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魔犬さんと私  作者: 喜多邑 葵
第一章
6/19

来訪

 ニルソン家の扉がブルーノによって叩かれたのは、騎乗した彼と話した日から一週間後の、雪の降る夜のことだった。

 やにわに黒い犬が立ち上がったのは、マルタが丸まったルドルフに並んで暖炉に当たりながら、魔術書を読み解いていた時だ。母の部屋――今はルドルフが寝泊りしている部屋だ――に引っ込んでしまう後ろ姿を目で追いながら、まだ寝るには早い時間だろうと首を傾げ、本の続きに目を落としたところで、風に混ざって扉を叩く音が耳に飛び込んできたのだった。

 明らかに人為的な打撃音。誰かがノックしているのだと気付くと、ショールをなおしながら慌てて玄関へと向かう。

「どちら様ですか」

 フォンノストは東部では大きめの治安も良い町だが、物取りの類がないわけではない。しかも、時間が時間だ。

 マルタは緊張しながら誰何(すいか)の声を投げた。

「マルタ。私だ、ブルーノだ」

 こんな時間に済まない、と弱々しい声で謝られて、マルタは扉を開けた。途端に雪混じりの冷風が顔を打つ。

「ブルーノさん! 一体どうしたんですか」

 マルタは息を飲んだ。雪を被って戸口に立つブルーノの姿は、一言で言えば、ぼろぼろだったからだ。

「入って下さい。何があったんですか? 怪我は?」

「怪我は自力で回復魔法を……。魔物の相手に少し手こずってね。おまけにこの雪で帰りの行程が狂ってしまった。申し訳ないが、一晩泊めては貰えないだろうか」

 ブルーノを暖炉の前に案内して、濡れた外套と帽子を預かった。帽子にも細かい傷が走っている。一体どんな魔物と戦ったのだろううか。

 ブルーノは背を丸めて暖をとっている。つい今しがたまでそこで火に当たっていた獣の姿を思い出して、マルタは彼の部屋の方向に視線を走らせた。もしかしたら、ブルーノの訪れに気付いていたのかも知れない。

「非常識だとは思ったんだが、もうどこの宿も閉まっていたし、この町の知り合いは君以外には居なくて……」

「そんな、気にしないで下さい。今、部屋を用意しますから」

 マルタは夕飯のスープを温め直してブルーノに渡すと、居間を出て客間に向かった。

 父と二人の時には、物置として使っていた部屋だ。今は大方片付いていて――ルドルフの部屋にしようと考えていた。

 簡単に掃除をしてからベッドのシーツを取り替えれば、取り敢えず一晩泊まる分には問題なさそうだった。

 客間など必要ないと思っていたが、認識を改めなければならないようだ。幸いにも、今の屋敷には空き部屋が持て余すほどに存在している。……皮肉な気分だ。

 マルタは魔術符を取り出して、小さな紙に魔力を込める。魔法陣が青白く光って、その円形の紋様から暖かい波が吹き出した。

 空間を暖めるための魔法陣だ。冬には良く売れる。

 使い終わった魔術符の魔法陣は、線が焦げ付いたように滲んでいた。元々売り物用に描いた魔術符だ。一回きりで、もう使えない。

 マルタは役目を終えた符を小さく畳みながら、ブルーノを呼びに居間へと向かった。




 ブルーノはこちらが恐縮してしまうほどに頭を下げ、客間へと入っていった。部屋の隅には、まだ片付いていない小さな荷物が積まれているのだが、そんなことは気にしないと言う。

 確かに今夜の天候で馬を走らせて来れば、屋根と壁があるだけありがたく感じるのかも知れない、とマルタは廊下の窓から白いものの散る大渦の空を見上げた。墨色の天は透明なのか不透明なのかも定かではなくて、見ると定義できる作業だったのかも分からない。

 ブルーノは馬を勝手に馬小屋に繋いだと言って謝罪してきたが、マルタは寧ろ申し訳ない気持ちだった。昔は馬を飼っていたこともあったが、手入れすらしなくなって久しいのだ。この寒空の中、すきま風の吹き込むあばら家で一晩過ごす栗毛の馬を思って、心が痛んだ程だ。

 マルタは自室に戻ると、寝巻きに着替えて上からショールを羽織った。

 今夜は冷える。こんな日は仕事も早めに切り上げて、寝てしまうのが一番だ。

 居間へと戻って火を落としていると、扉が軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。その間から黒い影が忍び込んで来る。

