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魔犬さんと私  作者: 喜多邑 葵
第一章
3/19

贖罪

 翌日、朝食のスープを並べ終わったところで、マルタはさりげなくなるようにと念じながら黒い人影に振り返った。

「そういえば、これからどうしようかしら? 体が回復するまでは家で休むとして、その後冥界に戻る算段を考えなくちゃね」

 冥界は死せる者の在るべき場所。魔界は魔の者の在るべき場所。普通、魔に属するものは魔界に棲まうものだ。

 だが、何事にも例外は存在する。

 魔犬は暖炉の前が気に入ったのか、いつの間にか起きてきてかと思うと、朝食の支度が済むまでずっと薪の爆ぜる様子を観察していた。

 冥界に暖炉はないのだろうか。そもそも冥界は寒いのだろうか、暑いのだろうか。訊ねる気にはなれない。

 冥府の番犬――今は目の前で人間の青年の姿をとっているが――は、魔族であるというのに冥界に棲まう稀有な種族だった。正確には冥界の中ではなく、その入口で睨みを利かせているのではあるが。

 そしてここ、人間界と異界を繋ぐには、高位の魔術師の手を借りる必要があるのだ。

(魔界に比較して冥界への道を開く術は困難且つ危険を伴い、未だに確立された手段はないとされる上、禁忌として厳しく戒められている……、か)

 昨夜辿った魔術書の一節を繰り返して、マルタは掌に滲んだ汗を前掛けで拭った。

「戻らない」

「え?」

「冥界には戻らない」

 のそりと振り返った男が立ち上がり、兎のパイの香りにつられて食卓に腰を下ろす。マルタは慌てて前掛けを外すと、男の向かい側の席についた。

「戻らないって……どうして?」

「人界の匂いが染み付いてしまったからだ」

「それだと、戻れないの?」

「冥界には戻れる。だが、臭いが消えるまで群れには入れない。離れたところで大人しくしている他ないな」

 群れだの臭いだの、魔族に疎いマルタには初めて耳にする情報ばかりだ。

(本当に犬や狼とそっくりなのね。魔物と言うより、魔獣なのかしら)

 目の前の男がパイを囓りながら淡々と言葉を紡ぐので、事の重大さが今一実感できずに首を傾げる。

「臭いが消える前に、恐らく俺の寿命が尽きる」

 マルタは手にしていたグラスを取り落としそうになって、慌てて掴み直した反動で服の胸元を濡らしてしまった。

 向かいからの呆れた視線を感じて、頬に朱色を上らせる。

 だが、娘らしい羞恥心は腹の奥にじわりと広がる暗い感情に紛れてすぐに消えた。彼の寿命が縮められたことに罪悪感を覚えないでいられる程、マルタは割り切った人間ではなかった。

「……父さまは、あなたの寿命を奪ったの?」

「ああ、ごっそり持って行かれたな」

 その癖あのザマだ――と、皮肉気に歪められた口元が語っていた。

 マルタはそれを見ていたくなくて、咄嗟に顔を伏せた。父の行いが恥ずかしかったし、死んで尚父を貶められるようで無性に悲しかった。結局マルタには、父を愚かだと切り捨てられないのだ。

「あと……どれくらい生きられる?」

 男の方を向かないようにして、マルタは訊ねた。

 例えばあと数日の命だと言われたとして、一体何ができるだろう? 奪われた寿命を返す術など持ち合わせていない。父の遺産を全て使って、考えうる限りの贅沢を与えれば許されるのか。そんなわけがないのだ。

 責任と名付けられた重石が、胃袋の上に居座ってどんどん膨れていく。

「大まかにしか分からないが……、五十年か六十年かってところだろうな」

 思わず顔を上げた。その拍子に、胃の上の重たいものがころりと転げ落ちる。

(五十年、六十年って……)

 向かいの席の青年を、まじまじと見つめる。年の頃は、人間で言うところの三十代にはまだ届かないだろう。二十代中程といったところか。

 まず感じたのは安堵だった。少なくとも悲観するほど短い人生ではない。それどころか、それだけ生きられれば大往生とすら言える――

 そこまで考えて、自分に嫌気がさした。それは人間の価値観だ。例えばあと一週間の命だと言われ、蝉の成虫と同じだけ生きられるから気にするなと慰められたら、納得できるだろうか。

(寧ろ、怒るわよね)

 スープの上に映る陰気な女の顔が無性に腹立たしくて、少々乱暴にスプーンを突っ込んだ。

(ああでも、そう考えると冥界に帰りたくない気持ちも分かるわ。失ってしまった寿命を他の仲間たちは持っているんだもの。そんな中で一人孤独に命が尽きるのを待つなんて辛すぎる)

