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魔犬さんと私  作者: 喜多邑 葵
第二章
15/19

虜囚

 漆黒の空が地上との境界から紺青に塗り替えられていく。徐々に輪郭を表す世界を背にして、早朝の冷たい天を羽ばたく鳥の影が過ぎった。

 マルタは窓から視線を外すと、深い溜息を吐いた。

(夜が明けちゃったわ……)

 途端に疲れを覚えて、寝台へと移動する。後に続くように金属の擦れ合う音が上がって、もう一度溜息を零した。

 閉じ込められたのは一見して普通の客室だった。光沢のある木製の家具が品良く設置され、柔らかい寝台は天蓋付きだ。洗面所や浴室に続く扉まである。ただ、内側から鍵が開かないというその一点だけが異常であり、居心地の良い筈の客室を牢獄へと変えていた。

(それから……)

 異常なものがもう一つ。

 右足を上げると、再び重い金属音が響く。鉛色の枷が、冷たく足首を締め付けていた。長く伸びた鎖の反対側は、寝台の脚に括りつけられている。

 随分と厳重なことだ。ここまでしなければ、窓から逃げられるとでも思っているのだろうか。

(どちらにしても、三階じゃ逃げるのは難しいわよね)

 清潔なシーツに身体を投げ出して、絶望的な気分を枕に埋めた。

 魔法は既に試みたあとだ。ポケットに残った符は、枷をはめられる時に取り上げられている。魔力を消費することもやむ無しと、魔方陣無しで開錠の魔法を発動させてみたが――効果は得られなかった。ある程度予想はしていたが、魔法を防ぐ加工が施されているらしい。この場合は原始的な方法――詰まり、物理的に破壊することでしか、戒めから逃げる術はない。

 それならばと寝台の脚の方を魔術で破壊にかかってみたのだが、こちらも魔術防護の施された金属で加工されており、結局無駄骨に終わった。

 手詰まりだ、と頭を抱えたのが深夜のこと。それからどうしようかと考え続け、良い案も浮かばないまま夜明けを迎えてしまった。

「……ルドルフさんはどうしているかしら」

 マルタが帰って来なくて、何を思っているだろう。

(心配、しているかしら)

 あれで結構面倒見の良いところがあるから、もしかするかも知れない。

 ルドルフがマルタを心配する――

 その姿を想像しようとして出来ずに、マルタは視線を落とした。都合の良い願望なのだと自覚して、たちまち沈んだ気持ちになる。

(ひょっとして、気が付いていなかったりして……)

 有り得る。

 今度はその姿を有りありと想像出来てしまって、マルタは更に落ち込んだ。

 面倒だな、と思う。差し当たって考えるべきはそんなことでは無いはずなのに、どうでも良いことをつらつらと考えては、浮いたり沈んだりして勝手に疲れてしまう。ルドルフには何も求めないと決意した筈なのに、心配して欲しいと望んでいる自分が浅ましくてならなかった。

(一眠りしましょう)

 きっと疲れているのだ。睡眠を取って頭が冴えれば、また良い考えも浮かんでくるだろう。

 そう決めて瞼を下ろした時、扉を叩く音が静寂を破った。驚いて跳ね起きたと同時に、鍵の回る音がする。開かれた扉の向こうに立っていたのは――案の定と言うべきか――美貌の伯爵の皮を被った吸血鬼であった。

「起きていたか。お早う、マルタ」

 吸血鬼は朗らかに告げた。マルタは寝台の上を僅かに後退る。

 昨夜正体を顕した時の、冷たい激昂を覚えている。今更人の良い笑みを作ってみせたところで、余計に恐ろしく感じるだけだ。

「放っておいて悪かったね。領地の方でちょっとした問題が起こってしまって」

 何も言わないマルタに、ブロムクヴィストは構わず喋り続けた。

「実はこれから出掛ける必要があるんだ。帰りは明日の夜になる。君の世話は信頼のおける使用人に任せていくから安心してくれ」

「え……」

 思わず顔をあげたマルタに、ブロムクヴィストはにいっと笑った。紳士的とは言い難い、魔物の笑み。紺碧の瞳を見詰めかけて、慌てて視線を逸らす。

「嬉しそうだな、マルタ。使用人に取り入って逃げるつもりか? まあ、好きにすれば良い。――君の足枷の鍵は私が持っているのだからな」

 マルタは唇を噛んだ。

 この部屋といい、足枷といい、随分と準備が良い。どうにも嫌な想像が頭をよぎってしまう。

(私の前にも、この部屋に閉じ込められた人がいたのかも知れない)

