穏やかな日々 1
オーロフ視点、続きます。
「兄さま、見て! 今日もぜったい私の勝ちよ!」
セリーナが無邪気にはしゃぎ、私に向かって大きく手を振る。特別綺麗な貝殻が見つかった、とでも言いたいのだろうか?
私達はほぼ毎日、こうして浜辺を散策する。
ラズオルの中でも比較的波の穏やかな、白い砂浜のあるこの場所をセリーナは気に入っていた。義妹は海が好きなようで、毎日同じ景色を見ても飽きる事がない。
今日も波打ち際を嬉しそうに歩き、珍しい貝を見つけて立ち止まる。コレクションに加えるためなのか、拾った貝殻を時々日に透かしては、ウットリ眺めていた。
*****
セリーナの後ろを歩きながら、私はこれまでのことを思い返す。
想いを確かめ合い、恋人同士になったばかり。
甘い時間を過ごした翌日の、突然の馬車の事故。
巻き込まれたリーナは額を切って、多くの血を流していた。ベッドに横たわる青ざめた姿を見た瞬間、身体の底から恐怖がせり上がる。今度こそ彼女を永遠に失うのではないかと焦った私は、頭が真っ白になった。
けれど、鍛えていたことが功を奏したのか、リーナは貴族の女性にしては、人並み以上の体力があったようだ。顔色も良くなり呼吸が安定してくると、医師も私達家族も安心した。
医師は初めこう告げる。
「特に重篤な外傷は見られません。折れた骨や頭の傷は徐々に治るかと。話せないのは、ショックを受けたせいでしょう。すぐに戻ると思われますが、こめかみに少し傷が残るかもしれません」
「いや、生きていればそれで良い。側にいればそれだけで」
眠るリーナを見て喜ぶ私は、自分の浅はかさを知る。
呼びかけても振り向かず、何も映さない瞳。
一緒懸命話しかけても理解されず、手を伸ばせば避けられる。食事もほとんど口にせず、一日中椅子に座ってただじっとしているだけ。
以前のリーナと全く違うその様子は、見ているだけでつらい。愛しい人に名前を呼ばれず、視線も合わせてもらえずに、悶々と過ごす日々。近くにいるのに心は遠く、触れる事さえできなかった。
後日判明したのは、言葉がわからず精神だけが退行しているという事実。
【どうしてここにいるのか、わからないの……】
まず訴えたのが、これだという。
幸いにもコレットがセリーナに面会してくれたおかげで、疑問が解消する。
コレットは彼女に、今はセリーナという名前であることと、私が彼女に最も近しい存在であるということを伝えてくれた。
記憶喪失のようにも思えるが、違う。
彼女にはこの世界の記憶が一切無く、前世の記憶だけが残っているようだ。
ただし6歳までの記憶で、彼女はなぜか自分を幼な子だと思い込んでいる。鏡に映る自分の姿にも、理解が及ばないらしい。
毎日不思議そうに自分の姿を見つめては、鏡に向かって顔をしかめ、引っ張る。その行動は、幼児が鏡に映る自分の顔を、飽くこともなく眺めているようにも見えた。
偽の葬儀後、私は出発の期日を延ばし、コレットから語学を学ぶ。専門医からは、セリーナの治療法を聞いた。
「幼児……というより児童期への退行が見られます。病の治療のためには、ストレスを与えない静かな環境が望ましいかと」
司書のコレットのおかげで、私はセリーナと意思の疎通や会話ができるようになった。何日か経ったある日、覚えたての言葉で話しかける。
【困ったことがあれば、なんでも言いなさい。私がお前を守るから】
すると彼女は、私を澄んだ緑色の瞳で見つめて、こう口にした。
【あなたは、じゃあ……私のお父さん?】
【お父さんとはひどいな。せめてお兄さんと呼んでくれないか?】
その時感じた胸の痛みは、いまだに薄れていない。
しかしそれ以来、彼女は以前のように私を『兄』と呼んでいる。
