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魔犬さんと私  作者: 喜多邑 葵
第二章
18/19

帰郷

 忌まわしい深緑色のノートは、睨んだ通りブロムクヴィストの自室に落ちていた。

 何処か退廃的な香りのするその部屋は、薄暗い中でも争った形跡が見て取れた。入って直ぐの床には魔法陣が敷かれ、扉は蝶番が捻れて反対側に開いている。床に走った無数の傷跡は、一体どちらの仕業なのだろうか。

 マルタは少し悩んで、結局魔法陣には手を加えずに部屋を出ることにした。

 描かれている部分の床板だけが、ささくれ立って盛り上がっていた。床が抜けてしまうのではないかと思って、回り込むように室内へ入った程だ。おまけに魔法陣は半分血に洗い流されている。

 これでは判別できないだろうと判断して、マルタはようやく伯爵邸を後にすることが出来た。

 帰り道、ルドルフの後を追うのに苦労した。陽の落ちて久しい街中は黒い靄がかかったかのようで、ともすれば黒い髪と黒い外套はその中に溶け込んでしまうのだ。

 隣を歩こうにも、足の長さが違いすぎて――マルタは何度もその外套を掴もうかと考えながら、宿までの道のりを必死で歩いたのだった。




 へとへとになりながら宿に辿り着いた時、思わず座り込みそうになってしまった。

 疲れの所為ではなく、気が緩んだからだ。これからどうなってしまうのか、血を吸い尽くされて殺されてしまうのか、あの立派な屋敷ではそんなことばかりを考えて、吐き気のするものが常に胸のあたりを覆っていたのだ。

 今日は何も考えずに眠れる。

 そう考えるだけで嬉しくなって、マルタは自室の寝台に飛び込んだ。ここ数日慣れ親しんだ天蓋付きの寝台に比べたら、固く肌触りも悪い。

 それでも安心感に勝る睡眠剤はないらしく、直ぐに瞼が重たくなってきた。

(駄目。まだやることがあるんだから)

 誘惑を振りきって身を起こし、頬を叩く。

 まずは身を清めたい。と言ってもこの時間に湯を用意してもらうのは忍びなかったので、桶だけ借りることにした。水を張るのと湯を沸かすのは魔術符で行う。この数日間で魔術符のありがたさは身にしみていた。マルタにはこれがないと困ったことになるのだ。

 兎にも角にも身を清め、清潔な寝間着の上にショールを羽織ったところで隣の部屋の戸を叩いた。

「ルドルフさん、入っても良い?」

 返事はない。これは想定内だ。

 もう一度扉を叩く。

「入るわね? 良い?」

 数秒待って、拒否の言葉が返ってこないのを確認してから取手に手をかけた。

(鍵がかかっていたら明日にしよう)

 しかし、取手は回ってあっさりとマルタの侵入を許した。

(……寝ていたら、明日にしよう)

 考えを修正しながら扉を押し開ける。

 仮定はまたしても無駄となった。部屋をのぞき込むのと、大きな黒犬が寝台を飛び降りるのは同時だった。

 ルドルフは部屋の真ん中に座ると、黄金色の瞳でこちらを見上げた。マルタは慌てて室内に滑り込み、扉を閉める。廊下に誰も居ないことは分かっていたが、この犬の姿を見られてはいけないという危機感が勝ったのだ。

「……ごめんなさい、ルドルフさんも疲れているわよね」

 それでも、どうしてもルドルフに見届けてほしいことがあったのだ。なるべく早く終わらせてしまいたいことが。

 濡れた鼻先が、先を促すように揺れた。

 それに頷いて、腕に抱えていたノートを掲げてみせる。

「これ……」

 ルドルフの瞳が細められたような気がした。

 この魔物は人間の姿の時でもあまり表情が変わらないが、獣の姿だとそれに輪をかけて読みにくい。勘と雰囲気で察せるようにはなったが、それもマルタの思い込みかも知れないのだ。

 二対の満月色がマルタを見上げる。「それが何なんだ」と言われているような気がした。頭の中であの低い声が再現される。

 マルタは立ち上がると、ポケットから燐寸マッチを取り出した。部屋から持ち出してきたものだ。使われた形跡のない暖炉の側に寄って、その内一本を思い切り擦った。小さな炎が天井に向かって赤く揺れる。

