微薫
前腕の薄白い内側に鈍く光る刃を立て、静かに横へ引いた。左肘の下に生じた傷にじわりと赤い玉が浮かんで線を結び、重力に従って腕を伝う。
マルタの目の前で短い黒髪が静かに揺れた。血液の垂れる感覚に重なって生暖かい息を感じたかと思うと、熱く柔らかいものがそこに這わされた。
マルタはその光景を見ていられなくて、視線を窓の外へと投げる。洋燈から漏れる緋色の明かりが硝子に反射して、外の様子は見えなかった。それでも窓の向こうに満ちる濃い闇の気配に、とっくに日が暮れていることだけは伺える。
今日はルドルフに血を与える日だった。数日おきのこの習慣を決めたのはマルタで、ルドルフも特に異論はなさそうだったので、こうして今日まで続いている。旅先でも例外ではないのだ。
宵に独特な冷めた静けさが、マルタには酷く煩かった。
――別に、夜じゃなくても良かったかも知れない。
マルタは視線を彷徨わせながらそう思った。
今までだって血を与えるのはいつも一日の終わり頃だった。湯浴みの後の方が良いだろうという配慮で、それに疑問を持ったことは無かったのに。
場所が悪いのかも知れない。いつもと違う部屋で、照明も心許ないのだ。だからこんなに緊張してしまうのだろう。
マルタは腰掛けている寝台のシーツを握って、背筋を駆け上がるくすぐったい感覚を押し殺した。左腕を掴むルドルフの硬い掌を意識して、また落ち着かない気分になる。
肘の下の内側の部分。ここを切ると決めたのは、家事や仕事に支障をきたさない部位だからだったけれど、いつも傷の治りは早かった。いつだったかルドルフに聞いてみたところ、「魔犬に舐められているのだから当たり前だろう」と、例のごとく冷たく言われたのだが、詰まりは魔犬に舐められると治癒魔法と同等の効果が得られるということらしい。
便利だと感心する反面、不便だとも思う。魔族は種族によって扱える魔術が決まっている。人間のように一々制御や構築を行わなくても、手足を使うように魔法を発動することが出来る一方で、固有の魔術以外を扱うことは決して出来ないのだ。
魔犬に固有の魔術は、戦闘に特化していると本で読んだ。実際に目の当たりにしたことのあるマルタは良く知っている。黒い大きな犬は、確かに強かった。
ふと、ルドルフが犬の姿で舐めてくれれば良いのに、と思った。
(そうすれば、こんな居心地の悪い思いをしなくて済むのに)
けれど、そう頼むことは出来そうになくて、マルタは気を紛らわせようと口を開いた。
「何だか、吸血鬼みたいね」
殊更に明るく言って、笑ってみせる。ルドルフは顔を上げると、眉を顰めた。どうやらお気に召さなかったようだ。
「あんな好色な種族と一緒にするな」
「好色なの?」
マルタは言ってから後悔する。会話を続けるために聞き返したが、あまり得意な話題ではない。どうか艶めいた話にいきませんようにと心の中で願った。
「あいつらの好物は魔力の少ない人間の血だ。特に若く美しい異性を狙う。そういう相手だから、血を吸うついでに交わる者も多い。淫魔でも無い癖に好んで人間と交わる好色な種だ」
「そ、そうなのね。きっと血を吸われたら痛いんでしょう」
「吸血鬼の目を見ると自失状態になるからな。前後不覚に陥っている間に済まされて痛みも感じないんじゃないか」
そう言えばそれも本で読んだ気がする。
ルドルフは再び傷口に滲んだ血に舌を這わせようと頭を下げた。
(あら?)
