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第四話 パープル・コード

 

 

 

 自分は、簡単には死なない――と、豪語する者達がいる。

 それは、一国の主だったり、巨万の富を得た大富豪だったり、あるいは、持ち前の豪運で勝ち続ける博奕者だったりするけれど、いずれも平民が羨むくらいには金を持っている連中。なまじ金を持っているからこそ、そんな世迷言が言える。

 金は命よりも重い――とある博打漫画に出てくる組織の幹部の名言は、強ち間違いじゃない。暴力団にも劣る悪党が蔓延るこのご時世。金で命を買える場面は最早、何時何処からでも、三日月笑いの仮面を覗かせるのだから。

 だけれど、所詮、世迷言は世迷言に過ぎない。金があろうがなかろうが、死ぬのが早いか遅いか――それだけでしかない。今からここを訪れる、このルートでなら絶対に逃げられる、と信じている二人組なんかは、その模範例に相応しい。

 私は、その愚かしさに対する失笑を仕事の精神で覆いつつ、ポケットの上から得物に触れた。


 ――田網木麟那が得物を手にする時、その都市の人口が、ほんの少しだけ少なくなる。



「はぁっ、はぁっ……! ここまで来りゃあ、ヤツらも簡単には追ってこれねぇだろ……!」

「ねぇ、アンタ! 本当に、この道で大丈夫なのかい!?」

「ああ、心配いらねぇよ。コイツはまだ、一般の組織には知られてねぇ道でな。逃げ出すにはもってこいなんだ!」

「それなら、いいんだけどねぇ……。アタシはさっきから、嫌な予感が止まらないんだよ……」

 荒々しい足音が、ふたつ。鍛えられた梟の目で捉えた一組は、今回のターゲットの容姿・特徴と一致する。組織の上納金アガリを横領して高飛びをしようとしている若頭補佐と、入れ込み先の娼婦だ。

 それにしても、さすがは苦界で生きてきた者と言うべきか。女のほうは中々、勘が鋭い。馬鹿な真似さえしなければ、まだまだ生きられていたでしょうに。でも、これが現実――私は、向かってくるふたりの前に立ちはだかるように、鴉色の姿を見せる。

「…………追っ手じゃねえな、てめえ。組織に雇われた殺し屋か、クソがっ!!」

「……」

 憎しみと怒りに満ちた視線を、屠殺場の家畜でも見るような目で返す。ここで口を開くのは三流。何時でも殺れるように、只々構えるのみ。

「折角、ここまで来たんだ! 俺達は逃げ切って――くあ……っ」

 男が拳銃を取り出した時、私は既に、消音機付き拳銃の引き金を引いていた。拳銃用のアーマーピアシングは、たとえ防弾チョッキを装備していたとしても、身体を貫通させるに足る。左胸の下に弾痕を作った男は、信じられない、と言いたげな表情のまま、その場に崩れ落ちる。

「あ、アンタ! しっかりしなっ!!」

「へ……へへ……。サオリ、新しい場所で、お前と一緒に……やり直し、たかった、ぜ――――」

 女の頬に伸ばしかけた男の腕が、寸前で、ダラリと、落ちた。もう一発を打ち込んで確認するまでもない。心臓の下半分を吹き飛ばされて生き残る者なんていないのだから。未だ硝煙を燻らせる銃口を、私は物言わぬ男に縋り続ける女の胸に向ける。

「――っ! ア、アンタは何の権利があってこんな真似を……っ!!」

「……」

「――地獄に落ちろっ! この、変態女キンキーキャット!!」

 何とも汚い、辞世の句だった。地面に転がっていた、血脂に濡れる拳銃を女が手に取ると同時に私は、右手の人差し指に力を込めた。女の身体が限界まで反り返り、口から赤ワインにも似た液体を吐き出す。隙間風のような声を出し、女は求めるように男に手を伸ばして、重なり合うように倒れた。

「……」

 死んだのを確認してから、見様見真似で十字を切る。私は、神なんて信じていないから、別に合掌でも何でも良かった。でも、娼婦の女が何故か、ロザリオを身に着けていたから、こうしたほうが良い、と思ったのかもしれない。

 拳銃を仕舞って携帯電話を取り出し、クライアントに三回、コールを入れる。相手は喬司じゃない。新しく開拓したクライアントだ。今回の依頼は、上納金を撥ねた二人組の暗殺で、成功報酬は三百万と、仕事の規模の割りには悪くない条件だった。これだけあれば、鈴那を“生者”にしておくために必要な諸々の工作費も、暫くは払い続けられる。

「嫌な風、ね……」

 生微温い、不快な風が、鉄錆にも似た臭いを際立たせる。死体の始末は、報酬ペイの内に入っていない。私は踵を返し、臭気避けにマスクをして早々に、その場を後にした。


 ――この時の私は、いつもよりも高い報酬に少し、慢心していたのかもしれない。

 何故なら、迷路のように積み重ねられたコンテナの上から誰かが見下ろしていて、くすくすと、笑っていた事に気付かなかったのだから――


 *


「――麟那姉さん。次の手番、こいつに『ダウン』掛けてくれない?」

「そうね。成功率は75パーセントくらいだと思うけれど、良いわよ」

「ありがと~。ステータスが下がったところを『マグファイア』で焼き払って、教会送りにしてやるんだから!」

「ふふ、怖い怖い。ま、南極の地底湖に辿り着く寸前に『サイコキネンリキ』で戻されたんじゃ、堪らないわよねぇ……」

 報酬が振り込まれているのを午前中に確認して、夕飯にトルティージャ――スパニッシュ・オムレツと、店屋物の真鯛のカルパッチョを鈴那と食べた私は、往年の友情破壊ゲームを有志が改造した代物で鈴那と一緒に遊んでいた。

