些少
堅い木の扉を押し開けると、玄関先から雀が一斉に飛び去った。どんよりと藍鼠色に染まった空を背にして、太い木の枝に並んでとまる。
マルタは思い切り伸びをすると、ぶるりと一つ身を震わせ、白い息を吐いた。
魔犬――ルドルフとの共同生活が始まって、数日が経った。相変わらず彼の口数は少ないが、だれかの存在が傍らに感じられるというのは、父を失ったマルタにとって、思いの外ありがたいものだった。ルドルフは食事の時以外、犬の姿で丸くなって暖炉にあたっているか、最近では父の書斎から本を引っ張ってきては、ぱらぱらと目を通している。
マルタの中から彼に対する違和感や警戒心が解かれていくに従って、とある衝動が込み上げてくるようになったのには困った。彼が黒い大型犬の姿をとっているときに限って襲ってくる感情――つまり、その艶やかな毛並みを撫でてみたいだとか、首周りのふさふさした毛に顔を埋めてみたいだとか、犬好きならではの問題だ。
誇り高い彼の機嫌を損ねるわけにはいかないと、ぐっと堪えてはいるが、中々狂おしいものである。
そういった小さな難事はあるものの、恙無く日常は過ぎて、今日は街まで商売と買い物をしに行く日だ。
マルタは扉の外に腕を伸ばしてみて、すっかり冬めいた空気に眉根を寄せると、自室に引き返した。
「やっぱり、冬物の外套を出したほうが良いみたい」
クローゼットの奥から引っ張り出した海松色の外套に腕を通して、マルタの背丈より高い姿見を覗き込んでみる。銀色の髪を背中まで伸ばした女の、夕と夜の間の雲の色をした目と目が合う。
「丈は大丈夫」
もう成長期は過ぎているのだから当然だが、一応長さを確認して、くるりと一周、おかしなところはないかを確かめた。
それから、机の上に纏めた紙の束に視線を移す。魔法陣の描かれたそれにじくじくと痛み出す胸を押さえて、マルタは隠すようにして鞄の底に押し込んだ。
ルドルフを連れ出したのは、簡単に言えば今後を考えてのことだった。魔物であり男であるルドルフに何が必要なのか――例えば着替えや剃刀など、父の物を使わせる気にはなれなかった――分からないので、本人に買い出しへ参加して貰う為と、町の人々にルドルフを紹介する為だ。
大きな犬の姿でいたときは、父の死因を魔物の調伏の失敗だとしている手前、魔獣だと見破られるのを恐れて只管に匿っていたが、いつまでも隠し続けてはいられない。一人残されたマルタを案じてやって来た親戚の男だと紹介しておけば良い。殊更に町人と付き合いを持つ気はなくとも、無理に隠す必要は無くなる。
意外にもルドルフが嫌がる素振りを見せなかったのは、彼のほうも家の中に閉じ篭りきりの生活に飽いていたからなのかも知れない。
今もマルタの隣を歩きながら、物珍しそうに人間の町を眺めている。
「ええと、他に必要なものはないわね?」
連れて来たは良いが、ルドルフの買い物への姿勢は受動的で、マルタが必死で父を思い出しながら、あれは必要かこれは必要かと訊ねなければならなかった。それに頷いたり首を振ったりするだけであった彼が、二度だけ足を止めて自ら欲したものは、新聞と書籍であった。
「何かあったら、その都度買い足せば良いだろう」
本屋の印の入った紙袋を片手に、ルドルフが呆れた声を寄越す。
どうも、人間界の知識は一通り持っているようだが、細かい世情や専門的な機微などはわからないことが多いらしく、それが気に入らないようだ。
何はともあれ買い出しが終了したところで、マルタは商店街の端にある、大きな店の扉を叩いた。アルムグレーン魔法魔術具専門店と彫り込まれた看板は古ぼけていて、端の塗装が剥げかかっている。七竈の飾りが掛かった扉を押し開けると薬品の匂いが体中を取り巻いて、途端にルドルフの表情が険しいものへと変わった。
(やっぱり、鼻が効き過ぎて辛いのかしら。それとも、退魔薬の匂いでも嗅ぎ取ったとか)
金の瞳が不機嫌な形に細められるのを横目に感じながら、カウンターの呼び鈴を鳴らす。
