妖婦
結局、バーリエルに礼を言って魔術院を後にする時間になっても、ルドルフが戻ってくることはなかった。心配そうなバーリエルに「これから探しに行ってみます」と笑ってみせたが、本当は気が気ではなかったのだ。
ルドルフが気紛れを起こして、どこかへ行ってしまったのではないか。そして、マルタはそれを引き止める権利も、責める権利も持ち合わせていない筈だ。
(とにかく、一度宿へ戻ってみましょう)
暗い方向へ傾きかける思考を振り払い、魔術院への行き掛けにとっておいた宿屋へと足を向ける。もしかしたらルドルフも宿の方へ行っているのかも知れないという、仄かな期待もあった。
人混みの間を縫って歩く途中も、背の高い黒髪の青年の姿がないか、大きな犬の姿がないか、上へ下へと忙しなく視線を走らせる。
その甲斐虚しく宿屋の入口へと辿り着いて溜め息を落とし、戸を叩いても静まり返ったままのルドルフの部屋の前で再び溜め息を落とした。
「今から探しに行ったら、入れ違いになっちゃうかしら」
自分の部屋に戻ってみると、磨かれた窓から橙色に染まりかけた陽光が差し込んでいた。
ルドルフを探すと言っても、彼がどこへ行ったのか皆目見当もつかないのだ。広い都を歩き回っている内に、入れ違いになってしまうかも知れない。それに、もうじき陽も落ちる。
マルタは諦めて、荷物を解きにかかることにした。
(……もしも今日帰ってこなかったら、その時に考えよう)
彼ならば、余程のことがなければ無事だろうとは思う。
だから、帰ってこないとしたらそれはきっとルドルフの意志なのだ。その時マルタはどうすれば良いのだろうか。探すべきか、放っておくべきか。
(私のやるべきことは決まっているもの……)
彼の思うままに。彼の望むままに。
再び暗くなりかけた思考を追い払うようにして、マルタは大きく首を振った。明日考えると決めたばかりなのに、と軽く頬を叩く。
本でも読んで気を紛らわせようと、鞄の奥から茶色い革張りの書物を引っ張り出した。例によって魔物について書かれた書だ。流石に駅馬車の中では読めなかったが、旅の途中に宿泊した宿で、寝る前に少しずつ読み進めてきた。
部屋の隅に取り付けられた小さな机に向かうと、乾いた音をたてながら紙を捲っていく。やがてメモを挟めておいた頁に至ると、色の変わりつつある陽の光を頼りに、文字を追いかけはじめた。
ノックの音に顔を上げたのは、太陽の去った空がマルタの瞳と同じ紫紺に染まった頃のことだった。
はっと顔を上げ、部屋の中が随分と薄暗くなっていることに今更気付き、それから慌てて扉を開けた。
「帰っていたか」
「ルドルフさん」
そこに立っていた黒髪の男の姿に安堵した。安堵して、彼に報告すべきことがあったことに――否、報告できることが何もなかったことに――顔を曇らせる。
詰まるところ、何の成果も得られていなかった。魔術院での聞き込みで得た情報と言えば、ブルーノが治癒魔法の研究に取り組んでいたらしいことと、魔術院の中にはここ一年ほど彼と直接会った人間が居ないということだけだ。
それを告げると、ルドルフは「そうか」とだけ答えた。別段落胆した様子も、苛立った様子もない。
不思議に思っていると、ルドルフは扉の脇にちらりと視線をやった。
「……手がかりなら、こちらで見つけた」
視線の先を追って、マルタは廊下を覗き込んだ。部屋の中に立っていたマルタからは丁度死角になる位置に、人が立っていた。
(うわあ……)
思わずぽかんと口が開く。
廊下に立っていたのは――それはそれは美しい女の人だった。
三日月の形に弧を描いた唇は赤く柔らかそうで、長い睫毛に縁どられた瞳は濡れた若葉と同じ色をしている。とろりとした蜂蜜を思わせる艶やかな髪を結い上げ、焦茶のドレスの上からでも、その豊満な身体を窺い知ることが出来た。
彼女の色香に当てられて、同性である筈のマルタは落ち着きをなくした。
「あ、の……?」
妖艶な姿を直視することができず、視線を彷徨わせる。はっとしてルドルフを見たが、彼の方は何の興味もなさそうに――寧ろどことなく面倒そうな表情をして――あさっての方向を眺めていた。
「はじめまして」
女性が口を開いた。しっとりと耳に響く声だった。
「あなたがルドルフのお連れさんね」
瞬間、何故か怯んだ。何かが確かにマルタに衝撃を与えたはずなのに、その正体が掴めなくて混乱する。
