キャッチボール
「知ってるー?」
「え?」
少し離れた距離からボールと共に投げかけられた言葉に俺は間抜けな返事をし、今日何度目かのボールを彼女から受け取った。
硬球でのキャッチボール。グローブ越しに伝わる衝撃は、硬くて少し痛い。この日限りの為に買った真新しいグローブのせいか、それとも俺のとり方が下手なのか。男の俺でも痛いんだ。彼女の柔らかな掌は、今はもう真っ赤になっているんだろう。
スポーツなんてしなさそうな雰囲気の彼女。高校のときバスケットをやっていたと聞いたことがあった。その前聞いたときはハンドボールで、その前はバドミントンだったけど。 掌の皮が、しれっと過去を捏造する彼女の心と比例して分厚そうならいいのだけど。
「なにが……」
ボールを投げるのを中断して訊き返そうとしたが、彼女はしきりにグローブを閉じたり開いたりして催促する。
仕方なくボールを投げ返す。手首のスナップを上手く利かせて、ボールに回転をかけ、少しでも彼女の手が痛まないように。
「なにですかー?」
「ん〜? 名前に濁点がついている女性はー、幸せになれないって話ー」
距離だけのせいじゃない、その間延びした野暮ったい喋り方。
笑いながら話す彼女の名前は、しずか。それはもう見事にど真ん中ストレートに濁点がついていた。
俺が投げたボールが、彼女のグローブへと危なっかしくなんとかおさまる。ボールを受け取るときに怖がって半分目を瞑るのは、まだキャッチボールには慣れてない証拠だった。
というかキャッチボールだけじゃなくて、何事でも距離感が掴みにくいはずだ。彼女の右目は、町の小さな薬局で買った真っ白で真新しい眼帯で覆われているから。
『キャッチボール』
川原で女性と夕暮れ時にキャッチボール。鼻を通り抜ける草むらの青々しい匂い。桜はとっくに散ったのに、陽が沈みかけるとまだ少し肌寒い。
二分くらい探せばどっかのミュージシャンが歌っていそうな、そんなありふれたシチュエーションで俺たちはキャッチボールをしていた。
大の大人、と言っても俺もしずかさんもまだ大学生なんだけど、そんな二人が青春ぶって河原でキャッチボール。傍から見れば、ただカップルがバカみたく遊んでいると見られるんだろうか。
「じゃあしずかさん、幸せになれないんじゃないですかー? せつないっすねー」
彼女の事情を知っている俺は、真似て笑いかえすことしか出来ない。しずかさんに対して思ってる気持ちをそのまま出せば、同情じみたものになってしまうから。それをしずかさんは望んでないことは、こうして俺がキャッチボールに誘われたことで分かる。
この前は夜中の公園でライトに照らされながらのバトミントン、その前は漫画喫茶で三時間卓球、その前はイチバン重い球で三ゲームボーリング。何かにつけて、しずかさんは俺を誘って童心に返ったようにその場を楽しむ。今日のキャッチボールだって、とりあえず俺を外へと連れ出してさっき思いついて道具を買ったのだ。
気まぐれな遊びに連れ回されてるってだけじゃない。俺を遊びに誘うのにはちゃんと訳があるんだ。
「ね〜〜? でもさー、それだとドラえもんのしずかちゃんとかー、ルパンの峰不二子だってー幸せになれないんじゃなーい? でも、あの二人は幸せだよねぇーー」
自分の考えに納得したのか、しずかさんはうんうんと納得するよう頷いて俺にボールを投げる。
「でも、その二人ってどっちも漫画じゃないっすかー。関係ないんじゃないっすかー?」
ボールと一緒に返した言葉はしずかさんにしっかりと届いてしまい、考え込ませてしまった。
「そっかーー」
投げるのを中止して腕を組んで考えるしずかさんの容姿は、確かに綺麗だと思う。おっとりとした性格だけど、その笑顔と雰囲気は癒されるものがある。住んでるアパートが同じで、俺が越してきて初めて会ったときからその印象は変わらない。
彼女くらいの容姿なら、男性だって自分から選ぶくらいの特権はありそうだ。なのに彼女は自ら過酷な恋愛を選んでしまう。
「第一、それ自体迷信ですってー。幸せの定義だって、人それぞれじゃないですかー? ほらあれっすよー。俺なんか風呂上りにビール一杯飲んだだけで、世界がその瞬間終わっても後悔しない! なんて思ってるくらいの程度の幸せ感じれるんですよ〜?」
考え込む彼女に俺はそんなことを投げかける。
単純すぎるって思うだろうか? でも案外幸せってそういうものじゃないのかなって、先月彼女に振られた俺は思った。
「ん〜〜」
それでもまだ悩んでいるのかしずかさんはボールを投げてくれない。
キャッチボールでボールを持っていないほうは、なぜか心細く不安になる。向かい合ってるのに、権利さえも与えてもらえない気がして、浮き足立ってしまうのだ。
「……しずかさんは、幸せですか?」
自分でも聞き取れないくらいに小さく漏れた本音。
しずかさんが付き合ってる相手。それは彼氏というものではない。違う人の男。不倫関係。経緯とか、詳しいことは知らない。知っているのは、その男性へのしずかさんの愛。 決して表に出してはならない気持ち。
「迷信であってほしいねー」
考えて出したものその言葉は、切実な声色になって届いた。
その言葉の後ようやくしずかさんはボールを投げてくれたが、それを今度は俺が投げ返すことが出来なかった。だらしなくグローブをつけた手をぶらりとさせ、握ったボールを見つめてそれを潰すかのように握り締める。硬球くらいなら、使い方次第で人を傷つけることも出来る。本来とは違う使い方、それで誰かが傷ついてしまう。
