ゴースト・ウォッチング
湿りきった暑苦しい夜は、怖い話を見るのが相馬の習慣となっていた。窓を開け放ち、部屋の電気を消し、寝転がってスマートフォンの光る画面をまさぐる。古典的な納涼と最新の電子機器がなんともミスマッチだが、クーラーや扇風機は付けっぱなしで寝ると酷く寝覚めが悪いから、これで意外と有効なのである。
怖い話というのは、数ある物語のジャンルの中でも群を抜いて粗製乱造が激しい。おそらく、他の物語と違い、ほとんどの怖い話はひと夏で使い潰されるために存在するからだろう。話が似通っていても、全く同じでさえなければそこそこの恐怖を味わえる。きっと恐怖は、感動だとか笑いだとかと違って本能に根差した原始的な感情だから、簡単に反応してしまうのだ。
それでも、さすがにひと夏で何度も繰り返し似たような話を読んでいると、いい加減うんざりしてくる。何か新しい刺激が欲しくなる。
そんなとき、ふと彼の心に思い浮かんだのが「呪術」だ。要するに、こっくりさんだとか、丑の刻参りだとかいうもの。怖い話よりも一歩踏み込んでいる。しかし、相馬は別にオカルトを信じているわけではないものの、そういったことをするのは少し抵抗があった。なんとなくだが、触れてはいけないもののような気がするのだ。怖いというより、薄気味悪さ、ムカデやナメクジに対する感情に近い。
しかし、いつもよりもなおたちの悪い部屋の空気と冷める気配の肝が相馬の背中を押した。「呪術 やり方」で検索して、適当なサイトを探す。彼の求める「適当なサイト」というのは、いわゆる本物っぽくなく、いかにも「肝試しに使ってください」とでも言いたげにおどろおどろしい演出をしているサイトだ。
開いてすぐに真っ黒な背景と赤黒い文字が飛び込んできたサイトに目をつけ、下にスクロールしていく。どれもどこかで見たようなものばかりだが、相馬はその中でもひとつ、気になった単語をタップした。
その呪術は、「ゴースト・ウォッチング」という名前らしい。漢字やひらがなが多い呪術名の中で、英語をそのままカタカナにしたこの名前は明らかに浮いている。赤黒い筆字も不自然で、どこか滑稽ですらある。明らかに肝試し用に作られたネタみたいな雰囲気が、相馬は気に入った。
「ゴースト・ウォッチングとは」
シャーク・ウォッチングというのをご存知ですか? 名前の通り、バード・ウォッチングやホエール・ウォッチングなどと同じ系統のものです。しかし、他のそれとは決定的に違うものがあります。それは、対象との「距離」です。シャーク・ウォッチングは、海中にある檻の中に入って、鮫を見るのです。同じ海の中、檻の中から指一本でも出したらどうなるかといった圧倒的な近さ。多くの参加者が求めているのは鮫の泳ぐ姿などではなく、スリルです。
ゴースト・ウォッチングは、言ってみればそのようなものです。テレビの向こう側、話の向こう側を見ているだけでは満足できない、間近で霊を見たいという人向けの降霊術です。実行者は、檻代わりの結界に入り、餌代わりの言霊で霊を呼び寄せます。
なお、万が一事故にあった場合、当サイトは一切の責任を負えませんので、ご了承ください。
何が「一切の責任を負えません」だ、問い合わせ先も載せていないくせに。と、心の中で冷やかす。どうせこのサイトだって、事故が起きたら自分が訴えられるなんて思っていない。そもそも訴えたとして、オカルトを根拠に勝てるわけがない。これはあくまで、まさに「スリル」の演出。
茶化しながらでもないと、まともにやってられないだけというのは相馬も自覚していた。怖い話が好きなのは、彼が人一倍怖がりだからだ。
「ゴースト・ウォッチングのやり方」
【必要なもの】
・ガムテープかマジックペン
・鏡(少なくとも顔全体が映るようなサイズが望ましい)
【手順】
・部屋の中心にガムテープかマジックペンで円を描いておく。できるなら簡単には消えないマジックペンがよいが、部屋を汚したくないならガムテープでも十分可。
・鏡を部屋の外に置いておく。風呂場の鏡等でもよい。
・部屋を真っ暗にする。
・部屋を出て、鏡を見てしっかり自分の顔を確かめる。
・部屋に戻り、円の中に入る。
・「こちらへどうぞ」と何度か唱える。