 もう見慣れた、大きな魔犬だ。

「ルドルフさん」

 ルドルフは一瞬立ち止まってこちらを見たが、素通りして長椅子の上に飛び乗る。どうやら目当ては本のようだ。昼間人の姿で読んでいた鈍色の背表紙の大きな書物を口に挟むと、ひょいと長椅子から飛び降りた。

「あの、ルドルフさん」

 マルタは立ち上がると、その尻尾を追い掛けた。

 明かりを落とした屋敷は真っ暗だ。転ばないように、洋燈(らんぷ)を低く掲げる。

 ルドルフはそのまま、自室に入ってしまった。

「ルドルフさん、入っても良い?」

 半分開かれたままの扉に向かって、小さく呼び掛ける。返事はない。

 閉められなかったということは、入室を許可されているということだろうか。

 マルタは軽く扉をノックして、念押しした。

「駄目じゃないのよね? 入るわね?」

 まるで母親みたいな口ぶりだ。いつだったかパニーラさんが、息子が反抗期で録に返事もしやしない、と愚痴っていたことがあったっけ。

(ルドルフさんが私の息子……)

 流石にそれは想像できない。

 妙な方向へ飛んでいった思考を引き戻して、マルタは目の前で中途半端になっている扉を押し開いた。

 部屋を照らす光は、机の上でやわらかく揺らいでいる洋燈だけだ。ルドルフは毛足の長い絨毯の上に寝そべったままで、金色の一瞥をくれた。

(何の用だ、ってところかしら……)

 魔犬の姿でも、人間の姿でも、無愛想なのは変わらない。それにしても、犬の姿をしていると無愛想さすら愛嬌に見えてしまうのは、マルタの色眼鏡の所為なのだろうか。

 冷えた部屋に身を震わせて、マルタは黒い獣に寄り添うように座った。

「あのね、一晩お客さんを泊めることになったの。覚えているかしら、一週間前に森であった男の人」

 厚手のショールを肩から外すと、ルドルフの背とマルタの膝を覆うように広げた。

「ブルーノ・ビョルケルさんって言うんだけど……、父さまと同じ元国家魔術師で、今はあちこちを飛び回って魔術の研究をされている方なの。たまに魔物討伐の依頼も受けているらしくて……、今回もその帰りなんですって」

