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魔犬さんと私  作者: 喜多邑 葵
第二章
17/19

内幕

「やだ、伯爵のこと取り逃がしちゃったの?」

 ブロムクヴィストの消え去った星空をぼんやりと眺めていたマルタの度肝を抜いたのは、しっとりと心に絡みつくような女の声だった。

 まず、どうして彼女がここに、と驚いた。その驚愕もすぐに別の驚愕に呑み込まれる。その彼女が、破れた窓の外に現れたのだ。

「マルタ、お久しぶりね」

 ひらりと手を降ってカルロッタは微笑んだが、マルタはそれどころではなかった。

 ここは二階と三階の間の踊り場で、マルタがおかしくなってしまったのでなければ、甘い蜂蜜色の髪をした妖艶な女は――宙に浮いていた。

 入れてくれるかしら、と促されるままに呆然と横へずれると、彼女はするりと室内へ滑り込む。

 まるで人魚みたいだと思った。幼いころ読んでもらった絵本の中に登場した、美しい魔物。海の中を自由に泳ぎまわるのだろうと想像した姿そのままに、カルロッタは空中を飛んでいた。

 そうして音もなく床に降り立つと、彼女は何事もなかったかのように階段を上り始める。マルタは混乱したままその後を追った。

「あらあら、随分と派手にやったわね」

 カルロッタがルドルフに猫のような笑みを寄越す。ぼろぼろになった廊下の真ん中で、黒犬は人の姿へと戻った。

「俺じゃない。あの吸血鬼だ」

「あなたが暴れて物が壊れないなんてことはないでしょ」

 何が何だかわからない。その癖、二人の姿を凝視している自分に気付いて、無理矢理視線を逸らす。廊下の先で呆然としているエメリの元へ駆け寄ると、その細い体を改めた。

「怪我はない?」

 少女は茶色と水色の溶け合った瞳を瞬かせると、存外しっかりと頷いた。気丈な子だ。気を失って倒れることもなかった。

「あの人達は、何?」

 誰、と問わなかったのは当然かも知れない。男の方は大きな犬の姿に身を転じ、女の方は空を飛んで現れた。臆する様子がないのが不思議なくらいだ。……尤も、今日はこれよりよほど怖い目に遭ったせいかもしれないが。

「すっかりあいつを片付けてくれるものだと思ってたのに」

「知るか。そんなことはお前が自分でやれ」

 ルドルフとカルロッタの親密そうな会話は続いている。マルタはエメリの手を取ると、二人の元へ向かった。

 今、この少女が頼れるのはマルタだけなのだ。しっかり支えなくては。そう思うと、覿面てきめんに心が落ち着いた。一つ深呼吸をして、二人の間に割って入る。

「あの、ルドルフさんもカルロッタも、どうしてここに?」

 二対の瞳がマルタに向けられた。一呼吸分の間があって、一方の瞳は逸らされ、一方の瞳は猫の目のように笑み上がる。

「そうねえ、順番に話をしましょう、マルタ。まず、どうしてあなたはここへ?」

「私は……一昨日帰り道で伯爵に声をかけられて、ブルーノのことで話があるって騙されてしまったの。それから、この屋敷の一室に閉じ込められて……」

 自分の迂闊さを露呈するというのは恥ずかしい。段々声が小さくなってしまう。

「それで、伯爵の好きにされて血を吸われちゃった?」

 カルロッタが指先でマルタの首筋を撫でた。ぴくりと肩が揺れたのは、擽ったさよりも寧ろ、微かな痛みが走った所為だった。昨日の朝に牙を立てられた跡は、乾いてはいたがまだ真新しい傷だ。

(好きにされて……)

 その意味を瞬き一つ後に理解して、途端に顔を赤らめる。

「さ、されてないわ! 血を吸われただけ!」

 強く否定した言葉は、カルロッタではなくルドルフに聞かせる為だった。例え彼が気にしていなくても、そんなことをされたと思われているのは嫌だ。マルタが嫌なのだ。

「あらそう、それは幸運ねえ」

 カルロッタがちらりとルドルフに視線をやった。マルタはルドルフを視界の端に入れることすら出来ない。彼の反応は見ないほうが、精神衛生上良い気がする。

「兎に角それで、この子に助けて出して貰ったの」

 ねえ、とエメリに顔を向けると、彼女は表情に乏しい顔で頷いた。その不思議な瞳は、カルロッタをじっと見詰めている。

「わたし、ブルーノって人に脅されてた。あの人、わたしの友達の妖精たちを殺してたから、止めて欲しいって頼んだの。そしたら、自分の手助けをするなら聞いてやるって言われて。……悪いことだから悩んだんだけど、マルタが閉じ込められて、ブルーノを利用すれば助けられるかも知れないって思ったから」