・うまくいけば、迷い込んだ霊の姿を見たり、もしくはポルターガイストを体験したりできるかもしれない。
・円の中を出た後は、もう一度鏡を見て自分の顔を確認する。そして「自分はあなたか」と問いかける(このときの一人称・二人称は自由)。違和感がなければ問題なし。
【注意点】
・円は自分がその中に入って立てるくらいの大きさで描く。
・「こちらへどうぞ」と唱えた後は、二時間は円から出ないこと。退屈がつらければ、事前に携帯等を持ち込んでもいい。
・ただし、心霊現象が起きたら、しばらくの間は携帯の画面を閉じ、口を閉じてじっとしていること。
・最後に鏡を見て、もし自分の顔でないような気がしたら、すぐお祓いをしてもらうこと。
ちらりと時計を見やる。時刻は零時を少し過ぎたあたり。家族は珍しく、もう全員寝静まっている。やるなら今だと判断した相馬は、するりと廊下に出て電気をつけた。そのまま慣れた忍び足で階段を降りて洗面所の電気をつけ、居間に入りガムテープを掴む。ついでに、洗面所の鏡でしっかり自分を見つめておく。順序は少し違うが、相馬は手早く終わらせたかった。彼はまだ、三時まで起きていたことは人生で数度しかない。
自分の顔を見るためだけに鏡を見るのは初めてかもしれない、相馬はぼんやりと鏡の記憶を振り返った。鏡に映る自分はいつも何かをしていた。大抵は歯を磨くか髪を整えるかのどちらかだ。思い返しているうちに自分の顔が変に見えてきてしまいそうで、彼は早々に身を翻して自室に向かった。
慎重に自室のドアを閉めてから、これもまた慎重にガムテープを張っていく。こんな奇怪な行動を家族に見られたらと思うだけで肝が冷える。エロ本が見つかる方がまだマシだ、いや分からない、必ずどちらかは見られるとしたらどっちがマシだろうとくだらないことを考えている間に円は完成した。
その中に入り、スマートフォンを見て、相馬は電気を消し忘れていたことに気づいた。消してから再度円の中に入り、光る画面を消すと、完全な真っ暗闇が眼前に迫ってくる。その圧迫感によろめくと、もう円の中にいるかどうかも分からない。慌ててもう一度スマートフォンの画面をつけて、円の位置だけ確認する。そして、今度こそ円の中心にしっかりと立った。
次は、いよいよ霊を呼び寄せるという段階まで来ると、相馬もさすがにわずかな躊躇を覚えた。喉に引っかかって、言葉がなかなか出てこない。またあの感覚だ。自分は今から触れてはいけないものに触れてしまう。
「……こちらへ……どうぞ」
一度、唱える。変に潰れたような声が、部屋の静寂にかき消された。
「こちらへ、どうぞ」
二度目は一度目よりもずっと簡単だ。声がすっと喉を通る。
「こちらへどうぞ」
三度目はもっと大きな声になる。暗闇から跳ね返ってきた自分の声が妙に怪しく聞こえて、相馬は口をつぐんだ。無音が目の前に立ち現れ、彼を見下ろした。今度こそ相馬は何も言えなくなった。今、音を出したなら、その瞬間に扉が荒々しく開き化け物が襲いかかってくる、そんな想像が脳にこびりついた。
とはいえ、それは相馬にとっていつものことだ。怖い話を見ると、いるはずもない何者かに怯えてしまう。そのとき読んだ怖い話に出てきた幽霊とかではない。「何者か」は、細部は違えど、いつも決まった姿をしている。白装束で、ちぢれた黒髪を振り乱し、その髪の間から見える目は黒で塗り潰されている。そして奇声を上げながら、早送りのような挙動で、自分を掴む。……掴んでどうする? そこまでは分からない。ホラー映画でその先を見せることはほとんどないから。
要するにそれが、自分にとっての怖いもの詰め合わせセットなのだろう。相馬は、いつからか自分の心に住み着いたこの化け物をそう解釈していた。
彼は一旦、目を閉じた。こういう状態になると、もう部屋のどこを見てもあの化け物を空目する。目を閉じた状態でポケットをまさぐり、スマートフォンを取り出した。瞼の裏から光を確認して、ようやく目を開ける。この光だけ見つめていれば、化け物は見えようがない。
