序章
不気味な夜だった。
初秋の望月は濃藍を刷いた空に満ち満ちて、掠れた雲が草臥れた様に漂っていた。風の吹かぬ中に、温い空気が沈殿している。
マルタが父の書斎の扉を開けた時、その静寂とはかけ離れた光景が広がっていた。
書斎が震えている。色ガラスの嵌った窓は不吉な音を立て、机の上に積み上げられた書籍は崩れて床に滑り落ちている。その真ん中で膝をつき、ぶつぶつと何事かを唱える血走った目の男。
「父さま!」
父の膝の先で青白く光る魔法陣を理解した時、そしてその中に黒い獣がもがいているのを見止めた時、マルタは悲鳴のような声を上げていた。
しかし父は振り返りもしない。今や床板は吹き飛びそうなほど揺れて、魔法陣から迸る光が、幾筋も獣に絡みつく。獣が悲痛な鳴き声が、重たい矢のように鼓膜に突き刺さった。
「素晴らしい、素晴らしいぞ! 成功だ! 私は人の定めを克服したのだ!」
ああ、父は狂ってしまった。
両手を広げて哄笑する姿は、誇り高き魔術師であった昔日の彼からは、余りにも遠い。
「父さま、何て事を……」
虚しさに崩れる膝を叱って、父の元へ寄ろうとした矢先のことだった。
魔法陣に縛り付けられた毛むくじゃらの生き物の、金色の瞳が鋭く光る。凶器のような悲鳴が太い唸り声に変わったが先か、それとも青白い鎖を断ち切ったのが先かわからない。身を翻して魔法陣を飛び出したそれは、低い姿勢から首を擡げて飛びかかり、父の喉に鋭い牙を突きたてた。
悲鳴を上げる間も無かった。
音もなく床を滑る液体も、少しずつ動かなくなる父の胸も、倒れ込んで苦しそうな呼吸を繰り返す獣も、マルタには理解できない。理解できないまま、やがて静寂が戻り、魔法陣の色がすっかり消え去るまで、茫然とそこに座り込んでいた。
マルタの父は、優秀な国家魔術師だった。妖精や魔物の被害から市民を守るために昼夜奔走する姿を、幼いころから見て育った。父はマルタの誇りだった。
そんな父が変わったのは、三年前、母が亡くなったことが切掛けだったように思える。
マルタの母は、マルタが十七歳のとき、何の前触れもなく亡くなった。母は倒れる直前まで元気に笑っていたそうだ。倒れて翌日の朝に息を引き取って、頭が追いつかないうちに葬儀が終わり、埋葬が済んで、マルタと父が取り残された。
父の口数は減り、笑わなくなった。仕事への熱意も消え失せ、やがて職を辞して、首都から本邸のある東部の田舎町へ引っ込んでしまった。本邸では書斎に籠り切り、日に焼けた逞しい体躯は枯れていった。ここ二年程の父の姿はやつれ切り、浮遊霊のごとくおぼろげであった。
悲しみに暮れる時間も必要だと、マルタは必要以上に干渉することはなかった。今にして思えば、父は母を失った悲しみに溺れていたのではなく、死への恐怖に怯えていたのだろう。どうしてもっと踏み込めなかったのかと、後悔しても遅かった。
父は死んだ。
母の死を目の当たりにして、やがて来る己の死を鼻先に叩き付けられたのだろう。俄かに現実味を帯びた己の人生の終焉に恐怖した父は、あるいは力を持った魔術師の性か、不老不死の術を模索し始める。そうして見つけ出したのが、魔の物から寿命を奪う魔術。
魔物は長い生を持ち、病気にも怪我にも揺るがぬ堅牢さをその身に宿す。その強さは命の強さである。これを奪えば、限りなく不老不死に近い力が手に入る。
父は魔物を呼び出し、その寿命を奪おうとした。しかし失敗し、魔物に噛み殺された。
表向きは、魔物の調伏に失敗したこととして、父の棺は落ち葉に埋もれた土の底に下ろされた。
下弦の月が三日月に変わる頃、マルタは一人ぼっちになった。