「ああ、マルタ」
奥から顔を覗かせたのは、白髪の混じった栗色の髪のを結い上げた女性――このアルムグレーン商店の店主である、パニーラ・アルムグレーンだ。
彼女はマルタの手を取ると、気遣わしげに瞳を曇らせた。
「あんた、もう大丈夫なのかい? たった一人の家族を亡くしちまったんだ、無理せず休む時間は必要だよ」
「十分休ませて貰いましたよ、パニーラさん。それに、働いている方が気が紛れるんです」
マルタは鞄の中に手を突っ込むと、底から掌大の紙の束を引っ張り出して、カウンターに並べる。
「その束は火術、あっちは水術、これは浮術です。対象の重さにも寄りますけど、大体十から二十センチ程浮きます。この間品切れしそうだって聞いていたので。私なりに改良して出来るだけ一定の高さに浮かせられるようにしてみたんですけど」
マルタは斜め後ろから突き刺さる視線に気付かない振りをして、丁寧に商品の説明を重ねた。
何を隠そう、マルタは正真正銘の魔術師だ。
幼い頃から父の背中を見て育った影響か、五つの頃には魔術書を読み始め、十一歳にして魔術師の育成機関であるリラウッズ王立魔術院に入学を果たしたのだ。母の死を期に本邸のあるこのフォンノストの地へ帰ってからは、穀潰しになるのも忍びなく、魔術符を作って売り、家計の足しにしてきた。
「はい、それじゃあ今回の分のお代だよ。それで次なんだけど、火術の数を倍にして、あとは去年作ってくれた身につけると暖かくなる符をお願い。在庫は風術と結界術が少なくなってきたね」
「分かりました。退魔符はまだ足りていますか?」
「これから魔物も大人しくなる時期だし、今ある分で十分だと思うよ」
注文を書き付けた手帳を鞄にしまったところで、パニーラの視線が逸れていることに気付いた。その先を追いかけてみると、案の定というべきか、不機嫌を隠しもしない黒髪の男の元へと注がれている。
マルタは慌ててルドルフの隣に立つと、笑顔を作って彼を紹介した。
「こ、こちらはルドルフさんと言って、父の遠縁の親戚に当たる方なんです。女ひとりでは物騒だろうって、態々心配して来て下さっていて……」
笑顔が引き攣ってはいないだろうか。ほんの少しでも良いからルドルフに愛想というものがあれば、こんなに胃を痛めることなく紹介が済んだろうに。
パニーラは「あらやだ」と頬に手を当てると、声を潜めてマルタに笑い掛けた。
「そうよね、あたしったらてっきり……。でもまあ随分と頼りになりそうなお兄さんじゃないかい? 顔も綺麗だし、遠縁ならいっそのこと……」
「パニーラさん!」
「やだねえ、冗談だよ」
パニーラは悪戯っぽい表情を浮かべると、マルタの肩をばしばしと叩いた。
パニーラには冗談でも、こちらにとっては冷や汗ものだ。もしも聞かれていたら、人間が下世話なとか何とか言って機嫌が悪くなることは目に見えている。
「もう……。他に何もありませんね? 荷物もあるのでそろそろお暇します」
「ああ、何か困ったことがあったらすぐにおいでね」
快活な笑顔に見送られながら、両開きの扉を潜る。途端に冷えた風が顔に吹き付けてきて、鼻を刺す痺れに目を細めた。
「なるほどな」
来た。
いつ来るかと身構えていたマルタは驚くことなく振り返ったが、予想していた言葉と少々違う。それでも機嫌を損ねる前にと、マルタは用意しておいた言葉を紡いだ。
「……私が魔術師だってこと、黙っていたのは謝るわ」
「魔術師? お前が?」
「え……? だって、なるほどって、気付いたからそう言ったんじゃ……」
「お前の商売については分かったが……、録に魔力も持たない人間でも、魔術師を名乗れるのか?」
胸の奥がきゅっと縮まる。詰まった喉から情けない声が漏れ出そうで、下を向いてやり過ごす。
「どうして……」
どうして気付いたのだろうか。
――マルタが殆ど魔法を使えないということに。
金色の瞳を眇めた魔物は、唇を舐めてマルタを見詰めた。
