第八話 二日連続
「はっ……はっ……」
物陰に隠れて壁にもたれ掛かり、自分の鞄を抱き締めるように両手で持ち座り込んでいる。
「どこだーい、可愛い子ちゃん」
近くで男のこの状況を楽しんでいるようなそんな声が聞こえる。その男以外にあと二人の足音が耳を刺す。見つかればもう逃げることは出来ないだろう。
(……どうして、こんな……。ただ普通に帰ってただけなのに……!)
目に涙が溜まり、視界がぼやける。さらに、強く鞄を抱き締める。
(はやく……。お願い、はやく……!)
そう小さな声で何かを祈る。だが、祈る間にも、三人の男の足音はどんどん近くなってくる。
どんどん、どんどん、近くなる。
ギュッと目を瞑り、最後に強く、強く、祈る。
(──はやく来て、九条くん!)
⚫️
七限目の終了のチャイムが鳴る。
「……今日はここまで」
数学の先生、高橋がいつものように渋い声で授業の終わりを告げた。学級委員の玲奈が号令をかける。
「起立、礼」
「「「ありがとうございました!」」」
生徒が一斉に挨拶を言う。そして、高橋は生徒の挨拶が終わった瞬間に扉の方へ歩き出し、廊下へと消えていく。
それを見てから生徒は、「終わった~」「ぶっかつ♪ ぶっかつ♪」「ゲーセン行こうぜ!」「ここ教えて」など、背伸びしているものや部活に行こうとするもの、あるいは授業で分からなかったところを友だちに聞くものなど、解放感に胸を踊らせているのか、学校の授業が始まるときの顔より、学校の授業が全部終わった時の顔の方が生き生きとしていた。
だが、一人だけ例外がいた。美咲だ。
美咲は溜め息を吐く。
「あ、九条くんだ」
「えっ!?」
どこからともなくそんな声が聞こえ、美咲は思わずバッと下を向いていた顔を上げ、首を動かし廊下の方に目を向けた。だが、美咲は冷静になって考え、今の時間に湊が二年の教室の前にいるわけもないと気付く。
騙されたのだ。
それが分かり、声がした場所、目の前へと顔を戻す。
「ぷっ……くっ……くっ……」
そこには、顔を横に向け手で口を押さえ、必死に笑いをこらえようとしているが堪えきれず笑いが漏れている玲奈がいた。
美咲は唖然とし、だんだん恥ずかしくなる。
「ちょっと、玲奈!!」
その怒りの声を玲奈はどこ吹く風と、しばらく笑っていた。
玲奈は少し息を大きく吸い、吐く。
「九条くんがいるわけないじゃん」
玲奈は落ち着いてから、悪びれた様子もなく呟いた。すると、ゆいも二人に近付いてきて、
「どうしたの……?」
何があったのか尋ねる。
「いいところに来たわ、ゆい。実はね、美咲がんんんん」
玲奈の口を慌てて美咲が塞ぐ。そして、ゆいの方に向き笑みを浮かべ、
「な、なんでもないの!」
「なんでもないことないわよ。くじょ、んんん」
玲奈は美咲の手を口から引き離すと、諦めるかとゆいに伝えようとした。が、当然のごとく、二度口を塞がれた。
「ほんとになんでもないの!」
その二人のやり取りを見て、ゆいはなんとなく察しがついた。
「ふーん……、九条くんのこと?」
「なっ……!?」
「流石ゆい! 察しがいいわね」
「美咲が分かりやすいんだよ」
そう言われ、美咲はふと思う。今までにこの二人を騙せたことなど無かったのではないかと。今朝だって結局、二人を騙せずに湊のことを打ち明けてしまったのだ。
なぜ騙せないのか。それは二人が察しがいいからだと思っていたのだが、どうやら違うのかもしれない。本当は二人が察しがいいのではなくて、美咲が騙すのに向いていないだけなのだ。
美咲は今日何度目か分からぬ溜め息を吐いた。それを見て、玲奈は美咲の肩をポンポンと叩く。
「まあまあ、私たちには嘘つけないってことよ」
さらに美咲はガクッと肩を落とす。
「で、九条くんがどうしたの?」
湊が関わっているのは分かったが、内容まではゆいには分からない。もし内容まで分かっていたのならそれはもう察しがいいどころではない。
「いやね、なんか美咲が下向いて元気がなかったから、嘘ついたのよ。九条くんが廊下にいるって。そしたら美咲ったら、……あ、いけない。思い、出したらまたっ……」
そこまで言って、美咲の行動を思いだし再び笑いが込み上げてきてしまった。横に向いて必死に我慢するが、時々口から笑いが漏れ美咲の耳へと入る。
