私の愛した……
朝起きたら、隣に義兄の姿は無かった。
「まさか昨日の事は全て妄想?」
一瞬青ざめたものの、胸元にバッチリキスマークのような赤い跡があったので、今度は赤くなる。ふいに甘く優しい記憶が、胸の中に広がった。
私は焦って辺りを見回す。
――大丈夫。誰もいないし、侍女にも気づかれてはいないみたい。今日は絶対に、自分で着替えよう!
義兄は夜中のうちに、自分の部屋へ戻ったのかもしれない。まさか私のいびきがうるさかった、ってことは無いよね? どちらにせよ、家の人に見つからなくて良かった!
朝食の席で執事に尋ねると、義兄は今朝早々に家を出て、城に向かったそうだ。まだ犯人も見つかっていないし、毒の調査で通常業務も中断された。仕事くらい、すぐに片付けておきたいのだろう。
部屋に戻ろうとしたところ、執事が私を呼び止めた。
「セリーナ様、一つよろしいでしょうか?」
「もちろん。何かしら?」
「セリーナ様はもうすぐ、奥様になられるお方。いつまでもオーロフ様のことを、『義兄様』と呼び続けるのはいかがなものかと」
一瞬、昨夜のイチャイチャがバレて、注意されるのではないかと焦ってしまった。違ったのでホッとしたが、執事の言うことにも一理ある。
婚約者や夫を『義兄様』呼びでは、いけない関係みたいだ。最近は頑張って『オーロフ』と言うようにしているけれど、癖でいつの間にか『義兄』に戻ってしまう。これからは気をつけるようにしなくっちゃ。
「ありがとう。気がついた事があったら、また教えて下さいね」
執事に礼を言うと、にっこり微笑んでくれた。お義父様がおっとりしているせいか、この屋敷の人達はみんなとても感じが良い。義兄――オーロフはもちろんのこと、私にとってはみんなが大事!
「ん? だいじ?」
昨日もその言葉を見たような気がする。
どこでだっけ――……
ああ、そうか。
オーロフが持っていたメモに書かれた、子供みたいな字がそうだった。
『だいじなひとにきをつけろ』
「あれ?」
ふと、違和感が生じる。
何か重要なことを見落としているような。
「大事な人って……?」
とりあえず私は、昨日の様子を思い返すことにした。
『オーロフの大事な人って、やっぱり私だったのね~』
『王女のルチアちゃんだとか王太子妃に一番近いベニータ様ならわかるけど、私が死んで得をする人は誰もいない。犯人は、どうして私がミルクを使うと知っていたのだろう?』
ちょっと待って!
もう少し、あと少しで何かがわかりそうな気がする。
オーロフの机に置かれていたという差出人不明のメモ。
『だいじなひと』と書かれた言葉。
毒が入っていたのは、用意されたミルクの中。
昨日実際に行ってみてわかったけれど、ルチア王女の部屋と執務室の隣の秘書室とでは、距離があり過ぎる!
――もしかして犯人が、短時間に移動していないのだとしたら?
犯人とメモを置いたのは、別の人だ。
さっき私が考えていたのって、何だっけ。
『この屋敷の人たちはみんなが優しい。私にとってはみんなが大事!』
そうだ!
何で気が付かなかったんだろう。
義兄――オーロフにとって大事なのは、私だけではない。
ルチアちゃんは王女様でもちろん大事。
ベニータ様は公爵家で身分も高く、王太子妃に一番近い。養女としての私の受け入れ先でもあるから、彼にとっては大事な存在だ。
あの毒が私を狙ったものではなく、誰でも良かったのだとしたら?
たまたまミルクを使ったのが、私だった。でも犯人はまだ諦めず、彼を陥れようと画策しているかもしれない。あのメモは、予告ではなく警告。
だとすると――
「大変! オーロフが……周りのみんなが危ない!」
私は城に向かうため、すぐに馬車を用意してもらった。
ベテランの御者は両親と一緒に外出したようで、まだ戻っていない。
こんな事なら義兄――オーロフに乗馬を習っておくんだった。この世界にバイクがあれば、すぐに飛ばして行けるのに!
仕方なく、手の空いている青年に御者を頼む。窓から顔を出した私は、経験が浅い彼を「早く、早く」と急かした。城へ向かう途中、何台もの馬車とすれ違う。
街中に入ると道が石畳へと変わる。
城まであともう少しというところ。
突然、前方に男の子の姿が――!
その子を避けようと、御者はとっさに手綱を引く。
馬が暴れて馬車が横転、真っ暗になった。
大声で叫ぶ青年と、集まって来た町の人々。
泣きじゃくる男の子の声が聞こえる。
――ああ良かった。助かったのね?
閉じ込められた空間に横たわる私。額に生温かいものを感じるが、身体が動かない。眼前に広がる血は赤く、鉄の匂いだ。けれど怪我をした自分より、彼のことが気にかかる。
私の愛した彼は、無事でいるかしら?
「オーロフ……」
私はそのまま、何もわからなくなってしまった――
*****
モノクルに傷がつくのは珍しい。
日々忙殺され、手入れを怠ったからなのだろうか?
私――オーロフは替えのモノクルを取り出すため、引き出しを開けた。
ここ最近多忙の上、事件まで起こった。
結婚後もこの調子では、さすがのリーナも不安がる。もっと一緒に過ごすため、仕事量を調整しよう。強く見える彼女だが、本当はとても寂しがり屋だから。
リーナの事を考えると、心が和む。昨夜の赤く必死な姿は、想像以上に可愛かった。
少し震える柔らかな肌。最後まで身を任せてくれるのかと思いきや、結婚するまでダメだと言う。そんな慎ましいところに、好感が持てた。
だが本音を言うと、血の通った生身の男としては、いささかつらい。
まあ少しずつ、教えていくしかないだろうな。
仕事中だというのに、彼女を想い口元が緩む。いかん、余計なことを考えず、気持ちを引き締めよう。
ただでさえ、セリーナは昨日命を狙われた。
あのまま二度と会えなくなったら……
考えただけで、心臓を握りつぶされたように感じる。
リーナは私の全て。
その言葉に偽りはなく、たとえ世界中の全てを敵に回したのだとしても、お前が幸せであるならそれでいい。お前を傷つけようとする者に、容赦はしない。
城の陰謀や駆け引きから、守ると決めたのだ。
「オーロフ様。犯人と思われる人物の取り調べですが、いかがなさいますか?」
「予定通り行う。当分誰も入れないでくれ。ヴァンフリード様には後から来ていただくよう、伝言を」
「はっ」
後に私は、この行動を悔やむことになる。
黒幕がわかっても、取り調べに意味は無かった。
なぜ人払いを命じてしまったのか? なぜ彼女に、屋敷から一歩も出ないよう伝えておかなかったのか?
今さら言っても詮無き事だが、悔やんでも悔やみきれない。
叶う事ならもう一度、あの夜にあの朝に戻って、やり直したいと思う。
私の愛した彼女。
大切に慈しんだリーナは、今はもう、どこにもいない――――