両親には、セリーナの詳しい病状を説明していない。二人とも愛情深いが、セリーナが異世界の住人であったと話せば、余計に心配するだろう。それだけならまだ良いが、もし奇異の目を向けるような事があれば、私のセリーナが傷つく。これ以上、彼女を苦しめたくはない。
私達は医師の助言通り、落ち着いた静かな環境を探して旅に出た。
王都と自領――伯爵領から、ほぼ均等に線を延ばしたこの場所。地図で見ると、ちょうど三角形の頂点にあたるこの海岸沿いの地で、私とセリーナは暮らしている。この先にある崖の上の古城が、今の住まいだ。
その城は元々貴族の持ち物で、古くとも状態は良くしっかり管理されていた。各部屋の窓から、海が広く見渡せる。そのため、私もセリーナも一目で気に入り滞在を決めた。
だが、実際に住んでみると、セリーナは二階のある部屋を嫌がった。そこは主寝室に最適な広い部屋で、外には白い手すり付きのバルコニーがある。この家で一番綺麗に海が見えるのに、と私は疑問を感じた。
真下が崖となっているため、怖かったのかもしれない。ともかくセリーナは、その部屋の外には決して出ようとしなかった。
――ストレスを和らげるための滞在だ。理由はよくわからないが、彼女の負担を減らそう。
私はその部屋を使わず、主寝室を一階に移すことにした。
この国の言葉や習慣、一般常識や学問を少しずつ教えながら、私はここで彼女の回復を気長に待っている。
*****
「……兄さま? もう、お兄さまったら! 考えこむとすぐにだまってしまうクセは、女の子にモテないからやめたら?」
いつの間にか、セリーナが近くに来ていた。
私は彼女の言葉に苦笑する。
成長途上の彼女は、絵本をよく読み使用人と話し、どんどん言葉を覚えていく。全く話せなかったこの国の言葉を、短期間で達者に操る。
女の子の成長はかくも早いものだろうかと、私は舌を巻く。
それともどこかに、微かな記憶が残っているのだろうか?
それなら、少しずつでいい。
どうか私の事も思い出してほしい――
「だから、それよ! モテなくなってもいいの?」
セリーナは「モテる」なんて言葉を、どこで覚えてきたのだろう?
『モテなくても構わない。私は目の前の、ただ一人にだけ気にしてほしいのだ』
そう正直に答えたら、お前はどんな反応をするだろう?
今日も微笑みごまかして、あの日、指に絡めた彼女の水色の髪を、私はクシャッと撫でた。
「日も落ちて来た。そろそろ帰ろう」
「もう、お兄さまは! 自分がきれいな貝をひろえなかったからって、すねるのはやめてよね!」
言いながらセリーナは、拾った貝殻を入れた小さな袋を片手に持ち、もう片方の手で当然のように私の手を繋ぐ。
指を絡ませるその繋ぎ方は、以前二人で「結婚したい」と両親に報告しに行った時のもの。お前が全て忘れていても、私はあの日あの時を、今でも鮮明に覚えている。
「ほら、またそんなに悲しそうな顔をして! しょうがないから一つだけ、貝を分けてあげるわね」
明るく優しい性格は、以前のお前のままなのに――
「そうか。じゃあ戻ったら、お前の集めた貝殻を見せてもらおうかな?」
「もちろんいいわ。お兄さまだけ。とくべつよ!」
「ありがとう、セリーナ。楽しみだ」
そう言って穏やかに笑う。
今の私は、セリーナの保護者だ。
彼女が混乱しないよう、私はあえて『リーナ』と呼ばない。
愛しい『リーナ』は、私の前から消えたまま。
私にとって特別な彼女に甘く囁いたのは、もうだいぶ前。どんなにつらく耐えがたくとも、子供のように純粋な今のセリーナとの穏やかな日常を、壊す事などできない。
今日もまた、本音を隠して彼女を見つめ、私は笑う。