美咲はジロッと玲奈を睨む。だが美咲に睨まれたところで怖くない。むしろ、その睨んだ顔もまた可愛いくらいだ。男子生徒がその顔を見たらそれだけで嫌なことが吹っ飛びそうだ。
「そう……。もしかして、元気なかったのってあれのせい……?」
美咲は微かに首を縦に降った。
「やっぱり……。でもそれは仕方ないじゃない。元気でないのは分かるけど」
「あれ……? ……ああ、なるほど……」
玲奈は一瞬何のことだか分からなかったが、数時間前のことを思いだし、美咲の元気がない理由に解を得た。
「ゆいの言う通りよ。諦めなさい」
「だって昨日、あれだけ頑張ったのよ。なのに、──生徒会が入るなんて!」
そう。美咲が元気がなかった理由は生徒会が急遽入ったからだ。
──事は一時間前。
美咲のクラスに、ある女子生徒がやって来た。美咲にとってはそれはもう見覚えのある生徒だった。その生徒は教室の入り口で美咲と同じクラスの人と話していたが、美咲の方へと視線を移動させた。どうやら、美咲がいるかどうか聞いていたみたいだ。
その生徒が美咲のもとへとやって来る。
「ちょっといいかな……?」
「いいけど……、どうしたの? 沙弥ちゃん」
彼女の名前は高見沙弥。しっかりもので可愛らしく、黒髪ショートがよく似合っている女の子だ。
彼女は同学年の子で、美咲とはよく会う。なぜならば──
「今日、また生徒会の仕事が出来ちゃったの」
数少ない生徒会役員だからだ。
「えっ!? でも昨日……」
「それなんだけど、なんだか不備があったみたいで……」
「……そう。分かったわ。わざわざありがとね」
「ごめんね……。それじゃまた」
別に、生徒会の仕事が急遽入ったのは彼女のせいではないのだが、自分の責任でもあるかのように謝った。おそらく、美咲が昨日最後まで残って頑張っていたのを知っているから申し訳なく感じたのだろう。
さっきの会話を聞いていた玲奈が、
「律儀な子ね。自分で言いに来るなんて」
もしかしたら彼女が美咲のクラスへ来た時、彼女がいるとは限らないと分かっていながら、それでも美咲のクラスメイトに伝えてもらうわけでもなく、自分から言いに来るあたりも彼女が美咲に対して悪いと思っていることの証左なのかもしれない。
「……? どうしたの、美咲」
玲奈は、ふと美咲の方へ向くと下を向いて項垂れていた。玲奈にそう問われ、美咲は顔を上げると慌てるように首を振る。
「な、なんでもないの! 気にしないで」
と、美咲が言い終わると同時に次の授業の始まりのチャイムが鳴り、玲奈はさっきの美咲の様子を問い詰めることは出来なかった。そして、すぐにそのことは頭から消え去った。
「生徒会の仕事がが入ったから、あの時しょんぼりしてたのね」
玲奈は一時間前から意識を覚醒させ、すっかり忘れていたことを思い出した。
「そんなショックだったの?」
「昨日、ほんとに頑張ったんだから! 倒れるくらいまで」
「でもそのおかげで九条くんに会えたじゃない」
「うっ……」
美咲は言葉に詰まり、頬を少し赤く染めた。
「今日ももしかしたらいいことあるかもよ?」
「いいことって?」
「さあ……。それは分からないわ」
「なによそれ」
「あー、でも……、昨日よりも良いことはないかあ」
そう言って、ニヤッと悪戯を思い付いたような笑顔を浮かべた。
「なによ、その顔……」
「ううん、なんでも」
なんでもと言いながら未だにニヤニヤした顔は変わっていない。美咲はもう一度玲奈をジロッと一睨みした。
と、そこえ、
「じゃあ今日は待ってようか?」
ゆいの言葉。それは美咲の生徒会が終わるのを待っとこうかという問い。
だがしかし、ゆいももう答えは分かっている。
「ううん。大丈夫。遅くなるかもだし、気にしないで玲奈と帰ってて」
優しい穏やかな口調でゆいに返す。
美咲は二人に生徒会が終わるまで待ってもらうのは申し訳なく感じ、いつも仕事がある日は二人で帰ってもらっているのだ。
「わかった」
「うん。ありがと。じゃあもう行くね」
カバンを肩にかけて、
「バイバイ、また明日」
手を振って歩き、教室から出ていった。それを見送ってから、
「私たちも帰りましょうか」
ゆいはコクッと頷き、二人は美咲が出ていったドアから出て美咲とは反対の方へと歩き出した。