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魔犬さんと私  作者: 喜多邑 葵
第一章
2/19

魔犬

「おはよう、狼さん」

 書斎の窓を押し上げると、冬色に変わり始めた早朝の空気が滑り込んでくる。雀のさえずり、秋晴れの青、瑞々しい太陽。色褪せたカーテンが音もなくそよぎ、積み上げられた本と本の間からはみ出た書き付けが、控えめに乾いた音をたてる。

 一週間前の惨劇の舞台であったことなど信じられぬ程爽やかな朝が、ニルソン家の書斎にも訪れていた。

「ご飯を持ってきたわ。今日は昨日よりいっぱい食べてくれるかしら?」

 黒い塊がぴくりと動き、煩わしそうに目を開く。月色の瞳が無感動にマルタに向けられ、ふんと一つ鼻を鳴らした。

 真っ黒な狼が、書斎の隅で丸くなっている。

 いや、正式には狼ではない。父が呼び出し、父を噛み殺した魔物。

「今日は鹿の肉よ。とろとろになるまで煮てあるから、消化しやすいと思うの」

 マルタが器を持ち上げると、狼の姿をした魔物はやおら立ち上がり、のそりと近付いてきた。

「あなた、動けるようになったの!」

 あの夜から一週間、マルタは魔物の看病を続けていた。

 どうしても、魔物を恨む気にはなれなかった。父の喉が食い破られるあの瞬間を思えば、湧き上がるのは途方もない悲しみと虚脱感だけ。父の身勝手に巻き込まれ、命を奪われそうになった獣のぐったりとした姿に、憐れみと罪悪感以外の何を覚えろと言うのだろう。

 葬儀と埋葬、処々の手続きの合間を縫って、マルタは狼の為にあれこれ世話をやいた。大きな獣を一人で移動させることは難しかったので、この離れの書斎から物を持ち出してスペースを作り、そのまま看病することにした。魔力が宿るという草で作った干し草にシーツをかけて、寝床を整えた。獣が食むと言う薬草を調べて食べさせようともしたが、これは吐き出されて失敗に終わった。

 その他にも、妖精が好む香木を焚いてみたり、疲労回復の魔術を掛けてみたりしたが、効果が有ったようには思えない。

 死んだように眠り続けた魔物は三日目に目を覚まし、少しずつ食事を取るようになった。

 順調に回復してはいたが、もう歩けるようになるなんて!

「さあ、たんと食べて。具合が戻ったら、これからのことを考えなくちゃね。狼さん、あなたの故郷は魔界なの? 力が戻れば帰られる? 高位の魔術師に依頼して、道を開いて貰わなきゃ駄目かしら」