何を見るというわけでもなかったが、相馬の指はおのずとツイッターを開いた。なんでもいいからこの世界に自分以外の人間がちゃんといることを確認したかったのかもしれない。課題をやっている人、絵を描いている人、これから寝ると書き込んでからまた何度も書き込んでいる人、ツイッター上にはこんなにも多くの人がいる。それはそうだ、時計を見ればまだ零時半。人々がそろって寝静まるような時間ではない。家族だって、普段は起きているような時間だ。
ほっと一息ついて動画でも見ようかと考え始めたそのとき、相馬は足元にかすかな違和感を覚えた。何かに掴まれているとか、そういう露骨なものではなく、ただ足がフローリング以外の何かを踏んでいるというだけの、本当にかすかな違和感。特に何も考えずディスプレイの光を足元に向けてしまうくらいには。そして見えたのは、ガムテープを踏んで、円から少しはみ出た自分の
ドサッと音がした。
理解よりも先に体が動き、足を引っ込めてディスプレイを消した。荒くなる息を必死に抑えて細切れの呼吸をする。心臓はどこで脈打っているか分からない。
今の音は何だ。何かが落ちた音だ。何が落ちた、どうして落ちた。確かめようにも真っ暗にした部屋では何も見えない。先ほど見ていたスマートフォンの光の残像だけがふよふよと場違いに浮いている。
なるほど、これが「ゴースト・ウォッチング」の狙いということらしい。携帯を持ち込んでもいいというのも、考えてみれば変な話。つまりは、暗闇に慣れさせないことが重要だったのだ。二時間もあれば何かの拍子で音が鳴る機会くらいいくらだってある、そして携帯を閉じてみれば、後に残るのは真っ暗闇。……それに、こんなに暗ければ、気づかないうちに円から出てしまうことくらいある、そこで「やばい」と思わせるわけだ。こういう肝試し系呪術のルールには、破らせるため存在しているようなものがある、これはその類だ。
メタ的な分析もどきが、悲しくなるくらい虚しい。それで、なぜ物音がした? なぜ一歩も動いていないのに円からはみ出た? 何も分からない。分からないから今こうして、真っ暗闇の中で口を閉じてじっとしている。あの説明には「しばらくの間」とあった。なんだその曖昧な表現は。相馬は心の中で悪態をついた。獣の吐息のように湿った空気が苛立ちを強める。
気が狂いそうになりながらも素直にしばらくじっとしてみた相馬は、ある程度冷静になり、このままでは時間の経過を知るすべがないことに気づいた。どうやって二時間経ったと知ればいい。二時間半後くらいにアラームでもセットしておけばよかった。どうする、このまま夜が明けるまで過ごすつもりか。そんなバカな。
もう物音はしていない。霊の姿が見えるわけでもない。相馬は意を決してスマートフォンを再び付けた。デジタルなアナログ時計はもうすぐ午前一時を差そうとしている。あと一時間。気が遠くなる。
本当にやり切るのか、と相馬は自問した。誰が見ているわけでもないのに。オカルトなんて本当にあるはずはないと知っているというのに。相馬は、急速に自分の熱が冷めていくのを感じた。
もう、適当に終わらせてしまおう。
数十秒ほど存分にためらってから、相馬は円を踏み、部屋の電気をつけた。確認してみると、机の上に置いていた教材が落ちている。もともとバランスが悪かったのであろうことは、机の端にまだ残る歪な教材の山が物語っていた。ほら、やっぱり。相馬は誰に向かってか得意顔をした。
階段を降りて居間に行き、電気もつけず冷蔵庫からお茶を取り出して飲む。特に何も考えず行った動作で、相馬は自分の喉が随分と渇いていたことに気づいた。怖がりなのに、あんなことをすれば当然かもしれない。
電気をつけた後、なんとなくテレビもつけた。少し下品な感じのバラエティ番組がやっている。今時子どもが夜更かしするなんて珍しくもないのに、どういうわけかこういう雰囲気の番組は決まって深夜にやる。そのくせ、夕方ごろのバラエティ番組だってお笑い芸人は平気で下品なことを言う。それが行き過ぎると「ゴールデンですよ!」なんて突っ込みが入り、それでまたどっと笑いが起きる。くだらないな、なんて思ったが、冷静に今の自分を見つめ直すと笑えない。
相馬は最近、こういう番組であまり笑えなくなってきたが、それでもしばらく見つめた。テレビの向こうの華美な騒々しさは、先ほどまでの恐怖心を和らげてくれる。