ふわりと、甘い香りが鼻に届いた。花の蜜のような、たっぷりと砂糖を使った菓子のような香りが――ルドルフから。
どうして、と思うと同時に、どこかで嗅いだ香りだと感じる。そしてその答えは、そう遠くない記憶の中にあった。
(これ、カルロッタの……)
その美しい容姿に相応しい、蠱惑的な香り。
気づいた瞬間、マルタは胸が潰れるような感覚を味わった。その衝撃に左腕が揺れて、ルドルフがちらりと視線を上げる。満月色の視線を受け止めて、今度ははっきりと胸が痛んだ。
――カルロッタと会っていたのだ。
ここ数日、マルタはブルーノの行っていた研究を追って足取りを掴む為に、魔術院に入り浸っていた。その間ルドルフとは別行動を取っている。することがあると言っていたから、彼なりに何か調べているのだろうと考えていたのに。
(でも、カルロッタから何か話を聞くことがあったのかも知れないし……。そうだわ、訊ねてみれば良いのよ。カルロッタと会っていたの、何を話したのって)
そうだ、それだけの簡単なことだ。軽い調子で訊いてみれば良い。訊いてみれば良いのに――どうして言葉が出ないのだろう。
ルドルフはマルタの様子を終わりの合図と受け取ったのか、最後に傷口を舐めあげると「もう寝ろ」と言い置いて立ち上がる。マルタは扉の向こうに消える背中を呼び止めることが出来なかった。カルロッタと会っていたのかと、訊ねることが出来なかった。
だって、間違いなくいつもの声は出せないだろうと分かっていたから。そんな自分はおかしいと、知っていたから。
マルタは寝台の上に倒れ込むと、靄のかかった心を守るように、身を縮めて蹲った。
まだ少し冷たい春の風が、銀色の髪を乱して後ろへと流れて行く。それが気持ちよくて、マルタは木立の間に漂う瑞々しい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
木陰の中は肌寒い。木漏れ日を渡るように歩いて、濃緑の奥へと進む。
ここは魔術院に隣接する大きな公園の中だ。尤も公園とは名ばかりで、その実態は小さな森である。魔術院が管理するこの土地は、魔法薬の材料となる薬草の生態を再現するために作られたものらしい。実際マルタも学生の頃何度も分け入ったことがある。
(それが今の生活に活かされているのだから、感謝しなくちゃね)
野生の花の独特な匂いを感じながら、宛てどなく歩みを進めた。
マルタがこの森に入ったのは、端的に言えば気分転換のためだった。
ブルーノと共同で研究をしていた魔術師と会う約束を取り付けていたのだが、先方に急用が入ったらしく、丸一日することが無くなってしまったのだ。ルドルフと合流しようかとも考えたのだが、彼の居場所はマルタには分からない。それに何となくルドルフに会いたくなくて――昨夜から続く胸の痼をどうにかできないものかと、気が付けば森を散策していたのだ。
思っていた通り、植物に浄化された空気は感情を洗ってくれる。それなのに、ふとルドルフとカルロッタのことを思い出しては、再びどろりと濁ったものを心に溜めてしまう。
マルタは瞼を下ろして深呼吸した。
この感情は良いものではない。こんなものをいつまでも抱えていたら、きっと精神が弱ってしまう。けれど、処理の仕方が分からない。
マルタは途方に暮れた気持ちで目を開けた。春先の優しい陽光が瞳に染みる。今の自分にこの光はふさわしくないような気がした。
ふと、木々の間から赤いものが見えた。
(あ……、誰かいる)
太い幹をぐるりと回ったところに小さく開けた空間があって、そこに人が座り込んでいた。
魔術院の生徒かと思ったが、違う。厳しい着用義務のある制服姿ではなく、足首まで隠すスカートを汚れるのも構わず地に投げ出している。少女だ。
ふわりとした紅の髪を持つ少女は、突然現れたマルタを警戒するように見上げていた。
まだあどけなさの残る顔立ちで、丸い二つの瞳は薄い水色と茶色の溶け合った不思議な――
