロフは、過去も含めて私を丸ごと受け入れてくれた。そのせいか、朝までぐっすり眠れる。
結局私は、この世界に来たばかりの頃も記憶を失くしている間もずっと、オーロフに頼りっぱなしだ。信頼できる彼の側が、一番安らげる。
彼が不在で寂しいけれど、大人の私は弱音を吐かない!
「こんなところにいたのか。ただいま、リーナ。いい子にしていたか?」
夕日を背に立つ男性。
逆光で表情が見えなくても、その声には笑みが含まれていた。
彼は義兄で恋人で、もうすぐ婚約する人。過保護だし、時々私を子供扱いするけれど、それでもやっぱり、私の大好きな人。
「お帰りなさい、オーロフ!」
持っていた棒を放り出すと、私は愛する人の腕の中へ、まっすぐ飛び込んだ。