コマーシャルに入ったところでテレビを消し、あえて電気は消さずに居間を出た。そのまま自分の部屋に戻ろうとしたが、同じく電気がついたままになっている洗面所の鏡がどうしても気になった。「ゴースト・ウォッチング」はもうやめた、終わったはずだが、どうしても最後の行程を外してはならない気がして、足を止めてしまう。
洗面所の外から鏡を見る相馬には今、自分の横顔だけが見えている。それを見つめていると、また心臓が変になる。早く鏡を見て、自分に異常がないと確認してしまいたい。でも、それでもし自分でない誰かの顔が映ったら? ……何を考えている。そんなことありえない。
相馬は、やっと自分が急に「ゴースト・ウォッチング」をやめた理由に気づいた。ルール違反をした不安から、それが他愛もない肝試しだということにしてしまいたくなったのだ。オカルトを認めたくないかたと、オカルトから逃げた。それじゃあ結局、認めてるのと同じじゃないか。
早歩きでずんずんと鏡へ向かい、そしてじっと自分を睨んだ。
「お前は僕か、お前は僕か、お前は僕か!」
違和感はない。
相馬は素早く鏡に背を向け、飛び込むような勢いで自室のベッドまで走った。もう音が立つことなど考えられなかった。タオルケットの薄さが無性に不安に思えて、わざわざ布団を引っ張り出してきて、裸になってくるまった。力強く布団を握りしめていると気休め程度の安心感を得られる。そんな状態でも目をつぶっていると眠くなるもので、淀んでいく意識を受け入れているのか拒んでいるかも分からないまま相馬は夢の底に沈んだ。
そして相馬は、随分と長い間夢に迷い込んだ。それでも内容は詳しく覚えていないのだが、とにかく何かから逃げている夢だった。
目が覚めたときは、仮死状態から生還したような気分だった。外は雨のようで、夜が明けていないと勘違いするほど部屋が暗かった。あまりの寝苦しさと心臓の騒音に二度寝する気などまったく起きず、相馬は気怠い様子で布団をのけた。
しかし、起きようとしても身体が重くてうまく動かない。布団に押し潰されていたからと考えたが、どうもそういう類の重さではない。立ち上がるとくらくらしてうまく歩けないし、喉は痛いし、咳も出る。
完全に風邪だった。
休みの連絡は母に入れてもらい、結局相馬は二度寝を強いられることとなった。熱は三十八度六分。インフルエンザ以外ではあまり経験したことのない高熱を、彼は昨夜の行動と結び付けずにはいられなかった。
真夏だというのに毛布にくるまって寝たからだ、と頭は考える。しかし心はすでに、「どの段階がまずかったのか」ばかりを考えていた。足が円からはみ出たからか、二時間を待たずして円を出たからか、それともほかに何か、間違えた手順があったのか。熱でまともに思考ができない今、心の中ばかりが騒がしかった。視線は無意識のうちに床の円に向かう。いわゆる霊、が、部屋の中を飛び回っている、そんな妄想が相馬の中を占領していた。遅いのは分かり切っているのに、彼らから逃れたいと、円の中に入りたいという思考を止めることができない。
相馬は這いずりながらベッドから出て、円の中に身体を押し込めた。惨めな気持ちで胸が苦しくなる。その中にほんの一欠片、確かに安堵のような感情が混じっていることに気づくと、一層惨めになった。
ノックの音で目が覚めて、自分が今まで寝ていたことに気づいた。体中が痛い。床で寝たのだから当然だ。しかも、相馬はきっちりと自分の体を円の中に収めていた。自分の小心にもはや自嘲の声が漏れる。
母が起こしに来たのだ、と気づくのにさえだいぶ時間がかかった。きっと昼食だろう、と思っていたら、母は扉越しに「夕食はいる?」と聞いてきた。
下に降りて熱を測ると、七度五分にまで下がっていたので、とりあえず何か食べることにした。母は、作り分けが面倒だからと家族分の雑炊を作って夕食とした。食欲はなかったものの、口にしてみると意外にもすいすいと食が進んだ。醤油の味付けが全身に染みわたるように感じられる。
「体調はどう?」
不意に母から質問が飛んできて、相馬はうろたえた。
「え、僕?」
「……? そりゃ、そうだけど。何、どうしたの、まだ寝ぼけてる?」