「ああ、そこの死体、ブルーノ・ビョルケルなのね」

 業深い魔術師の遺体は、暗闇の中で物言わず会話を聞いている。

「だから、旦那様が留守にしている間に屋敷に入れて……、その人は旦那様の部屋に魔法陣を仕掛けてた。帰ってきた旦那様が部屋に入って、魔法陣が発動した隙に上着を奪ったの。鍵を見つけた時には上手くいったって思ったんだけど……」

 実際にはそう思い通りに事は運ばなかった。ブルーノは逆に殺され、マルタたちはブロムクヴィストに追い詰められた。

「成程ね、その後は大体想像がつくわ」

 エメリがカルロッタを見上げ、マルタの袖を引く。

 発せられた言葉に、マルタは目を丸くした。

「……マルタ、この女の人、魔物なの? 旦那様と同じ目をしてる」

 驚いたのはマルタだけではなかった。カルロッタも、ルドルフでさえもエメリを見ている。

 マルタは直ぐに合点がいった。彼女が魔物だとすれば、宙を舞って登場したことにも納得できる。

「何、その子、魔術師じゃないのよね」

 カルロッタの呆然とした姿を見るのは初めてだ。華奢な体をお仕着せで包んだ姿は、どこからどう見ても年若い女中メイドで、驚くのも無理は無いかも知れない。

「カルロッタ、そうなの?」

 女は肩を竦めた。気怠げな仕草が様になって、色っぽい。

「そう、その通り。あたし、淫魔なのよ」

 その言葉は、すとんとマルタの中に落ちてきた。道理で、色香の薫る女性だったわけだ。

「でも、益々分からないわ。一体どうして……」

「それはほら、ご主人様の命ってやつね」

 ご主人様。その単語に、マルタは目の前の魔物をまじまじと見詰めた。

 学生の頃、授業で教師に見せて貰ったことがある。学生の中でも、力がある者は既に従えていたのを覚えている。人型の高位な魔物では初めて見るが――

「使い魔……?」

「ご明察」

 カルロッタは口の端を吊り上げて片目を閉じた。……もしもマルタが男だったら、今の一撃で虜にされていたかも知れない。

「あたしのご主人様は、ノア・ブロムクヴィストの正体を追っていたの。色々怪しいところのある奴だったけど、高位の魔術師の前には姿を表さないし、上手いこと正体を隠していてね。それで、決定的な証拠を抑えようと、あたしを紅薔薇クラブに紛れ込ませたんだけど、どうもあたしには食指が動かなかったらしくて」

 失礼しちゃうわよね、と赤い唇を尖らせる。

「誘惑の術なんて使ったら、あたしが魔物だって露見して下手すると逃げられちゃうかも知れないし、困ってたのよ。そこにマルタが現れたものだから」

「――え?」

 話の流れが唐突に自分に向けられて、マルタは目を瞬かせた。

「――伯爵の好みっぽい娘だったし、利用しちゃった」

 にこりと微笑まれても。

「お前……」

 どうやら、ルドルフも初耳だったらしい。眉間に皺が寄っている。

「だって、あなたたちは集会に参加したがっていたし、お互い良いこと尽くめじゃない? ……まあ、まさかブロムクヴィストがマルタを道端で探し出すとは思わなかったけど」

 本当は日を改めてけしかけるつもりだったのよね、と悪びれもせずにカルロッタは言った。開いた口が塞がらないという経験を、マルタは生まれてはじめてしたかもしれない。まさか、本人の預かり知らないところで勝手に餌にされていたなんて。

「そしたらルドルフが、マルタが居なくなったって言うじゃない? これは若しかしてと思って屋敷に駆けつけてみれば、使用人達は眠らされているし、只ならぬ雰囲気だし、ルドルフは勝手に行動するし。でもまあ、ブロムクヴィストを殺してくれるならそれも良いかなって思ったのよ。十中八九吸血鬼で決まりだって考えてたし、もし違ってもあたしが殺したわけじゃないからね」

 それで済ませられるのか、と心のなかで突っ込んでおく。カルロッタは骨の髄まで魔物のようだ。

「ごめんねえ、伯爵が吸血鬼かも知れないって教えたら気が変わっちゃうかと思って、ルドルフにもマルタにも黙ってたのよ」

 ようやく聞けた謝罪は随分と軽いもので、マルタはため息を吐いた。おまけに、謝罪するところがずれている。指摘する気も起きなかったので、そのまま流すことにした。

 ちらりとルドルフを伺う。

(探して、くれたのかしら)

 先程のカルロッタの説明だけでは、判別し難い。マルタを探してカルロッタのところへ行ってくれたのか、単にカルロッタと会った時に話題に出しただけなのか。

(でも、助けてくれた)