マルタはあっと声を上げていた。
(この子、会ったことがあるわ。そう、確かブロムクヴィスト伯爵のお屋敷にいた女中さんじゃないかしら)
彼女は自分を見て固まったマルタに驚いたのか、目を丸くして困惑しているようだった。
「ごめんなさい。あの、あなたと会ったことがあるから驚いてしまって」
マルタが慌てて言い繕うと、少女は益々不審そうに首を傾げる。
「会ったことがある? ……ごめんなさい、わたし、あなたのこと知らない」
「本当に覚えてない? あなた、ブロムクヴィスト伯爵のお屋敷の女中さんでしょう。ほら、この前の紅薔薇クラブの集会で……ええと、私の髪が解けちゃって」
そこで少女の方もあっと声を漏らした。丸い瞳を限界まで見開いている。
彼女は慌てて立ち上がるとスカートを払って、マルタに辿々しく礼をした。
「――失礼しました。先日は本当に……何とお詫びして良いか」
動揺しているのだろう、震えた声で言葉に詰まっている。
マルタにはその姿が、集会で見かけた淡々とした女中の姿よりも年相応に見えて、思わず笑みを零していた。きっとこれが、彼女の本当の姿なのだろう。
「あの、そんなに畏まらないで。敬語も使わなくていいわ。私、実はその……あまり身分のある人間じゃなくて、集会にも無理を言って入れてもらっただけだから」
「ですが……」
「お願い。あ、でもこのことは黙っていて貰えると助かるのだけど」
もう一度微笑むと、少女は恐る恐るといった風に頷いた。良かった、とマルタは安堵の息を零す。
正直、目の前の少女とマルタに大差があるとは思えない。偽った身分に傅かれるのは気分のいいものではなかった。
一瞬、彼女が伯爵に話したらどうしようと不安が過ぎったが、もう遅い。精々彼女を信じるしかないだろう。ばれても恐らく、予てからの設定のとおり、妾腹の子ということでカルロッタが押し通してくれる筈だ。
「ここって良い場所よね。木が多くて気持ち良い。魔術院の関係者以外はあまり立ち入らないみたいだけど、散策に来たの?」
散歩と表現するには少々厳しい道のりだ。
少女は頭を傾けると、少し考えてから首肯した。
「ここ、首都なのに少しだけ妖精がいるから」
「妖精?」
マルタはまじまじと少女の不思議な色の双眸を見詰める。
「妖精が見えるの?」
妖精は、人の手の入らない自然の奥地で生まれるものだ。希に人里に下りてくるものもいるらしいが、基本的に人間の気配のない場所に好んで生息するという。
そして、その姿を人の目が捉えることは難しい。妖精が見えるのは、強い魔力を持つ者のみだからだ。例によってマルタも妖精など見たことがない。
けれど、目の前の少女はそうではないらしい。
「やっぱりあなたにも見えないんだ」
赤毛の少女は落胆したように呟いた。
「私はあまり魔力がないから……。あなたはきっと、すごく魔力を持っているのね」
少女は戸惑ったように目を瞬かせて、小首を傾げる。少し幼い仕草が、あどけなさの残る彼女を可愛らしく見せていた。
「魔力がないと、見えないの?」
「そうよ。殆どの人たちには見えないの」
「そう、なんだ。だから皆には見えなかったんだ。いつも、どうして私だけ見えるんだろうって思ってた」
そう吐き出すように言って、少女は目を伏せた。少し悲しそうに見える。
「わたしが育ったのはすごい田舎だったから、そういうことを知ってる人もいなかったし、魔法もいつも失敗してばかりだったから、魔力が強いなんて思いもしなかった」
「失敗って、どんな?」
「火をおこそうとして火事にしかけたり、井戸の水を移そうとして干上がらせちゃったり」
――典型的な制御不足だ。
マルタにも分かる。膨大すぎる魔力を上手く扱えていないのだ。
マルタが魔力を得られず苦しんだように、この少女は魔力を持て余して苦しんだのだろう。そして、とても孤独だったのではないだろうか。
マルタは不思議な瞳の少女に優しくしたくて堪らなくなった。