寝ぼけていなくても、突然主語もなく質問されたら、つい聞き返すくらいのことは普通じゃないかと思ったが、何も言わなかった。事実自分は寝起きであり、多少なりと寝ぼけていることも確かだろう。
「だいぶよくなった。明日はたぶん、学校行けると思う」
「そう? でも一回あれだけ熱出たんだし、気をつけてね」
ん、と短く返事をしたものの、相馬は明日になれば完治しているだろうと踏んでいた。根拠はないが、「一直線に快調へ向かっている」という感覚を得ていた。その後彼は、雑炊を二杯平らげ、軽くシャワーで身体を洗ってから自室に戻った。
しかし、しばらくするとまたあの恐怖と妄想が湧き上がってくる。部屋の中に何かを見てしまう。冷静になって見てみればただの人形や文房具、椅子等にすぎない。しかし嫌でも鼓動は速まり、やがて耐え切れなくなった相馬はベッドから転がり落ちるように円の中に入る。だいぶ平常通りの思考ができるようになった頭でも、その行動を抑えることはできなかった。
馬鹿か、お前は。あの説明には「こちらへどうぞ」と唱えてから二時間とあったじゃないか。つまり、二時間も経てば霊は部屋から出て行くということだ。百歩譲って霊の存在を信じるのだとしても、今のお前の行動は、今お前が見えているものはおかしい。
空虚だ。相馬は円の中で丸くなって震えた。
次の日には、相馬の予想通り熱が引いていた。一晩中眠れず、円の中にいたにも関わらず。しかし治ったものは治ったのだし、どういうわけか体の調子もよかったので、彼は学校に行くことにした。ずっと円の中にいたから取り憑いた霊が払えたのだ、と信じると気が楽になった。
登校中の揺れる電車内でも、授業中でも、相馬は寝なかった。欠片の眠気すらなかった。病み上がりだというのに、身体はむしろ活性化していた。いつも寝ている数学の時間に、「相馬、お前何かいいことあったか?」と聞かれたほどだ。
だが、彼はそれを疑問に思わなかった。というより、それ以上の疑問が彼の中で渦巻き、そちらに疑念を割く余裕がなかったのだ。
同級生が皆揃って自分を奇異の目で見てくる。
確かに彼はほとんど風邪を引かない。それに、授業中は寝ることが多い。今の彼が、普段とは少し違うのは事実だ。
しかし、そういう類の目だとするには少し無理がある。そうだとしたら、いくらなんでもあんな薄気味悪いものを見るような目をするわけがない。
話しかければ応じてくれるが、決して目を合わせてはくれない。それは相馬の友人でさえ例外ではなかった。授業が終わるたびにトイレに入り鏡を見て自分の顔を念入りに調べた。しかし、どうしても相馬にはおかしな点が見当たらなかった。結局その目線に耐えきれず、いつも一緒に弁当を食べているグループからは離れて、授業にしか使わない古めかしい教室で一人食べることにした。
弁当をつつきながら、相馬は原因を考えていた。取り憑いた霊でも見えているというのだろうか、同級生全員? そんなわけがない。だいたい今体調がいいというのは、取り憑いていた霊がいなくなった何よりの証じゃないか。いや、そもそも幽霊なんているわけがない。なんだそれは。お前はどこに立っている。
扉の開く音がして振り向くと、同じクラスの三森が弁当を抱えて固まっていた。根暗でいつも一人でいる印象のある女子だ。ここでいつも食べているのかと思うと憐憫の目を向けたくなったが、今の自分の状況を鑑みてやめた。
やがて三森が黙って扉を閉じようとしたので、相馬は思わず引き留めた。
「おい待ってくれ! ちょっと、三森!」
「ご、ごめんなさい、邪魔して。すぐ出てくから」
「だから、待てって言ってるだろ! 話を聞いてくれ!」
「ごめ、それは、したくない、ごめん」
扉を開けようとすると、三森は必死で扉を閉めようと抵抗した。やがて力で勝つのは無理だと悟ったのか、扉から手を離して逃げ出した、扉がけたたましい音を鳴らして開く。
「なんで! 朝からみんな僕のこと避けてるのと関係あるのか!」
三森が何か知っている様子だったものだから、相馬もまた必死になった。ほどなくして、伸ばした手が彼女の三つ編みを掴んだ。幸いここはまだ人通りが少なく、怪しまれることはない。
「痛っ、や、やめて! 離して!」
「逃げないって約束するかっ?」
「分かった、分かったから!」