 だからね、とマルタは続けた。

「明日の朝早くに発つってことだったから、それまでは出来るだけ部屋にいて欲しくて」

 魔犬の月と同じ色をした瞳が、マルタを見詰めていた。マルタもじっと見詰め返す。その奥を覗き込むように、静かに。

「力のある魔術師は、魔物の目の奥を覗き込むことで正体を暴くんでしょう。出来ることなら、顔を合わせない方が良いと思うわ」

 これは、ブルーノが訪れる前に読んでいた参考書で得た知識だ。ルドルフと生活するに当たって、魔族に関して無知ではいられないと、マルタなりに勉強を始めている。

 マルタには無い力。だが、優秀な魔術師であるブルーノには、間違いなく見通す能力が備わっている筈だ。

 魔犬が上半身を起こした。かと思うと、次の瞬間にはその空間に、眉をひそめた闇色の髪の男が座っていた。

 ああ、いつもこの表情だなあ。

 呑気に考えながら、肌寒さを覚えて下を見ると、寄り添っていたはずのルドルフとの間に、冷気の入り込む隙間が生じていた。

「お前……」

 苦いものを飲み込んだような声で、ルドルフが唸る。

「本当は……、本当に、俺のことを犬だと思っているだろう」

「え?」

 一瞬ぽかんとして、間抜けな顔を晒してしまった。

「そ、そんなことはないわ」

 そりゃあ、あの大きな体躯は抱きつきたくなるけれど。艶々の毛並みに思う存分頬ずりしてみたいけれど。マルタは全部我慢している……筈だ。

 そもそも、もっと重要な話をしていたのではないか。

 マルタはむっとしてルドルフを見たが、彼のほうがよっぽど物言いたげな顔をしていた。

「……魔族が人間から生気を得るための主な方法を挙げてみろ」

「ちゃんと覚えてるわよ。まず、ばりばり食べちゃうことでしょう。それと、体液――血を飲むこと」

「もう一つは」

 問われて、マルタは頭を捻った。記憶違いでなければ、ルドルフから教わったのは、この二つのみだった筈だ。

 ああ、だけど、ルドルフは色々な方法があると言っていたではないか。それならば、きっと他にも手段はあるのだろう。

 マルタは必死で記憶を探った。魔術院での授業を思い出そうとして、頭が痛くなった。

 きっと先の二つと並んで、魔物の被害の中でも良くあることなのだろう。そこまでは見当がつくが、具体的な話となると、思い浮かばない。

「……わからないわ」

 マルタは白旗を揚げた。

 男は溜め息を吐いたが、期待が外れたための落胆というよりは、予想通り過ぎたための呆れの所為のようだった。この魔物には、呆れられてばかりだ。

 ルドルフはマルタに向き直ると、ひと呼吸だけ置いて、低い声で答えを告げる。

「性交だ」

「せいこう?」

 何の意味の単語だっただろうか――

 マルタは必死で頭の中を泳いで、知識の引き出しを探っていく。そうして、それがそう特別に難しい単語ではないことに気付いて――しかし、マルタとは縁遠いその単語であったことに気付いて――狼狽した。

「人と交わって生気を得る。淫魔が好む手段だな」

「そ、そうなの」

 マルタは部屋の明かりが心許(こころもと)ないことに、ひたすら感謝した。二十年も生きていて、色事を示す言葉を聞いただけで真っ赤になっている。そんな顔を見られるなんて、恥以外の何者でもない。

 詰まるところ――マルタにはそう言った経験が皆無だった。

 母譲りの顔立ちは、それなりのものだとは思う。見慣れすぎていて自分では美醜の判断が出来ないが、周囲からは綺麗だと褒められることが多かった。まあそれも、身内贔屓を差し引けば如何程のものかは怪しいところだが。

 にも関わらず、男性と縁がなかったのは、(ひとえ)に研究の虫だったからなのだろう。魔術院で学んでいた頃は、身嗜みを整えることも忘れて机に齧り付き、延々と魔法陣を描き続ける日々だったのだ。そのくせ魔法の使えない落ち零れ、なんて娘にお声が掛かることは稀だったし、奇特な男子生徒に誘われても、気の利いた返しが出来なければ離れていってしまうのは当然のことだった。

 商売を始めてからは随分と社交性が身に付いたと思うが、病人のような父を抱えて恋愛などする気になれず、とうとうこの歳まで男性に免疫のないままきてしまったのだ。

(ふ、普通にしなきゃ。普通に……、普通に……)

 しかし、普通とは何なのだろう。

 動揺した心を落ち着けようと、一度深呼吸をしてみる。

「……それで、それがどうかしたの?」

 少し声が上ずってしまった。

「……淫魔の専売特許じゃないんだぞ」

「ええ」

「人の形をとれるものが……、いや、とれぬものでも、人間の女を襲う話は良く聞くだろう」

「そうね、確かに」

 混乱が収まってきた胸に手を当て、マルタは首を傾げた。

 つまり、そういう魔族も居るから気を付けろ、という事だろうか。

(心配して、くれているのかしら……)

 マルタが動物好きだから、うっかり魔獣に騙されてしまわないように。

 そう思うと胸の内が暖かくなって、自然と顔が綻んでいた。

「ちゃんと気を付けるわ。ありがとう」

 ルドルフはこれ以上顰めようがない顔をさらに顰めて、額に手を当てた。

「……もう良い。さっさと寝ろ」

 出て行け、という合図に、マルタは慌てた。まだ目的を果たしていない。ポケットから魔術符を引っ張り出す。先ほど客間で使ったものと同じ魔法陣が描かれた符だ。

「最後にこれだけ。今日は冷えるから」

 瞼を下ろして、魔法陣にそっと指を這わせる。そこから広がった熱波が、月白(げっぱく)に輝く髪をふわりと浮かせ、春心地の陽気で部屋を満たした。

「これで暖かいでしょう」

 物言わずマルタを見詰める金色の双眸に笑いかける。

 少し迷って、おやすみなさいと告げてから、洋燈を片手に廊下へと出た。黒い男の寝室を後ろ手に閉めると、足元から冷気が忍び寄ってくるようで、ショールを体に巻き付けながら、自室へと急ぐ。

 何気なく窓の外へと目をやって――マルタは足を止めた。結露で曇った硝子窓を手で拭うと、その光が更にはっきりと目に飛び込んでくる。

 それは、施錠されている筈の離れの――今はもう誰も使うことのない父の書斎の窓から漏れ出る、微かな洋燈の光だった。

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