 器に鼻を突っ込んで肉を食べる魔物の姿に、思わず笑みが零れる。まるで大きな犬のようだ。マルタは犬が好きだった。

 思わず首周りのふさふさした毛に触れようとして、慌てて手を引っ込める。

 これは魔物だ。それを忘れてはならない。だいたい、食事中の獣にちょっかいをかけるなんて、いけないことだ。

「狼さん、動けるのなら、母屋の方に移らない?」

 胃袋が満たされて満足したのか、魔物は陽のあたる一角へ座ると、カリカリ耳の裏を引っ掻いている。

「ここのところ、急に冷えるようになったでしょう? あちらは暖炉もあるし、暖かいのよ。私の部屋もあちらだから、何かあった時すぐに……」

 銀の盆に空の器と水を張ったボールを乗せ、黒い狼を振り返る。振り返った筈だった。

 先程までそこにいた筈の魔物の姿はなく、代わりに日だまりに立っていたのは、黒い髪の青年。

「え……?」

 髪の色だけではない。重たそうな外套も、鴉の羽と同じ色をしている。窓枠に凭れた体躯はマルタより頭一つ分高く、外套の上からでも逞しさが窺えた。

 伏せられていた瞳が、気だるげにマルタへ向けられる。猛獣を連想させる眼差しの色は、月と同じ金だった。

「……その母屋へ案内しろ。移ってやる」

 黒ずくめに金の瞳だなんて、まるでどこかの狼さんみたい。

「それから俺は、狼ではない。気高き冥府の番犬だ」

 目眩に倒れそうになるのを、マルタは踏ん張って耐えた。

「……つまりあなたは、狼さん? さっきまでそこでご飯を食べていた? ――ああ、間違えた、狼さんじゃなくて、魔犬さんなのね」

 冥府の番犬。知っている。冥界の入口に棲み、強大な力で死者と生者をへだつ、恐ろしい魔犬。

 ああ、なんてこと。

 父は一体全体どうやってこんな高位の魔物を呼び出したのだろうか。これ程強力な相手だと、国のトップレベルの召喚師がようやく使役できるかどうかだ。

「冷静に考えれば、魔物だって人の形をとれるのよね……。妖精にだってできることだもの」

「人間界の妖精如きと同列に扱うな」

 冷めた声で撥ねつけられ、慌てて口を噤む。高位の魔物だけあって気位も高いらしい。

「ごめんなさい。ええと、母が使っていた部屋がそのまま空いていますから、今日からそちらを使って下さい」

 先に立って母屋へ案内すると、男は黙って後を着いて来た。本調子ではないからだろうか、ゆっくりとした足取りだが、マルタに遅れることはない。

(ようやく狼さんの存在に慣れ始めていたところだったのに、水の泡だわ)

 黒い魔物への恐怖心も薄れ、犬の様な姿に心を緩ませることすらあったというのに、此処に来て全く別の姿に変わってしまった。

 背中の気配を意識するあまり、足の運びがぎこちない。

「……あの、どうして人の姿に?」

「は?」

「今になって何故、人の姿をとってくれたのかなって思ったんです。先程までの、大きな犬の姿が本来の貴方なのでしょう? その姿を維持するのは大変ではありませんか? まだ回復出来ていないのなら、元の姿の方が良いのではないでしょうか」

 緊張の所為か、上手く言葉がまとまらない。喋り過ぎたのではないだろうか。

 口を引き結んで身構えていると、ややあって平坦な声が返って来た。

「確かにあちらが俺の本性だ。だが、人型を維持するのに力を使うことはない。人間界の妖精共や、下位の魔物とは違う。今まであちらの姿でいたのは、お前が俺に危害を加えようとしたら噛み殺すつもりでいたからだ」

「それじゃあ、私が貴方を害するつもりはないとわかったから、人の姿になったのですね」

「それもある」

 その返し方に首を捻った。他にどんな理由が有ると言うのだろう。

「それより、お前もおかしいぞ」

「ええ、どうしてですか?」

 裏口の扉を開いて、男を中へと促す。そっと見上げた黄金色の瞳は細められていて、不信感を隠しもしない。

「喋り方が変わった」

 思わず首を傾げた。

 目の前に立つ魔物の表情が不機嫌なものに変わったのは、恐らく喉から馬鹿みたいな声が漏れたからだろう。それだけ意表を突かれた台詞だった。

「それは……今のあなたの姿が人間の男の人で、年上の方だから、です。敬語でないと落ち着かないと言いますか……」

 本性が何なのかという問題ではない。今会話をしている相手は、マルタより幾つか年上の青年に見える。そして、マルタはそういう相手に砕けた口調で話しかけられる性質ではないのだ。

「今更だな。つい先刻まで能天気そうに話しかけられていたのを、俺が忘れた訳ではない。急に畏まられてもこちらが落ち着かないだろう」

「そ、そうですか……」

 プライドの高そうな魔物だと思っていたマルタにとって、この反応は意外だった。

 何れにせよ、逆らうのは恐い。

「じゃあ、敬語は止めて、狼さんの時と同じように喋りますね」

「そうしろ」

「はい……じゃなくて、うん」

 答えに満足したのか、男は暖炉に近い長椅子に座ると、寝るの一言だけを残して横になってしまった。

 次にマルタが覗いた時には黒い大型犬が丸まっていて、笑みが溢れかけた口元を慌てて引き締めたのは、マルタだけの秘密だ。

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