 先ほど転がり落ちた責任感が義務感へと姿を変え、燃えるような衝動を胸に灯す。

 自分に出来ることをする。それが贖罪(しょくざい)だ。

「魔犬さん、人間の力ではどうしてもあなたに寿命を戻してあげることはできないわ」

「そうだろうな。俺も最初から期待していない」

「だからせめて、あなたが人間界で幸せになれるように、努力します」

「――は?」

 琥珀色の瞳が大きく開かれて、本物の満月のように丸くなった。

 マルタは彼の瞳孔をじっと見つめながら、場違いにもその美しさに胸を打たれた。

「幸か不幸か、あなたの余命は人間の平均寿命と同じか、少し長い程度なの。魔物は寿命の長さによって老いの速度も変わると聞いたけれど、それならあなたの老いも人と同じになったということでしょう? 人間界で十分に生きていけると思うの」

「……俺に、人間として生きろと言っているのか?」

 向かい合う男が――魔物が、低く唸る。

 マルタは体中から冷たい汗が噴き出すのを感じた。

(怖い)

 父の最期が眼球の裏側で繰り返し再生されて、手足の先が小刻みに震える。

 何か声を発したら、その瞬間に喉笛を掻っ切られるかも知れない。何も言わなかったら、そのまま頭から貪り食われてしまうかも知れない。

 恐怖に支配された脳で選択したのは、言葉を尽くす方だった。

「……人になれと言っているんじゃなくて、人に紛れて生きてはどうかと言っているの。ここでは魔物は弾圧の対象だし、いくらあなたが強いと言っても、四六時中追い回されて攻撃されるのは煩わしいでしょう。人間界で生きていくには、人に紛れるのが一番だわ。……そしてあなたには、そのための要素が揃っていると言いたくて――」

「もういい」

 良くない。決して彼の誇りを傷つけたかったわけではない。

「口を閉じろ」

 ぴしゃりと跳ね除けられて、マルタは項垂れた。

 どうして上手く言葉を扱えないのだろう。彼の為を思っているのに、怒らせてしまう。魔犬にしてみれば、寿命を奪っておいて何を、と憤りを感じるのだろう。

 スカートを握り締めて頭を真っ白にさせている間に、男は食堂から消えていた。

(……出て行っちゃったのかも)

 だったらもうあれこれ悩む必要は無くなるな、と思って、自己嫌悪で益々泣き出したくなった。




 朝食の片付けをした後で、己を奮い立たせて黒尽くめ姿を探してみると、外庭のにれの木の根元に黒い獣が寝そべっているのを見つけた。

 魔犬さん、と呼び掛けようとして、思いとどまる。

 屋敷は石造りの壁に囲われているが、視線を遮ることはできても、音は筒抜けだ。壁の向こうに誰か歩いていたら、聞き咎められるかも知れない。

 退魔師でも連れてこられたら、魔犬といえども無傷では済まないだろう。

 マルタは黒い犬の傍に寄ると、驚かせないようにそっと腰を下ろした。

「ごめんなさい」

 三角に尖った耳が、ひくりと反応する。

「私、贖罪をしたくて必死だったの。あなたが人の中で生きてくれるなら、私にも出来ることがあると思って、それであんな風に……。押し付けがましかったと思うわ」

 逆に言えば、彼が人以外のものとして生きたいと望んだとき、何を成せるのかを思い付けなかった。

「私は罪の意識から解放されたくて、自分の望みだけを並べ立てたんだもの。あなたが不愉快に思うのも当然だわ。でも、私は自分勝手だったけれど、決してあなたを侮っていたわけではないの。……それだけは信じて」

 伏せていた瞼を上げると、黒い犬の姿は消えていた。代わりに、楡の幹に背をあずけた男が、金色の目でマルタを見下ろしていた。

「お前、どうしてそう難儀な生き方をしているんだ」

 困惑したような、呆れたような口調に、マルタは首を傾げた。

「何故お前が罪の意識を覚えるんだ。父親の罪を背負ってどうする」

「だって……」

「先刻のこともそうだ。お前なりに考えて、最善だと思う答えを出したのだろう。だったら何を揺らぐことがある。俺の顔色を伺うな」

「……難しいことを言うのね」

 彼に睨まれて平気でいられる人間が、一体どれほど存在すると言うのか。

「この程度のことが難しいのか」

「難しいわ。あなたの為に何が出来るかって考えたんだもの、あなたを怒らせちゃ意味がないの」

「……俺が怒ったからと言って、俺の為にならないとは限らないだろう」

 マルタは段々可笑しくなってきた。

(何だろう、まるで元気づけられているみたい)

 彼を怒らせたことに落ち込んで、彼に慰められるなんて。

 くすぐったい心に耐え切れず、思わず頬が緩むと、満月色の瞳に剣呑な色がさした。柳眉を寄せて「何が可笑しい」と問われても、どうしたことか全く以て恐ろしくない。

「それじゃあ、お願いをするわ」

 受け入れるかどうかは、彼が決めれば良い。

 マルタは紫紺(しこん)の瞳を細めて、闇色の髪を持つ男を見詰めた。もしも彼がその髪を毛皮に変えて、鋭い爪と牙を持つ獣の姿で目の前にいたならば、迷わずその毛並みを撫でていただろう。

