さよなら愛しい人
「くっっ……」
ヴァンフリードが、つらそうに顔を歪めた。
「あなたを傷つけるためなら誰でも良かったのですよ、あの方は。まさか自分の娘まで標的に入れていたとはね。まあ、私の最愛の人が間接的にとはいえ、犠牲になるとは思いませんでしたが」
淡々と語るオーロフに、誰も返す言葉が見つからない。ミルクに入った毒のせいでは無かったけれど、結果としてセリーナは、王太子を陥れようとする謀略に巻き込まれた。
「国王陛下と側室様の力を甘く見るからだ! 腑抜けとなった王太子の代わりはまだいる。なるべく操りやすい方がいいと……ぐわっ」
喚いた侯爵が、ジュールに蹴り飛ばされた。
国王が側室と組んで、子飼いのオーウェン侯爵やボーモン子爵に実の娘やその友人達を狙わせた、と吐いたも同然だ。
あの場には娘である王女の他に、息子の愛する人がいて、大きな権力を持つ公爵の娘もいた。誰が傷つこうとも、王太子に与えるダメージは計り知れない。
場合によっては、国王自身が政治の場にもう一度、返り咲く事ができる。叶わなくてもどうせ子供はまだいて、王太子も代えがきく。自分に逆らう扱いづらいヴァンフリードでなくとも、良いのだ。
そんな国王や周りの狂気は、国のためにならない。
現段階では推測でしかないが、間もなく裏付けとなる証拠が上がってくるはずだ。早々に玉座から引きずり下ろし、交代させる必要がある。
この場のみな、思いは同じだった。
「連れて行け。こいつらの顔は、見たくもない!」
自身もセリーナに惹かれていたグイードが、指示を出す。
子爵であったボーモンは顔から血を流し、蹴られたオーウェンは顔を歪めたまま、近衛騎士達に引きずられて行った。
後に残ったのはグイード、オーロフ、ジュール。そして、ガックリと肩を落とした王太子。
「オーロフ……。なぜ彼らが犯人だと、そもそもなぜエミリアがあやしいと、睨んだのだ?」
「簡単な事です、グイード様。メモに書かれた文字、たとえ利き手でないのだとしても、筆跡には特徴がありますから。それにメモから微かに、彼女の愛用していた香水の香りがしました。以前、リーナへのプレゼントにしようと、私が尋ねたものです」
きつすぎない薔薇の香りが、リーナに合うと思った。けれどその時の会話がきっかけで、事務官のエミリアに好意を持たれていたとは、気づかなかった。
エミリアには、初めて登城したリーナの案内を頼んだ事もある。そんな彼女が、今回の計画を警告してくれた。だがエミリアを犯人と思い込み、取り調べていたせいで……
――リーナを……愛する彼女を助けに行く事ができなかったのだ。
がっくりとうつむくオーロフに、王太子が声をかける。
「父のせいで申し訳ない。私に反感を持つ者を、自分の側に取り込んでいるとは思わなかった。いや、元々は父にセリーナを紹介し、側室をなじった私のせいだ」
「ヴァンフリード様……。あなたの気持ちも、わからなくはありません。私の大切なリーナは、大変魅力的でしたから。私も何度、彼女を『夜会』に連れて行った自分を、後悔した事か」
言いながら、オーロフが悲しそうに笑う。
「すまない……何度謝っても足りる事ではないが」
ヴァンフリードが、右腕だったかつての部下に対して頭を下げた。
「謝って欲しいわけではありません。けれど、ここで屈してしまっては、あなたを陥れようとする者の思うつぼです。今後もあなたを狙う輩は出てくるでしょう。為政者は綺麗事だけではやっていけません。だがそれでも私はあなたに、この国の王になっていただきたいのです」
「無論、今さら退くつもりはない。父には早々に退位を願う」
「それが良いでしょう。ですがもう、私は疲れました。国王の退位と王位譲渡の書類は、全て揃えて部下に預けてあります。私達の事はどうか、そっとしておいて下さい」
「わかった。だがオーロフ、最後に彼女に……別れを告げさせてもらえないだろうか?」
「私からも頼む。最後に一目だけでも会っておきたい」
次期国王とその叔父に真摯に乞われたオーロフ。彼が苦笑する。
「別に構いませんよ。ただもう、会ってもわからないとは思いますが……」
目を細めたセリーナの義兄――近く彼女と婚約するはずだったオーロフは、彼らを二階の一室へと案内した。
白と水色の明るく可愛らしい一室は、元々彼女の部屋だという。その真ん中にポツンと置かれたお気に入りの椅子に、頭に包帯を巻かれたセリーナが、静かに座っていた。緑色の瞳には、何の感情もこもっていない。
隣には、泣き腫らして目を赤くしたルチア王女が佇んでいる。彼女は兄を見ると首を横に振った。
「お姉様は、もう……」
妹の悲痛な表情を見て、彼は全てを悟った。
王太子ヴァンフリードはセリーナの側に寄り、屈んで彼女の手を握る。
「セリーナ――可憐な私の青い薔薇。君が私を覚えていなくても、私は君をずっと覚えているから。城の陰謀に巻き込んで、本当にすまなかった」
彼の言葉にセリーナからの反応は何もない。人形のようなその様子に、王太子は胸が潰れるような痛みを感じた。
「セリーナ、君を好きな気持ちは本物だ。君とオーロフは、どこか遠くで療養すると聞いた。君には良くなってもらいたい」
想いを映した深く青い瞳で、彼女を一心に見つめる王太子。けれど話しかけられても、セリーナは彼をただ見つめるだけ。
「セリーナ……」
これ以上、かける言葉が見つからない。
なぜこんな事になってしまったのか?