 マルタを守る義務などルドルフはない筈だ。けれど、彼はブロムクヴィストに立ち向かい、追い払ってくれた。

(どうしうよう……、すごく好きだわ)

 にやけそうになる頬を必死で引き締めて、マルタは顔を上げた。

 訊きたくて訊きたくて仕方がなかったことを、今なら訊けるかも知れない。この話の流れなら、きっと不自然じゃない筈だ。

「あの、そう言えば、ルドルフさんとカルロッタさんってどういう……」

 関係なの、と続ける前に声は萎んでしまった。勇気とは長続きしないものだ。

 でも、言った。言ってしまった。沙汰を待つ気持ちで唇を引き結んで、マルタは二人を見詰めた。

「……そうねえ、なんて言うか……」

 カルロッタはルドルフを見たが、彼の黄金色の瞳は逸らされたままだった。

 彼女はしばらく考えるように目を伏せて、次にマルタを見た時には悪戯っぽく笑っていた。カルロッタお得意の、猫のような笑みだ。

「昔の同僚って奴かしら」

「同僚?」

 おい、と制する声が横合いから入った。低く潜められたそれに臆することなく、カルロッタは話を続ける。

「そう。昔ね、同じ魔術師の使い魔をしていたのよ」

「え――」

 そんなわけない、と瞬時に思った。

 だって、ルドルフなのだ。強くて逞しいこの魔犬が、誰かに調伏されて使われていたなんて、そんなことあるわけがない。

 ――けれど、ルドルフは否定しなかった。

「カルロッタ」

 ただ、険しい顔でカルロッタを睨みつけているだけ。

 マルタは衝撃を受けて立ち尽くした。ルドルフはずっと冥界で番犬をしていたのだと、勝手にそう思い込んでいたのだ。長い時間を生きてきた魔物に、特別な過去の一つや二つあってもおかしくはないと言うのに。

「……そう、だったの」

 彼が人間界の知識をひと通り持っていたのは、そういう理由からだったのだろうか。魔物に詳しくないマルタには分からない。

 それでも、これだけは分かる。誇り高い彼のことだ、きっとその過去は彼にとって忌まわしいものに違いない。カルロッタを咎めたのも、きっとその所為だろう。

「良いじゃない。これでもマルタには悪いことをしたと思ってるんだから、私なりの謝意よ。それにルドルフ、本当は何か知ってるんじゃないかって散々あたしにしつこくしたでしょ。……まあ確かに色々隠してたんだけど、その腹いせね」

 話を止めるつもりのないカルロッタに、ルドルフは顔を顰めた。そんなに嫌ならマルタから止めようか、と考えたところに、満月色の視線が向けられる。

「マルタ、帰るぞ」

 たった一言。その一言に、マルタの心は打ち震えた。何故なら、その短い言葉には嬉しいものがたくさん詰まっていたから。

(名前……)

 マルタの名前を呼んでくれた。初めて呼んでくれた。もう一度呼んでほしいと願うのは、贅沢だろうか。だって、今のは不意打ちだったから、ちゃんと記憶に残せていない。

(それに、『帰るぞ』って言ってくれたわ)

 帰るところがマルタと同じなのが嬉しい。マルタを置いて帰ってしまうのではなくて、一緒に帰ってくれるのが嬉しい。

 なんて単純なんだろう、と頭の片隅で苦笑する声が聞こえたが、気にならなかった。別にいいじゃないか、少し舞い上がるくらい。

「――ええ」

 マルタは耐え切れず、笑みを零した。一拍おいて、ルドルフが目を逸らす。あらあら、とカルロッタがため息をついた。

「まあ、いいけどね。あなたたちを巻き込んだことがばれたら、あたしがご主人様に叱られちゃうから。ブロムクヴィストは取り逃がしたけど、代わりにブルーノ・ビョルケルの死体が手に入ったことだし、良しとするわ。後は適当に処理するから、さっさと帰っちゃって」

 カルロッタは、「あなたは残って口裏を合わせて貰うわよ」とマルタの隣で目を擦っていたエメリに向き直る。エメリは退屈していたのか、「うん分かった」と即座に返事をした。

「あのね、ルドルフさん、帰る前に伯爵の部屋に寄っても良いかしら」

 ルドルフは視線だけでマルタに問うてくる。

「多分、そこにあると思うの。私のノートが」

 それに、敷かれている筈の魔法陣も復元できない程度にぼかして行かなくてはならない。そう言うと、「好きにしろ」と素っ気ない答えが返って来た。マルタは何故か嬉しくなって、ルドルフに微笑みかける。

「……妙なところで笑うな」

 そう言われても、笑顔は自然に溢れるものだ。だから、どうしようもない。そう言い訳して、マルタは益々笑みを深めた。

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