「私に、あなたへの贖罪をさせて欲しいの」

 強い風が吹いた。楡の木にしがみついていた樹葉が攫われ、冬支度を早める。

 落ち葉が男の黒髪にくっついたのを見て、マルタは少し迷った。迷った末に、上げかけた腕を膝の上に戻した。

 男は「わからんな」と呟くと、楡の幹に沈み込むようにして深く体重を預ける。

「人間界に存在する上位魔族が、どうやって暮らしているか知っているか」

「いいえ」

「人の姿で人に紛れ、人を喰らって生きている」

「……」

「人間の生気は魔族の何よりの好物だ。生気を得れば魔力が漲る。摂取するための方法は色々あるが、丸ごと喰ってしまうのが一番手っ取り早く、それを好む魔族は多い」

 魔族の男は笑った。ひどく残虐な笑みだった。

「俺が望めば、お前はそれを与えるのか? 贖罪のために、同胞(はらから)を俺に捧げると?」

 マルタは何も言えなかった。

 ようやく口を開いた時には喉が渇いていて、情けなくも掠れた声で返すのが精一杯だった。

「……私の贖罪の為に、他人を犠牲にすることは出来ないわ。でも……」

 でも、自分自身を犠牲にすることは出来る? 私を食べて下さいと、言えるのだろうか。

 言葉を続けることが出来ずに、マルタは震えた。

 贖罪とは、何なのだろうか。彼のために、彼の望むことを叶えることが、罪を雪ぐ唯一の手段だと思った。では、それが道理に反することであったとき、どうすれば良いのだろう。怖いと、嫌だと感じてしまったら。

 震えながら、獣と同じ金色の瞳を只管(ひたすら)に探った。

 それが父に人生の大半を奪われてしまった魔物の願いなら。本当の願いだったなら――

「……手を出せ」

 軽い溜息の後に、低い声で男が命じた。

 殆ど反射的に右手を差し出すと、男の大きな手が手首を掴んだ。ぐっと引き寄せられて、前のめりに倒れそうになる。咄嗟に左手をついたと同時に、中指の先に鋭い痛みを感じた。

 自分でも、良く悲鳴を上げなかったものだと思う。

 顔を歪めながら見やると、男がマルタの指先に噛み付いていたのだ。

「な、何を……」

 先程の話を思い出して、さっと血の気が引いた。

 まさか、今すぐにマルタを食べてしまうつもりなのか――

 いよいよ体が大きく震えて、マルタはぎゅっと瞳を閉じた。すると、噛じられた指先に生温かいものが撫でる感覚を覚えて、びくりと肩が跳ねる。

 そろそろと瞼を上げると、血の滲んだ指を、男が舌で舐め上げているではないか。傷を癒すかのようなその行為に、マルタは呆然と目を見開いた。

(食べるつもりじゃないの……?)

 どのくらいそうしていただろうか。すっかり血が止まってしまった頃、彼はようやくマルタの指を解放した。

「……ふん、これは良いな」

「え……?」

「俺は態々危険を冒して魔力を手に入れ、これ以上強くなろうなんて気は更々ない。かと言って毎日獣の肉ばかりではうんざりするからな。お前の血をたまに頂く」

「え、と」

「人間の体液を摂取することでも、生気は得られる。吸血鬼なんかは特に、この方法を好むな」

 どこかぼんやりした頭で、なる程、そうだったんだと感心した。感心している場合ではないと頭を振ったのは、その数瞬後だった。

「えっと、つまり、私の血で満足してくれるってこと?」

「そう言っただろう」

 満足気に唇の端を舐める姿に、マルタは体中の力を抜いた。

(……食べられなくて、良かった)

 まだ二十歳(はたち)の人生だ、未練も沢山ある。いくら贖罪だと言っても、死ぬのは怖いのだ。

(私を食べないでいてくれるんだもの、絶対に魔犬さんを幸せにしなくちゃ)

 決意も新たに顔を上げたところで、その幸せにするべき男の姿がない。

 慌てて振り返ると、屋敷へ向かって歩いてゆく、黒い外套の後ろ姿が見えた。

「ま、待って!」

 魔犬さん、という呼び掛けをなんとか飲み込んだ後で、不便だな、と思った。

「あの、お名前を教えて欲しいの」

 追い掛けた末に、思い切って外套を掴んでみる。

「名前?」

 振り払われなかったことにほっとして、怪訝な視線に慌てた。そういえば、マルタの方も名を名乗っていなかったような気がする。

「そう。私はマルタ・ニルソンです。あなたのことはなんと呼べば良い?」

 男は困惑したように視線を泳がせ、やがて、マルタの瞳の上で、ぴたりと止まった。

「……ルドルフ」

「ルドルフさん。ルドルフさんね」

 繰り返して微笑むと、「何が楽しいんだ」と言い捨てて踵を返してしまう。

 マルタも手の中からすり抜けていった黒い外套を追いかけて、黒い髪の男――ルドルフの背中に向かって駆け出した。

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