 マルタは息を吸って、一瞬だけ瞳を閉じた。そして瞼を上げると、深緑色のノートの端に――炎を押し付けた。

 乾いた紙は良く燃える。炎は忽ちノートを飲み込もうとした。マルタは火の着いたノートを燐寸ごと暖炉に投げ込む。いつの間にか、ルドルフが隣に座っていた。

 火炎は音もなく勢いを増し、マルタの一世一代の研究成果を黒い炭へと変えていく。

「これでもう、誰もあの魔法陣を使えないわ。ルドルフさんにも見て欲しかったの」

 勿論、マルタを除けばの話だが、マルタはこれまでもこれからも、あの魔法陣を使うつもりはない。

「……あの魔法陣の所為で、ルドルフさんの人生を狂わせてしまったから」

 魔犬は、燃え崩れていくそれをじっと見詰めていた。金色の瞳が、漆黒の毛並みが、緋色の炎に照らしだされている。

 なんて美しい光景なのだろう。マルタがその姿に見惚れている内に、暖炉の中の炎は少しずつ鎮まり、燻り――やがてノートだった黒い塊を残して消えてしまった。

 ルドルフがマルタの方を向いた時、何故かしら疚しい気持ちになってあたふたと視線を逸らしてしまった。その挙動不審に気付いているのかいないのか、黒犬は喉の奥で短く吠える。首を傾げている間に、彼は寝台へと戻って丸くなってしまった。

(これは、『用が済んだなら出て行け』かしら?)

 それは困る。用はこれだけではないのだ。

「あの、ルドルフさん。もう一つだけ用があるの」

 燐寸が入っているのとは反対側のポケットを漁った。指先に感じる硬く細長いもの。折りたたみ式の小さなナイフだ。

 腕の内側に押し当て、軽くすべらせる。良く研がれた刃は、それだけで簡単に皮膚を切り裂いた。

 己の歯で指先を破るより、余程簡単で痛みもない。体に傷を作るときは道具を使った方が良い。……何の役に立つのかも分からない知識だ。

「今日はルドルフさんも、魔力を使ったでしょう」

 寝台に腰掛けて、「はい」と赤い筋の伝う腕を差し出す。

 黒い犬は鼻先を震わせたあと、顔を上げてマルタを見据えた。満月の双眼は呆れた色を滲ませている。ふ、と息の溢れる音ともに、ルドルフが身を起こした。

(私、何か呆れられるようなことをした?)

 濡れた舌が腕を這うのを感じながら、マルタは首を傾げた。彼の感情は推し量れても、その理由まで見通すことは出来ない。

 ルドルフは流れ出た血液を舐め取ると、傷口に舌を這わせはじめる。マルタはあら、と目を瞬いた。

 いつもは血が自然に止まるまで、傷を舐めることはないのに。

(浅く切りすぎたのかしら)

 ぼんやりと眺める先で、黒い毛並みが洋燈ランプの明かりに輝く。マルタは唐突に、それに触れたい衝動に襲われた。

 この黒い獣に思い切り抱きついて、頬擦りしたい。ふかふかの毛を満足するまで撫でて、艶やかなその流れを感じたい。

 それは犬好きが高じた衝動ではなく、甘えだった。

 暖かく大きなものに身を委ねることが出来たら、きっと恐ろしいことを全部忘れるられる。出来ればその相手は――この魔物が良い。

(駄目)

 視線を逸らして頭を振った。振ったが、情動は収まらなかった。

(……ルドルフさんは、嫌なことはきっぱりそう言うわ)

 結局マルタは、ぎりぎり納得できる形で衝動に屈したのだ。詰まり、「ルドルフさん、触れても良いかしら?」と訊ねる形で。

 ルドルフは、何も言わなかった。犬の姿なのだから当然と言えば当然なのだが、反応の一つも返さなかったのだ。傷口を舐める行為さえも、ぴたりと止まる。

(これは……どういうことかしら)

 好きにしろということだろうか。撫でても良いのだろうか。

 試しにそろりと手を伸ばしてみる。

 魔犬の耳先がぴくりと揺れた。かと思うと、瞬き一つで黒髪の男の姿へと変わる。物言いたげな視線がマルタを見下ろしていた。

 腕を伸ばしたままのマルタは、渋い顔をしたルドルフと至近距離で見つめ合い、固まった。

「……学習能力がないのか、お前は」

 呟く声が鼓膜を震わせ、弾かれるように身を離す。ついでに言葉の内容を考えて、首を傾げた。

 何を学習していないと言うのだろう。以前、ルドルフを撫でて嫌がられたことがあったが、あれのことだろうか。今回はちゃんと事前に伺いを立てたのだが、甘かったということか。

「ごめんなさい……」

「理解していないのに謝るな」

 ぴしゃりと撥ね付けられる。

 分かっているつもりなのだけれど、と俯くと、暫くの沈黙の後、ルドルフが口を開いた。

「……あの吸血鬼に何をされた」

 え、と思わず目の前の男を見上げる。伯爵邸での話を聞いていなかったのだろうか。

「ええと、血を吸われたわ」

「他には」

 他に?