相馬が手を離すと、三森は涙目でへたりこんだ。
「それで、なんでみんな僕のこと避けてるんだ」
三森が質問に答えずにうつむいているので、相馬は「おいっ」と急かした。過剰と思えるくらいに身体を大きく震わせると、ようやく彼女が顔を上げた。
「……相馬君、本当に自分じゃなんでか分からないんだよね」
「だから聞いてるんだろ」
三森は怯えきった目で相馬を見つめた。
「じゃあ、その、それは、わざとじゃあ、ないってことだよね?」
「頼むから、焦らさずはっきり言ってくれ。何がどうなってるんだ」
「別に焦らしてる、とかじゃないけど、だからさ、ええと、何から言えばいいのかな」
「何でもいいから早く説明しろ!」
相馬は彼女の肩を掴んで大きく揺さぶった。「ひっ」と小さく悲鳴を漏らすと、彼女は激しく抵抗して彼の手から抜け出した。逃げる、と思った彼は追いかけようとしたが、突然彼女は振り返った。
「だからっ、ごちゃごちゃしててわけわかんないの! その薄気味悪い笑みやめてよこっちまで気が狂いそうになる!」
え、と声だけ漏れる。
三森の言葉を脳に収め終わると、力がふっと抜けて、膝が震え始めた。
「……笑み?」
「やっぱり気付いてなかったんだね」
「う、うそだ」
三森は、心底呆れたようにため息をついた。
「嘘じゃない。今も笑ってる」
「だ、だって、鏡を見たときには、何もおかしくなかった」
「……おかしくなかった、で、笑ってなかったの?」
覚えていない。
あれだけ何回も見たのに?
「それと、相馬君さ。一人称『僕』だっけ?」
数瞬後、相馬は今度こそ膝から崩れ落ちた。
俺だ。僕は、俺だ。
「相馬君って、感受性鈍いんだね。幸せなことだと思うよ、それ。普通の人ならもう発狂してたっておかしくない」
三森が心底蔑むように言った。しかし相馬は、視界がチカチカと明滅するほど凄まじい量の思考の処理に追われ、返答する余裕がなかった。生きるためにひゅうひゅうと息を漏らすのがやっとだった。
腹の底を何か、百足のようなものが這っているようなおぞましい感覚に、喉まで酸が上ってくる。それは、今にも腹を食い破って出ていこうとしている。
「それじゃ」
三森は短く声を発すると、踵を返して歩き出した。
「待って」
相馬はわけもわからず、ただそれだけを訴えた。生存本能に近いものが相馬の喉を震わせた。三森は、それを聞いて走り出した。
しかし、相馬がダンッと大きな音を立てて立ち上がると、彼女は固まって頭だけを彼に向けた。
「わかった。わかったから。やめて、お願い、ね?」
「うん」
三森が子どもをなだめるように言うと、彼もまた素直にうなずいた。
「それで、どうしてそうなったの? 分かる?」
「たぶん、ゴースト・ウォッチングが原因だと……」
「そのゴースト・ウォッチングって何? こっくりさんみたいなやつ?」
「たぶん? その、ホエール・ウォッチングみたいに、幽霊を観察しようってやつで、やり方は、ええと」
「ああ、いい。ググるから」
三森は彼の言葉を遮り、スマートフォンを取り出した。ちらちらとせわしなく相馬の様子を伺いながら、しばらく画面をいじっていたが、やがて疲れたようにため息をついた。
「……ごめん、やっぱり説明してくれる? 検索しても関係なさそうなのしか出てこない」
「あ、ああ、分かった」
相馬は一昨日の夜を思い出しつつ、ゴースト・ウォッチングのルールを説明した。そして、自分がルールを違反したことも。説明をすればするほど三森の顔は難しくなっていき、それを見るたびに彼の説明はつまった。
「……とりあえず、やばいやつだっていうのだけは分かった」
「や、やっぱり、そうなのか。……どう、すればいいかな?」
「近くのお寺でお祓いしてもらいなよ」
「そ、そうか、お祓い……」
それは駄目だ。
「家に来てくれ」
「は?」
反射的にそう頼んでいた。
寺社はまずい。絶対によくないことが起こる。それはただの直観にすぎない、しかし相馬の中では確信に近いものだった。そして、寺社を頼ることができないとなれば、次に頼れるのは彼女しかいない。きっとそういうことだ。
「三森は、霊感みたいなのがあるんだろ。家に来てくれれば、何か分かるかもしれない」