女の若葉色の眼が、ゆっくりと上下に動いた。
――観察されている。
頭にかっと血が上った。そのお陰で呪縛が解かれたかのように体が動いて、気付けば部屋の中を指し示していた。
「……廊下ではなんですから、どうぞ中に入って下さい」
女は目を瞬かせると、「それじゃあ失礼して」そう言って微笑む。猫が笑ったらきっとこんな感じなんだろうと思うような笑みだった。
彼女に続いてルドルフも部屋に入り、マルタは扉を閉めて明かりをつけた。お世辞にも上等とは言えない宿屋だが、部屋には燐寸が用意されている。魔力の少ないマルタのような人間には、とてもありがたい。
「椅子は一つしかありませんから」
先程までマルタが腰掛けていた木製の椅子を出して薦めると、腰掛ける瞬間、彼女の体から甘い香りが立ち上った。花の蜜のような、焼きたての菓子のような、心を擽る香りだ。
「気遣わせちゃってごめんなさいね。ええっと……」
「マルタです。マルタ・ニルソン」
「そう、マルタね。あたしはカルロッタ」
カルロッタはマルタを見詰め、面白そうに目を細めた。
……一体なんだと言うのだろうか。
「そいつがブルーノ・ビョルケルについて知っているそうだ」
ルドルフが愛想の欠片もない声で言った。
お客さんに向かってそいつだなんてと青くなりかけて、はたとした。
(この二人、どうやって知り合ったのかしら……)
ルドルフの不遜な態度はいつものこととしても、カルロッタは気分を害した様子もない。随分と親しげなように感じられた。
カルロッタから声をかけて、そのカルロッタ自身が偶々ブルーノのことを知っていた、というのは出来過ぎな気がするし、かと言ってルドルフの方から見ず知らずの女性に声をかけるというのも想像し難い。……というか、そんなルドルフは何だか嫌だ。いつも仏頂面で、周囲に話しかけにくい雰囲気を漂わせているくらいでないと、ルドルフらしくない。
(でも、だったらどうやって)
悶々とするマルタを他所に、カルロッタは話を進めた。
「本当に知ってるだけだけどね。知り合いでも何でもなかったわよ」
「良いから話せ」
乱暴な物言いに傷つく様子も怒る様子も見せず、カルロッタは肩を竦めてみせただけだった。
「あたしが参加しているクラブで、同じ会員同士だったのよ。去年の秋――殺人で追っ手がかかる直前まで姿を見せていたわ」
「クラブっていうと……?」
「社交クラブのこと。ほら、政治のクラブとか、芸術のクラブとか、その筋で活躍してる人間やら上流階級やらを中心に集まってわいわいやってるの、知らない?」
ああ、とマルタは頷いた。
魔術師のクラブが幾つかあるのを聞いたことがある。とはいっても、会員になれるのは貴族出身の魔術師か、国家魔術師若しくは宮廷魔術師の経験がある者か、その後援者や出資者だけというとても狭き門だった筈だ。
周りには憧れたり羨ましがる生徒もいたが、マルタには縁遠い話だった。
そういう、趣味や職業を同じくする者同士の情報交換の場の一つ――カルロッタの言うクラブはそれなのだろう。
「うちのクラブは高尚な集まりではないから、参加資格も結構緩いんだけど。ブルーノは随分と入れ込んでたみたいね。集会には必ず顔を出していたし、クラブの運営費もかなり出資してたらしいわ」
「ブルーノと交友の深かった人間は居るのか」
ルドルフは壁にもたれ掛かり、腕組みをしたままカルロッタに問うた。
「クラブの中心の人間たちとべったりだったわね。……集会場所として屋敷を提供している伯爵いるんだけど、特にその人と仲が良かった――と言うより、ブルーノが一方的に取り入ろうとしてたみたい」
取り入ろうとしていた――その言い回しに、マルタはぞくりとした。
そういう風に映ったということは、ただ純粋に親しくなろうとしていた訳ではないのだろう。そこには何か目的があったはずで、ブルーノの激しい願望を知っているマルタには、仄暗いものが見えたような気がしたのだ。
「その人と、会うことは出来ますか」
「無理じゃないかしら? 何たって、相手は伯爵様だし」
すげなく言われて、考え込んだ。
マルタは何の身分も持たない、しがない魔術師だ。その魔術師という肩書きだって、名乗って良いのかぎりぎりのところにいる。
こんな時、マルタが国家魔術師だったら、と思った。
(バーリエル先生に伝手を辿って貰えるよう、お願いしてみる?)