どうして何もわからないのか?
目を閉じ込み上げてくる言いようのない感情を隠すと、ヴァンフリードはその場を離れた。
続いて彼女に近付いたのは、王弟のグイード。飛竜騎士団の団長でもある彼は、セリーナに告白した事もあり、彼女と一緒になりたいと望んでいた。
「セリーナ、私からも良いだろうか。少しでも思い出してくれたなら、君の好きな飛竜に乗ろう。グランもきっと喜ぶはずだ。プロポーズはまだ有効だよ。もしオーロフが嫌になったら、いつでも私のところにおいで」
グイードは低い声で囁くと、彼女を優しく見つめながら、誰もが見惚れる笑みを浮かべた。残念ながら、彼女の心には全く響かなかったようだ。セリーナは先ほどと変わらぬ表情で、静かに彼を見る。
「ちょっと! 二人だけずるいよね? オーロフも最後くらい、僕にも声をかけてよ」
遅れて入って来たのは、近衛騎士団副団長のジュールだった。彼もまた、セリーナに心惹かれたうちの一人である。
「ねえ、セリーナ。君の強さも泣き顔も素敵だったけど、君にはやっぱり笑顔が似合うよ。少しずつで良いから、元の笑顔を取り戻しておくれ」
可愛い顔をぐっと近づけて、彼女に伝えた。
やはりセリーナは反応せず、ただじっと見ているだけ。
「オーロフ、セリーナはずっとこんな調子なの? 少しでも良くなる気配はないのか?」
同い年で学友だったジュールは、オーロフに対して遠慮がない。みなが聞きたかった質問を、率先して聞いてくれた。
「ああ。頭の傷は治りつつあるものの、事故以来、ずっとこんな調子だ。空気の良いところで静養すれば、少しは良くなるのではないかと、期待している」
肩をすくめたオーロフが、諦めたように答えた。心を閉ざしたセリーナに、今のところ回復の兆しは見られない。だがそれでも、自分だけはずっと彼女の傍らにいようと決めていた。
「確か出発は、一週間後だったかな? 犯人確保のためとはいえ、偽の葬儀に協力してもらい、最後まですまない。どこかへ行くというのも、探さないでほしいという条件も承知した。だが、どうか二人とも元気でいてほしい」
「ええ。ヴァンフリード様もどうかお元気で。陰ながら応援しております」
「こんな事を言えた義理ではないが……。彼女が良くなり君が王都に戻ったら、すぐにでも迎え入れよう。重要な職を任せると約束する」
「ありがとうございます。リーナ次第ですが、まあ、考えておきましょう」
うっすら微笑んだオーロフが、差し出された王太子の手を取った。二人は握手を交わす。
「オーロフ、困った事があったら遠慮なく私を頼ってほしい。飛竜ならすぐに駆けつけられるし、力にもなれる。セリーナが元気になったら、直ぐに教えてくれ」
「わかりました。ありがとうございます、グイード様。リーナが元通りになったら、必ずお伝えすると約束します」
オーロフはグイードの顔を見据え、しっかり頷く。
「ねえオーロフ、君は大丈夫? まあ、君ならどこに行ってもやっていけるとは思うけど。だがもし手に負えなかったら、誰か他を頼るといい」
「もちろん。リーナにとって、最善を尽くすつもりだ。心配してくれてありがとう。でも大丈夫。彼女のためにも、弱気になるつもりはない」
「それならいいけど。あまり思い詰めるのは、良くないよ?」
「わかっている。ありがとう、ジュール」
彼はそう言うと、長年の友と別れの抱擁を交わした。
そんな彼らを少しも動かず、セリーナが眺めている。
彼らの方も、その姿を脳裏に焼き付けようと、熱い視線で彼女を見つめた。
「さよなら、私の愛しい人」
呟かれた言葉も、彼女の耳には届かない――