「冗談でしょ。何で相馬君の家に行かなきゃいけないの。だいたい私が行ったって何にもならない」
「頼む。お願いだ。三森しか頼れる人がいないんだ!」
「だから、お寺に……分かった、分かったよ。放課後ちゃんと行くから」
「今!」
「はっ?」
「今来てくれ!」
三森は、驚愕で塗り固められた顔でしばらく微動だにしなかったが、やがて眉は八の字に歪み、歯をカチカチと鳴らし始め、腰が砕けたようにふらふらと後ろに倒れた。
「や、やだ」
「そこをなんとか、頼むって!」
「やだっやだやだぁああぁぁっもう許してぇ!」
突如として髪を振り乱しヒステリックに叫ぶものだから、相馬は思わず顔をしかめた。
「そ、そこまで嫌がることないだろ」
「もう限界! 限っ界! 無理! 付き合いきれないっ!」
「静かにしてくれよ、人が来たらどうする!」
三森の口をふさぐと、彼女のヒステリーはすぐにやんだ。が、相馬の指はよだれでべとべとになった。
相馬は自分も興奮状態にあることに気づき、一度深呼吸をした。それから、しっかりと彼女の顔を見る。ただ、彼女は頑に彼と目を合わせるのを拒んだ。
「それきりで終わりだから。俺の部屋を見て、それで何も分からなくてもいい、とにかくお前に一回見てほしいんだ」
「……本当に、それで、終わり?」
「約束するよ」
三森は深く迷っているようだった。もうひと押しか、と思った相馬は、三森の手を掴んだ。
「なあ、お願いだから」
「っ分かった、……自分で行くから、手を離して」
「うん」
相馬は胸をなでおろした。
三森の手を離すと、彼女は不意に過呼吸気味になり、「うぅぅーっ」と呻くように泣いた。床に手をついてじっとしているので、相馬は彼女がこのまま吐くのではないかと心配になった。
「どうしたんだ、大丈夫か?」
「ううん、なんでもない……早く行こう……」
立ち上がった彼女は、ぼろぼろと涙をこぼしていた。その後、歩きながらティッシュを取り出し、目と手を拭いたのを見た。
それから二人は授業中の静かな学校を抜け出して、駅まで歩いた。人気のない電車の、誰もいない車両に二人で座る。
「……俺、今も笑ってるのか?」
「笑ってるよ。絶え間なく」
相馬は、薄気味悪い笑みをたたえながら真剣に頼みごとをする自分を想像して、気分が悪くなった。
それからは一言も会話を交わさず、家の最寄り駅に着いた。少し歩くとすぐに見慣れた自分の家が見える。
「あれだ、俺の家」
「そう……」
相馬は、すっかり疲労困憊した様子の三森を不思議に思いながらも家に入った。この時間帯、両親は仕事に出ている。なぜこんな時間に帰ってきたのかと彼は少し困惑したが、すぐに思い出した。彼女に自分の部屋の様子を見てもらうためだ。
――なんでそんなことを忘れていたのだろう。あんなに必死になってまで三森を家に連れてきたのに?
「俺、やっぱり、少しおかしくなってるのかな」
「うん、そうだね。少しね」
不自然な間の後、三森は決して目を合わせず彼に同調した。
「いっそ、包丁でも振り回してくれればね。分かりやすいんだけど」
「縁起でもないこと言うなよ、そんなの最悪の事態じゃないか」
「そうかな……今よりは、……」
そう呟く彼女の声は酷く乾いていて、相馬はぞっとした。お前も霊に取り憑かれているんじゃないか、と問いたくなったが、尋常ではない彼女の様子に結局は黙ってしまった。
家に上がって、まず相馬はリビングに入った。
「先にお茶でも飲むか?」
「いや、別にいい。それで相馬君の部屋は?」
「二階にあるけど」
しばらく沈黙が続いた。
「……はい、そう、二階ね。じゃあ案内してくれる?」
「ああ、分かった」
階段を上り、自分の部屋の扉を開けようとしたところで、「待って」と三森が小声で言った。振り向くと、彼女は今まさに命を賭しているかのような形相をしていた。
「ゆっくり、開けてもらっていい?」
「あ、……ああ」
相馬はその表情に気圧され、彼女の言う通り、むしろやりすぎかと思うくらいにゆっくりと扉を開けた。三十秒くらいかけて、ようやく扉が完全に開く。
「それで、どう――」
振り向くと、そこに三森はいなかった。
慌てて階段を下ると、彼女が玄関の扉を開けるところが見えた。
「おい、待て!」