 マルタは必死で頭を働かせた。どうやらルドルフには、何か求める答えがあるようだ。

「閉じ込められて、足を繋がれた」

 不正解だったらしい。ルドルフは眉間に皺を寄せると、「念入りなことだな」と呟いた。マルタと同意見だ。そう言えば、この事は話していなかった気がする。

「……言い方を変える。何をされそうになったのか覚えていないのか」

 マルタははっとした。あれ程必死で抗ったのだ。覚えているに決まっている。

「目を見させられそうになったわ」

 一度はあの催眠にかかりかけたのだ。あのまま従っていたらと思うと、今更ながらに背筋が寒くなる。

「それから」

 ルドルフの促す声に、マルタは手を合わせて微笑んだ。

 忘れるはずもない、あの窮地を救ったのは、ルドルフの言葉だったのだから。

「ルドルフさんが、吸血鬼の瞳を見ると気が遠くなるって教えてくれたから、伯爵の正体が分かったの。お陰で、目を合わせないようにって注意することが出来たわ」

 ありがとう、ルドルフさん。そう言うと彼は、苦虫を噛み潰したような表情になった。「そうじゃない」と唸る声が聞こえたような気がしたが、多分気のせいだろう。

「もういい、さっさと寝ろ。……いつまでも他人の寝台に乗っているな」

 黒髪の男はそう言い捨てると、瞬く間に黒い魔犬の姿に戻ってしまった。

 結局、彼の美しい毛並みを撫でることは敵わなかったが、代わりに会話をすることが出来た。それだけでも十分だ。

「おやすみなさい」と魔犬に告げて、部屋を出る。来た時よりも廊下の空気が冷たい気がして、マルタはそこでようやく、自分の頬が火照っていることに気がついたのだった。




「お世話になりました、バーリエル先生」

 深く頭を下げて、上げる。

 背の高い女魔術師は、灰色の瞳でマルタをじっと見詰めていた。

「……本当に、あなたは無茶なことをしますね。学生時代は寧ろ大人しすぎて心配していた程なのに」

 イザベレ・バーリエルは深い溜息を落とす。

 学生時代はこの溜息の度に萎縮し、情けなくなっていたものだ。だが今は、擽ったい。生徒でも何でもない、面倒を見る義務のなくなったマルタを心配して零れた溜息だ。ここは己の行動を反省すべき場面なのだろうが、そわそわと落ち着かなくなってしまう。

「私は、自分の弟子が早死することは望みません。己の力量を理解し、己の力量に見合った行動を取りなさい。あなたにそれが出来ないとは言わせませんよ」

「はい……」

 ああ、本当に擽ったい。

 彼女の厳しい口調に見合った心情になれず、マルタは苦労して表情を引き締めた。

「分かっているのなら、何も言うことはありません。……では、道中気を付けてお帰りなさい」

 際に皺の寄った静かな視線が、ふと足元に向けられる。そこには誰も居ない。丁寧に雑巾掛けされた床が広がっているだけだ。

「ああ、そう言えばあなたには番犬がいましたね。あれ程立派な犬ならば、安心でしょうか」

 バーリエルは、首都に到着して最初に魔術院を訪れた時のことを思い出しているのだろう。あの時、マルタの足元には黒い犬が共に居た。

「ええ、そうですね。――すごく強くて、格好良いんです」

 マルタはもう一度頭を下げると、「失礼します」と畏まった口調で告げ、バーリエルの部屋を辞去した。

 塔を下り、中央の門へと向かう。何処かで試合でも行っているのだろうか、遠くで騒がしい声が聞こえた。風に乗って鼻孔を擽るのは、少し焦げた魔法薬の匂いだ。

 まだまだここは、マルタの劣等感を刺激する場所ではあるけれど、少しだけ懐かしいと思えるようになった。

 あの魔法陣を生み出した後よりも、あの魔法陣を焼いた後の方が胸を張れるようになるなんて、とんでもない皮肉だけれど。

 マルタは苦笑しながら門を出ると、首を巡らせた。塀に凭れ掛かるようにして、長身の男が一人。

「ルドルフさん、待たせてごめんなさい」

 黄金色の眼差しがこちらへ向く。

「帰りましょう」

 フォンノストへ。マルタとルドルフの家へ。

 彼の瞳の眩しさに目を細めながら、マルタはそう言って微笑んだ。

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