しずかさんのその人への気持ち。それは純粋な好意で綺麗なものなんだろう。でも、傍から見ればそれはどんな理由にしても不倫という言葉で片付けられてしまい、理解を求められなくて白い目に晒される。
「どうしたのー?」
不思議そうに声をかけてきたしずかさんを見つめる。眼帯に覆われた目は今どうなっているんだろう。好きな人に殴られたその目は、今どんな状態なんだろう。
俺が買ってきた眼帯で覆われた右目。決して病院にはいこうとせずに、笑いながら大丈夫だよ〜なんて言うしずかさん。
こうやってあの男性に気持ちと身体を傷つけられるたびに、俺を遊びに誘うしずかさんは、どんな心境なんだろう。
キャッチボールをしても心が近づくわけでもない。バトミントンをしても、卓球をしても、何をしてもこうやってしずかさんに会うたびに、俺はこの女性の心が分からなくなる。 何度好きな人から暴力を振るわれても、そいつが謝るたびに許してしまうということだけ分かる。分かりたくないのに聞きたくないのに、しずかさんの口からはそういうことばかり出てくるんだ。
「ねぇーーえーーー、どーしたのー?」
俺に向かって重いグローブをつけた手を大きく振る。
叫ぶようにしずかさんに訊いてみたい。
なんで俺を誘うんですか? あの人は人の旦那なんですよ? なんで苦しむようなことをするんですか? たぶん笑って答えてくれないんだろう。
人の旦那と分かっていても、自分が愛する人。苦しいだろうが、幸せだと感じることだってあるんだろう。それは普通の恋人たちが感じるものと変わらないんだろうか。
好きでたまらなくて全ての時間を離れたくなくて、でもたまに冷めるほど相手が見えすぎて幻滅して、バカみたいに喧嘩して揺さぶられて泣いてしまって傷ついて、それでもやっぱり感情溢れて愛し合って。
色々ごちゃごちゃしてても、それでも一緒にいたいという気持ちが作用し続ける関係。しずかさんはそいつにそんな感情を抱き続けているんだろうか。 しずかさんの考えは、しずかさんにしか本当のことは分からなくて、それ以上にしずかさん自身も分からなかったりもするんだろうか。
でも俺を誘うのは。
「しずかさーん」
「なにーー?」
じっと片目で俺を見つめ返してくれるしずかさんは、今この瞬間はどう思っているんだろう。川の流れる不規則だけど心地いい音が聴こえる。この心地よい音は、しずかさんも同じように聴こえているんだろうか。
「俺ーー、しずかさんのことあんま分からないんすよー」
「んー? どうしたの急にー?」
「でもー、なんか分かんなくてもそれでいーんじゃないかって、思ったんすー!」
「……変なのーー」
噴出すように笑うしずかさん。同じように俺も全力で笑った。
人の心は分かるわけもなくて、分かろうとすればそれで良いんじゃないかって。悩んで考えて苦しんで心痛めて結局答えが出なくても、その先に繋がるのなら悩んだと言う事だけが、心に残って糧となると思う。
しずかさんにとっての俺とか、しずかさんの幸せとか分からない。訊く勇気が俺にはない。だから考え続けたい。だってしずかさんはこうやって、俺を誘ってくれる。それはキャッチボールで言えばまず俺と向かい合って、グラブをはめてくれているんだ。そして、投げる体勢まではとってくれている。それなら俺は、いつだって受け止める姿勢で、投げてくれるまで待つ。それが小さいけど唯一俺に出来ることなんだ、って勝手に思う。
「あはははっっ……いったーい」
笑いすぎて目の痛みを感じたしずかさんは、まだ笑いながらその場にうずくまる。長いスカートの裾が、地面に擦り付けられて汚れていったのが遠くから見える。
「もー、なにやってんすかー?」
それを俺は笑いながら駆け寄って行く。心配で気持ち足が速くなってしまう。
濁点がついただけで不幸せになってしまうなんて、そんなの迷信だ。迷信にしてやりたい。してやる。なんで女性だけがそんな噂を背負わないといけないんだ。それじゃあ男性はどうなるんだ。
「大丈夫ですか?」
「あはは、ありがとーしげかずくん」
差し出した手をしずかさんが握り返してくれる。握った手は、とてもスポーツをやっていたとは思えないような柔らかさで、やはり真っ赤になっていた。こんなになるまで強がってしまう彼女がやっぱり愛しい。
「しずかさん、今度俺から誘ってもいいっすか?」
「え〜? ……考えておくねっ」
そう言い終える前に、しずかさんは手を解いて小走りに遠ざかる。キャッチボールに適した距離へ。走る小さな背中がなんだか可愛くて一人笑ってしまう。
適切な距離まで辿り着き、しずかさんは俺のほうへと振り向いた。またわざわざグラブをはめた重い手を振ってボールを催促する。ボールを持ってない方はやっぱり不安になるんだろう。
俺はボールを握りしめ、昔活躍した投手を真似て、大きく身体をねじって振りかぶる。 大げさな動作にあたふた慌てるしずかさんが見えた。
「ちゃんと取ってくださいねー!」
さっきの笑いがとれないまま投げたボールはしずかさんを大きく超え、草むらに入り込んでしまう。しずさんの抗議の声が響く。笑いは止まりそうにない。
ふと横を見ると夕陽はいつのまにかだいぶ傾いていた。流れる水面に、きらきらとその夕陽は吸い込まれていった。肌寒い空気を、夕陽ごと吸い込むように思いっきり深呼吸する。夜になる。今夜は鍋にでも誘おう。
怒りながらボールを探すしずかさんに俺は笑いながら大声で謝り、駆け寄っていった。またスカートの裾が汚れているだろうから、今度は指摘してあげよう。さらに怒られそうだけど。