「あなた、名前は?」
視線が絡む。探るような一瞬の後、少女は口を開いた。
「エメリ」
「エメリね、私はマルタ。あのね、エメリ、あなたみたいに妖精が見える人は、他にもちゃんと居るわ。この森の隣の――あの、魔術院って所にはそれこそ沢山いるの。決しておかしなことじゃないの」
「たくさん……」
マルタが指さした方角に顔を向けて、エメリは胸を抑えた。きっと彼女自身気付いていないのだろうが、声が少しだけ震えていた。
「魔法も、ちゃんと訓練すれば、すごい魔術だって使えるようになるわ。絶対に」
「本当?」
丸い瞳がマルタの目を射抜いた。この双眼の前では嘘は吐けないな、と思う。それ程に澄んだ色をしていた。
「本当よ」
しっかりと見詰めて微笑む。
エメリは一瞬睫毛を震わせ、顔を伏せた。それが落ち込んでいるように見えて、慌てて覗き込むと、そこには萎れた表情があった。
「……わたし、訓練とか勉強とか、苦手」
虚を突かれ、マルタは一度瞬きをした。それからじわじわとこみ上げてくるものに耐え切れず、思わず吹き出す。
今度はエメリが不思議そうな顔をして、一つ瞬いた。
「そう、そうね。それじゃあこういうのはどうかしら。これは見たことがある?」
マルタがポケットから取り出した魔術符を受け取ると、エメリは首を横に振った。
田舎の方では、魔術の道具を売る店も少ないのだろう。
「魔術符っていうの。それに魔力を込めるだけでちゃんと魔法が発動するから、エメリにもぴったりだと思うわ。この辺にも、売っているお店はたくさんあるからね」
エメリは興味深そうに魔法陣を指でなぞった。
「今は持ち合わせがなくて――それは護身用の魔術符で、相手に電流を走らせることができるんだけど、そんなので良ければあげるわ」
「良いの?」
「勿論」
そう言うと、エメリは首を傾け――ぱっと笑った。表情に乏しいエメリの笑顔は、花が咲いたようだった。
嬉しくなって、マルタも釣られたように笑んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そこでマルタははっと気付いた。
ブロムクヴィストの屋敷の女中なら、ブルーノのことを知っているのではないだろうか。訊ねてみるべきなのではないだろうか。
駄目で元々だと開き直った気分で、マルタは口を開けた。
「ねえエメリ、ブルーノ・ビョルケルって人を知らない?」
エメリの顔色がさっと変わる。不審に思う間もなく俯いて、エメリは押し黙った。それから少しの間を置いて、彼女は僅かに首を縦に振った。
「……知ってる。悪い人でしょう」
「そう、悪い人なの。私、実は彼に大切なものを盗まれてしまって、行方を探しているのだけど、何か知らないかと思って」
エメリは驚いたように顔を上げた。信じられないと言わんばかりの表情でマルタを見詰めている。
「知らない。悪い人なんだから、マルタは近付かない方が良いよ。危ないもん」
エメリは青い顔でマルタに言い募った。
怯えさせてしまっただろうか。まだ若い少女に、殺人者の話題はいただけなかったかも知れない。
「そう、わかったわ。でも、とても大事な物だから、どうしても取り返さなくちゃいけないの」
エメリは唇を噛んで目を伏せた。
会ったばかりの少女が自分のことを心配してくれているのが擽ったくて、マルタは安心させるように微笑んだ。そっとエメリの頭に手を乗せると、柔らかい赤毛の流れる方向へ撫でてみる。
「……きっとすぐに捕まるよ」
「そうね、そうだと良いけれど」
出来ればその前にノートは取り返したいが、ブルーノが捕まるのなら、それはそれで構わない。
エメリの丸い瞳がマルタを物言いたげに見上げた。茶色と薄い水色の混ざった双眸が揺れる。
その薄い水色が魔法を発動する時の光の色に似ているな、なんてぼんやり考えながら、マルタはエメリの紅の髪をもう一度だけ優しく撫でた。