これでは間に合わないと半ば諦めつつ家を出ると、彼女は意外にも家のすぐ近くでしゃがんでいた。
「どうしたんだよ一体?」
「みないで……」
驚くほど低い声に、相馬は後ずさった。何か彼女にまでよくないものが取り憑いたのかと思ったが、彼女はただ単にうずくまって吐いていただけだった。胃液ばかりが下水に流れていく。朝食も昼食も食べてないのか、と相馬は思った。
やがて三森は、口元を抑えつつゆっくりと立ち上がった。やや背を丸めているので、相馬を見る目が睨んでいるように見える。土気色の顔と口から滴る胃液とが相まって、本当に何かが乗り移っているかような風貌だ。
「あの、悪いんだけど、水かなにかくれない?」
「? 分かった。じゃ、来てくれよ」
「いや、もうあの家は無理。それだけは無理。ごめん、持ってきて」
「……分かった。待っててくれよ」
彼女の口ぶりに胸騒ぎを覚えつつも、相馬は家に入り直し、水をコップに入れて持ってきた。彼女はそれを受け取ると、しばらくじっと見つめてから、やがてほんの少しだけ口につけた。
「そんな少しだけでいいのか?」
「うん。……申し訳ないけど、あなたの家のものを、そんなたくさん身体に入れたくないから」
「……俺の家、今そんなまずいのか」
「家自体はそうでもないけど、あなたの部屋が相当まずい……あ」
何かよくないことを言ってしまったかのように、三森は飛び退くような勢いで後ずさった。それきり相馬を見据え、何も言わない。
「……どうまずいんだ、それ」
最初は彼女の言葉を黙って待っていたが、やがて痺れを切らして次の言葉を催促した。
「あの、ここで話すのも何だから、カフェとかで話さない?」
「なんで」
「ほら、話すと長くなるし、今、日が照ってるし」
「嫌だ。手短に話してくれ。結論だけでいい」
「い、いきなり結論を話すと、ほら、ショックが大きいでしょ。そうすると、なんていうか、霊に付け入る隙を与えちゃうっていうか」
霊感のあるらしい三森が言うのならそうなのかもしれない。「霊」という単語が相馬を脅した。しかし、それでも彼は、無性に今聞きたくなった。理屈ではないが、今聞かなければ機会を永遠に逃してしまうような気がしたのだ。
「頼む。今言ってくれ。そうしたら、本当の本当に、終わりでいいから、もう俺に付き合ってくれなくていいから」
「……本当? それ、本当に相馬君が自分で言ってる?」
「言ってる意味がよく分かんないけど……俺は相馬だよ」
三森はしばらくの間、相馬の顔をじっと睨んでいたが、やがて力尽きたかのようにうつむいた。
「……まあ、いいよ。私も、相馬君がなんでそんなに今聞きたがってるのか分からないけど、あなたの第六感を信じるから」
彼女は彼を見つめて、大きく深呼吸をした。
「円があったよね。相馬君の部屋」
「え、ああ、うん」
「あれが結界代わりの円だっけ?」
「うん」
「あれ……は、確かに、結界だよ。だけど、あれは……
霊を中から外に出さないための結界」
その瞬間、全身という全身の鳥肌が立った。どっと冷や汗が噴き出す。視界がぼやける。どろりとした血が体内をぐるぐると回り、それに合わせて腹の底を這う何かが踊る。
そんな。
「つまり、どういうことかっていうと」
俺は、だって、ずっとあの中に
「あの結界の中には、誘い込まれた、そこら中の『よくないもの』がひしめき合ってて」
じゃあ、俺は、ずっと
「今も、あなたの身体を……まるで、蛆みたいに」
「ぐぇっ ぎぇ」
変な声が出た
「え」
「あリがとう」
「ああ、うん、……え?」
礼を言った
「やっと 消せた」
女は、信じられないという目で僕を見た。
「もう いいよ 帰って」
まだ女は、僕を見ている。
「俺は相馬だよ。俺は相馬、だよ? よく分かんないけど、俺は相馬だよ? ぎぃぃぎひっ ひぃっ」
「あ、……、私、馬鹿だ、ああ」
女は腰を抜かして泣きじゃくった。濡れていて酷く臭う。そのまま這っていった。もう俺を見ることはなかった。ぐぃ
さようなら
さようなら
夕暮れを歩いて丑三つ時
炎の下の路を
溶けていなくなる
さようなら
誰が残ってる
雲の上 海の下
世界は夢と希望に 溢
こ に美しい
ああ、も 終 りか
腐肉 雪が気持ちい
誰が残 てる
も 誰 残って な
次は誰にしよう?