そこまで迷惑をかけるのは、正直かなり嫌だ。けれど、背に腹は代えられないし――
「カルロッタ」
一瞬、誰が喋ったのかわからなくて、マルタは顔を上げた。
いや、聞き間違えるわけもない、普段通りの低い声。男の声だ。そして今現在、この部屋の中に男性は一人しかいない。
「その集会とやらに連れて行け」
ルドルフは続けて言った。
「……まあ、それしかないでしょうねえ。本当はそこまで面倒見てあげる義理はないんだけど、まあ、ルドルフの頼みだし特別よ。これきりだからね」
マルタは言うべき言葉が見つからなかった。ただ、カルロッタの親しげな笑顔を黙って見つめているだけだ。訳のわからない衝撃にくらくらする頭を抱えて、その場に踏み止まるだけで精一杯だった。
「次の集会って言っても明日なんだけど、流石に一人しか連れていけないわよ。どうする?」
言ってから、カルロッタはルドルフとマルタを交互に見た。
「そもそも、あなたたち正装の用意はあるわけ? 舞踏会とは言わないでも社交場なんだし、うちのクラブは特に身だしなみにはうるさいわよ」
「いえ……、普段着しか、持ってきてないです」
なんとか声を紡いで、マルタは今着ている服を見下ろした。これでも首都へ行くのだからと、持っている服の中でも洒落たものを選んできたのだ。けれど、どう頑張っても町娘にしか見えない。
(そういう服を選んできたのだから、当然だけど)
何故だか急に不安になった。カルロッタと比べて貧相に見えるのは仕方のないことなのに。
「そう。まあ、女物だったら私のドレスを貸せば良いか……。ルドルフ、連れて行くのはこの子の方でも良いわよね」
ルドルフと目があった。出来るか、と訊ねられているような気がして、頭を縦に振った。
「大丈夫よ」
「……だ、そうだ」
それじゃあ、とカルロッタがマルタの方へ向き直る。
「マルタ、明日あなたをクラブの集会へ連れて行くから。時間は夕方からだから、それまでにまたここへ来るわ」
(あ……)
マルタはようやく、何がこんなにも自分を揺さぶったのかを理解した。
(私、まだルドルフさんに名前を呼んでもらったことないのに)
先ほど、彼女の名前は呼んだのだ。カルロッタ、と。
それが、とても悲しかったのだと気付いた。
(……少しは仲良くなれたって思ってたの、私だけだったのかしら)
ルドルフが誰にでも等しく無愛想だったなら、マルタも気にしない。けれど、今日出会ったばかりの女性の名前は呼ぶのだ。
(もしかして、嫌われていたりする……?)
いや、彼の性格なら嫌いな相手と同じ屋敷で暮らしたりはしない……筈だ。
だからきっと、ルドルフにとってマルタはどうでも良い存在なのだ。それでいて、カルロッタはマルタよりもどうでも良くない存在。そういうことなのだろう。
軽くショックを受けながらも、マルタは思い直した。
(別に、嫌われていないならそれで良いんだわ。ルドルフさんを不愉快にしたり、不利益をもたらしたりする存在でなければ、それで良い)
マルタの目的は、ルドルフに好かれることではないのだから。
兎に角今はブルーノの件だと意識を切り替えて、マルタはカルロッタに気になっていたことを訊ねてみた。
「それで、そのクラブっていうのは、どういう集まりなんですか?」
ブルーノが最近までのめり込んでいたというのだから、クラブの目的自体に何か特別なものがあるのかも知れない。
(まさか、不老不死の研究なんてことはしていないでしょうけど)
だが魔術院での聞き込みによると、ブルーノは近年、治癒魔法の研究に精を出していたという。人の体の再生と維持――如何にも不老不死と結びつきそうな分野だ。
「そうねえ、あたしやあなたなんかにぴったりのクラブよ」
カルロッタは目を細めて笑った。見る者を惑わす、とびきり美しくて妖しい笑みだった。
「わが紅薔薇クラブはね、美しさと若さを追い求める人間が集う、美のクラブなの」