 だとしたら、その人物は最後にどうなってしまったのだろうか。

 マルタは震える指先で、シーツを握り締めた。

「……聞きたいことがあるの」

 どうにか声を絞り出して、男の口元を睨みつける。

 一晩中考えていたことがある。この男が吸血鬼であったと知って、果たしてその事実がブルーノと無関係であるのか疑問に感じていた。

「あなたは、ブルーノの犯罪に関わっていたのではないの?」

 被害者は全員、体中の血を抜かれていた――

 何故そんなことをしたのか、目の前の吸血鬼が関わっていたというのなら納得できる。納得できるが、ではブルーノとブロムクヴィストはどういう関係だったのだろうか。

「ははは、成程、君はブルーノを探していたのだったな」

 ブロムクヴィストは意に介した様子もみせず、一笑に付した。

「想像力を働かせたところに申し訳ないが、奴の殺人に私が加担したということはないよ。ただ……」

「ただ……?」

「ただ、彼に動機を与えたのは私かも知れないが」

 どういうことだろうか。

 マルタは首を捻った。

「奴が不老不死の手がかりを求めて私に近付こうとしていたのはすぐに分かったよ。あちらが私の正体に気が付いていたのかは分からないが……。兎に角、私は少し面白くなってね、からかうつもりで言ったんだ」

 美しい魔物は愉快そうに喉の奥で笑った。どうやら、ブルーノは彼にとって楽しい玩具だったらしい。

「吸血鬼は吸い取った人間の生気を寿命に変えるという。あなたも人の血液を用いて命を延ばす研究をしてみては如何ですか、とね」

 悪びれることのないその言葉に、マルタは改めて被害者たちを憐れに思った。軽い言葉に触発された狂気の魔術師に、実験材料として殺されてしまうなんて何れ程無念だっただろうか。

 何にしても、これでブルーノとブロムクヴィストは繋がった。

 ふと、何かが引っ掛かったような気がして、マルタは意識を逸した。それに感付いたのか、吸血鬼の目がすっと細められる。

「さて、マルタ」

 じゃらりと鎖が鳴った。鉛色のそれが、ブロムクヴィストの手に握られている。

「そろそろ私の目を見てはくれないか」

 マルタははっとして首を振った。

「……嫌よ。見ないわ」

「そうか、困ったな」

 いきなり足を取られて、マルタは体制を崩した。仰向けに寝台へ転がる。鎖を引っ張られたのだと気付いたのは、金髪の男が視界に映り込んだ後だった。

「これは私の持論なんだが――血の味は感情によって左右される。恐怖や痛みを感じているときよりも、喜びや快感を感じているときのほうが私の好みだ」

 身体の上に伸し掛られて、さっと血の気の引く音が耳の奥で聞こえた。

「君もそちらのほうが楽だと思うのだが、それでも私に身を委ねる気はないと?」

「――ないわ」

 強く言い切る。

 きっと、彼の瞳の魔法にかかっている間は何も考えずにいられるのだろう。けれど、目が覚めたら死にたくなるに決まっている。今だってこんなに嫌悪感でいっぱいなのだ。

「……仕方がないな」

 顎を取られて、無理やり顔を上げさせられる。そのまま目と目が合いそうになって、マルタは咄嗟に瞳を閉じた。

 ――力尽くで魔法を発動させるつもりだ。

 そうはさせるものかと、瞼にぎゅっと力を入れる。

「ああ、良いね。まるで口付けを強請られているようだ」

 熟れた果実の上に蜂蜜をかけたかのような、甘い甘い声。ぞくりとしたものを背筋に感じて、マルタは顔を背けた。耳元でブロムクヴィストがくつくつと笑う。

 そうして無防備に晒された首筋に、鋭い痛みが走った。痛覚に押し出されるようにして、喉の奥から悲痛な声が漏れる。

 噛まれた――

 逃れるために手足を動かそうとして、全て押し込められてしまった。血液を吸い取られる感覚に、肩先が微かに痺れる。

「やめて……!」

 このまま体中の血を吸い尽くされて、死んでしまうのだろうか。

 血の薄くなった脳で考えて、必死で男の体を押しやる。びくともしない。

(ここで死んだら、どうなるのかしら……)

 そんなことまで想像しはじめたところで、ようやく吸血鬼は身体を離した。牙を抜いた部分にもう一度唇が這わされ、ぴくりと肩が跳ねる。

「ああ――思っていたよりずっと美味い。君の血は素晴らしいよ」

 味見のつもりだったのに夢中になってしまった、と吸血鬼は口元を拭った。体の下で震えているマルタを見て、吸血鬼は労わるように微笑む。

「怖かったかな? そんなに怯えなくても、殺したりはしないよ。出来るだけ長く、私に血を与えてくれなくては」

 マルタはぐったりとしたまま、乱れた呼吸を整えた。

「正体を知られたのは面倒だが、傷を治す必要がないというのは楽で良いな」

 首筋に残った牙の跡を撫でられて、逃れるように身を捩った。マルタの上でため息交じりの苦笑が落とされる。

 早く出て行って欲しい。今はそれだけを願っていた。

「さて、そろそろ行かなければ。……マルタ、君もこんな痛い思いは何度もしたくないだろう。私が帰ってくるまでに、覚悟を決めておくことだ」

 ブロムクヴィストがマルタの頬を撫でて立ち上がった。その感覚に心が冷えて、再び体が震えた。

「それじゃあ、良い子にしていてくれ」

 訪れた時よりも随分と満足そうに――心なしか顔色も良く――吸血鬼は部屋を出ると、外側から鍵をかけた。満足そうな足音が、扉の前から遠ざかっていく。

 男の気配が消えて、ようやく息を吐き出した。マルタはシーツを頭から被ると、身体を丸めて瞼を下ろす。気が抜けたせいか体の震えはなかなか止まらなくて、腕をさすって自分で自分を落ち着かせてみた。