「お前の血は、珍しい程に美味かった。魔力を持たない証だ」
大きな魔力を持つ人間の生気は不味いのだと話す口から、鋭い犬歯がちらりと覗く。
「人の魔力と魔族の魔力は違う。弱く無力な存在である人間が、魔族に蹂躙されずに栄えていられるのは、魔族が苦手とする類の魔力を操るからだ。そんなものを大量に身の内に滾らせている人間の生気は、魔族の舌には合わん」
そうだ。確かに昔、聞いたことがある。人間の使う魔力は神聖なものであるから、闇の眷族たる魔族たちはこれを嫌うのだと。生気から魔力の過多を読み取れるというのは初耳だが……、もしかしたら、興味のなかった講義で説明されたことがあるのかも知れない。
マルタの好奇心は、専ら魔法陣へと向いていたから。
「……確かに私は、扱える魔力の量が極端に少ないわ。魔術師どころか一般人以下だから、自力では大した魔法も使えない」
マルタは震える声を吐き出すように言った。
優秀な魔術師の娘だというのに、その才能を受け継げなかったどころか、人並み以下だったマルタ。それでも魔術師になりたかった。マルタは魔法そのものよりも、魔力制御や魔術構築理論に――つまり、実地よりも机上の論議の方に興味を注いでいた。
好奇心を追いかけて、勉強して、努力して、マルタは特例的に魔術院に入学を許可されたのだ。
「だけど、私は私自身を魔術師だと思ってる。私には魔法陣を描くことしか出来ないけれど、それでも魔術で他人のために貢献していることになると思うの。……魔法陣さえ使えば、人並みの魔法くらいは使えるしね」
「人間の魔術師の定義など知った事ではないが」
ルドルフの興味の薄さに安堵した。魔力が少ないことも、魔術師と名乗る資格がないことも、あまりつついて欲しくない。例に漏れず、コンプレックスなのだ。
黒い魔物の興味を惹いたのは、どうやらマルタの得意分野のようだ。
「お前の魔力でも、魔法陣を使えば魔術を使えるのか」
「ええ、そうよ。自力で魔術を発動する場合は制御にも魔力を使用するし、制御状態のまま頭の中で理論を組み立てる集中力が必要になるから、効率が悪いの。その点、魔法陣で制御と構築を行えば、魔法に還元する分の魔力を流すだけで済むと言うわけ」
「……制御だの構築だの、面倒なことをしているな、人間の魔術師は」
「高位の魔術師は、息をするくらい簡単に出来ちゃうらしいけれど……」
それに加え、魔力も有り余っている魔術師たちに言わせれば、一々魔法陣を描く方が効率が悪いのだそうだ。
「だけど、普通の人はそうはいかないもの。魔力だって限られているし、苦手な魔術も、理論が複雑な魔術もあるわ。魔法陣にも需要はあるの」
「それでさっきの紙切れか」
「あれは魔術符ね。小さいからあまり強力なものは難しいけれど、生活に必要な魔術の魔法陣は大抵描けるわ」
マルタは知らず微笑んでいた。自分の好きなことを話すのは楽しい。魔法陣について語るなど久しぶりだったから、尚更だ。
魔術の理論を組み立てるのは大好きだ。難解なパズルに挑む時の気分に似ているから。既存の魔法陣の効率を上げてみたり、新しい魔術の式を導いてみたり、魔術院を離れた後も、そうやって理論を弄って過ごすだけで、マルタは幸せだった。
幸せだったのに――
もう随分と慣れてしまった感覚がマルタを襲った。胸の奥をきりきりと締め上げる痛み――罪悪感。
マルタは息を吐いてやり過ごすと、意識して明るい笑顔を隣に向けた。
「だからね、生活費の心配はしなくていいから。これでもそれなりに財産はあるから、お肉も食べられるわ」
「……なんだか気に入らんな」
それはつまり、彼が養われている現状についてだろうか。
(難しい人だなあ)
「風が強くなってきたから、帰りましょう」と声をかけて屋敷の方へ足を向けると、苦虫を噛み潰したような表情のまま、男はマルタの後ろを着いて来た。
それがまるで、思い通りに散歩をできなかった飼い犬のようで、マルタは胸の痛みも忘れ、必死で笑いを堪えたのだった。