(これが夢なら良いのに)

 ブロムクヴィスト伯爵が吸血鬼であることも、マルタが屋敷に捕らえられて脱出の見込みがないことも、全部夢ならば。

 そう願ったのを最後に、疲弊した意識はあっという間に眠りの底へと落ちていった。




 密かなノックの音に、マルタは眠りの淵から呼び戻された。

 見慣れない天蓋に現実を思い出して、一瞬もう一度眠ってしまおうかと瞳を閉じる。そこにもう一度遠慮がちなノックの音が響いて、マルタは現実逃避を諦めることにした。眠ったって何の解決にもならない。マルタはこれからのことを良く考える必要があるのだ。

 寝台から降りて扉へ歩きながら、「はい」と声を上げた。

 途端にノックは止んだが――何の反応もない。マルタは首を傾げた。てっきり食事でも持ってきてくれたのだと思ったが、鍵を開けて入ってくる様子もない。

 マルタは訝しく思って扉へ近付いた。

「あの、何か?」

 もう一度声をかける。

 扉の前の気配が僅かに動いて、ようやく小さな声が返ってきた。

「……マルタ?」

 囁くような少女の声。マルタは暫く混乱して、やがて一人の少女に思い当たった。昨日、木漏れ日の中で出会った赤毛に不思議な瞳の――

「エメリ?」

 殆ど確信して、扉の向こうに訊ねた。

 この屋敷で、マルタの名前を知っているものは二人だけ。ブロムクヴィストでないとするならば、それはエメリでしか有り得ない。

「……本当に、マルタなんだ。銀髪の女の人がこの部屋にいるって皆が言ってて、まさかって思って来てみたのに……」

 そう言えば、使用人たちにはこの状況をどう捉えているのだろうか。中にはマルタに同情している者もいるかも知れない。彼らの良心に訴えかければ若しかしたら――

 そこまで考えて、ブロムクヴィストの言葉を思い出す。使用人に取り入ろうとしても無駄だと言っていた。多分、マルタに絆されたりしない人間に部屋の鍵を任せているのだろうし、何より足枷はブロムクヴィストにしか外せない。

「あのねエメリ、よく聞いて。伯爵は人間じゃなくて、魔物なの。エメリは早くここを出て、どこか安全なところに逃げて頂戴」

「魔物……。そっか、だから旦那様の瞳の奥って、くらくて変な感じだったんだ」

 それを聞いて、マルタは舌を巻いた。

(この子、魔物だって看破してたんだわ)

 一体どこまで魔力の強い娘なのだろう。

「わたし、逃げられないよ。この部屋の鍵を探してみるから……」

「駄目、危ないことはしないで。それに、この部屋だけじゃないの。足枷もかけられていて……、その鍵は伯爵が持っているから、どちらにしても逃げられないわ」

 エメリは黙り込んでしまった。

 彼女の魔力は強いし、ブロムクヴィストが使用人に手を出している気配はないが、それでも安心は出来ない。悪事を働いていないというならまだしも、今まさにマルタを監禁しているのだ。魔物だろうが人間だろうが、悪人に変わりはない。

「大丈夫。マルタ、安心して。わたしが助けてあげるから」

「だから、危険なことは……」

「危険じゃないよ、任せて」

 どう説得するべきか分からずに、マルタは唇を噛んだ。エメリ意外と強情なようだ。

「それなら……、紙を持ってきてくれないかしら。扉の隙間から入れられるでしょう?」

 結局、別の頼みごとをして話を逸らすことにした。エメリが危ない真似をする前に、マルタがどうにかして脱出するしかない。そのためにも、魔術符を用意しなければならない。

「紙? わかった、持ってくる」

 声だけなのにエメリがこくりと頷いたのを感じられて、マルタはふっと笑みを零した。

「お願いね。でも、無理はしなくていいから」

「うん」

 エメリの素直な言葉が、気を張っていたマルタの心にじわりと染み込む。

 この屋敷にいるのは、敵だけじゃない。少なくとも、マルタを案じて声をかけてくれる相手がいる。

 そう思うと、また力が湧いてくるのだ。

(頑張ろう)

 魔術符を作ることが出来れば、活路を見いだせるかも知れない。本当に、寝ている場合では無かった。

 マルタは軽く頬を叩くと、拳を握って一つ気合を入れた。

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