 残り物のトルティージャにフォークを刺して、コントローラーを操作しながら思う。 ――それにしてもこの、トルティージャという食べ物は良い。作り方は簡単だし、材料と味付けを変えるだけで千差万別のバリエーションが楽しめる。今回はじゃがいもが余っていたので、それのトルティージャを作った。

 銀杏切りにしたじゃがいもと、細切りにした玉葱を、オリーブオイルで、サッ、と炒め、弱火で蒸し焼きにする。塩・胡椒で味付けをしたら、溶き卵に混ぜ入れ、オリーブオイルを敷いたフライパンに、それらを入れる。半熟になって縁が固まったら、大皿を蓋にして引っくり返す。そのまま、蒸し焼きにして数回、引っくり返せばできあがり。引っくり返す時に力がいるけれど、難しい技術は特に必要でもない。今回は、ふたりで作ったのだけれど、鈴那が掻き回し過ぎて、具材の量を減らしてくれた以外は概ね成功したと思う。じゃがいもと玉葱だから、隠し味に醤油を一滴、垂らしたのも大正解だった。

 今度は、野菜を具材にしてみよう――と思いながら、CPUのひとりに『ダウン』を掛ける。素早さが半減したところで、マジシャンの『スズナ』から『マグファイア』をもらったCPU2の『フットラー』は哀れ、二千以上のダメージでオーバーキル。デス・ペナルティで不運にも盾を失った。

「ふう、スッキリした~。次はCPU1の『ステテコリン』だね。『アンタラーク大陸』にでも送っとく?」

「幾らなんでも、それは可哀想過ぎるわ。ドベなんだから、やめておいてあげなさい」

 私の妹ながら、なんて恐ろしい笑顔。

 有志改造版のこれは、新しく『アンタラーク大陸』と、そこにある基地名をもじった都市に加えて、エキストラダンジョン扱いの『ボストック地底湖』が追加され、やり込み度が大幅にアップしている。レベルも255まで上げられるようになり、CPUの強さには、前作のナイトも裸足で逃げ出す『きちく』が追加された。

 新大陸には『アークデーモン』や『パズズ』が比べ物にならない程に凶悪な魔物が生息していて、気を抜けばレベルが90近い私達でも教会送りにさせられてしまう。そんな魔境に、ドベのCPUを放り込もうなんて……この子、実はドSなのかしら。

「うえぇ……なに、この『バフォメット』ってヤツ! 攻撃力と魔力が『スズナ』の二倍近くあるじゃん! しかも先攻取れなかったしぃ……」

「あらら。この大陸の都市ボスって、データが見られないようになっているのよね……ご愁傷様」

 魔法防御を試みるも、必殺攻撃を受けてしまい、ドS疑惑浮上の鈴那のキャラは即死。「むきー!」と地団駄を踏む鈴那を宥めつつ、トルティージャをつまみながら『リンナ』の手番を待っていると、ポケットの携帯電話が震えた。コントローラーを置いて、廊下に出る。誰かしら――と思いながら画面を開いて見ると、喬司からの電話だった。廊下の壁に寄り掛かり、こめかみを軽く掻いてから通話ボタンを押す。

「――はい?」

『夜分遅くにすみません、栂です。実は、最優先の依頼が入りまして……申し訳ありませんが、例の場所まで来ていただけませんか』

 予想に寸分も違わず、仕事の電話だった。しかし、どうしたものか――

 私は、確認の意味も込め、一言を声にする。

「お急ぎ?」

『はい。麟那の都合もあるとは思いますが、可及的速やかに来ていただきたいのです』

 喬司の声はどこか、焦っている様にも聞こえた。普段は、可及的速やかだなんて、私を急かすような事を言う男じゃない。本当に、特急の依頼なんだろう。鈴那には悪いけれど、この大仕事を蹴るような真似は、私には許されない。

 壁時計が指す時刻は、九時。タクシーを使えば、半までには余裕で『アレクサンドリア』に着く。

「オーケー。今から向かうわ」

『すみません麟那。それでは、お待ちしています』

 一呼吸おいてから通話を切り、居間に戻る。鈴那は『リンナ』を勝手に操作したりしないで、トルティージャを食べながら、一昨日に買ってあげたばかりのスマート・フォンを弄っていた。

「ごめんね鈴那……急なお仕事が入ってしまったの。帰りは明日になると思うから、先に寝ていて。戸締まりだけは、しっかりお願いね」

「あ、そうなの? う~ん……残念だけど、仕方ないよね。それじゃあ『リンナ』も『ショワー』に突っ込ませとくから~」

 鬼か、あんたは。

 価値四百万の都市は惜しいけれど、防御力が紙に等しいシーフの『リンナ』では、教会送り以外の未来が見えないわ。

「……まぁ、何でも良いわ。また今度、続きをやりましょうね」

 掠めるように、頬にキスをしてあげる。

「はぁーい♪ いってらっしゃい、麟那姉さん」

 甘ったるい、杏仁豆腐のような鈴那の声に手を振って、背中を向ける。あらかじめタクシーを呼び出しておき、手早く着替えと化粧を終えた私は、外に出た時にベストなタイミングでマンションの前に止まった黒塗りのタクシーに飛び乗った。



 ――運転手にチップを渡して、十数分で『アレキサンドリア』に着き、これ見よがしに装飾された木製の扉を開け、店内に入る。顔馴染みとの挨拶もそこそこに、私はいつも通りにカウンター席でマティーニを飲んでいる喬司の隣に立ち、マスターに向かって軽く、挨拶をした。

「こんばんは、マスター。調子は如何?」

「いらっしゃいませ、多野本様。それなりに、と言った所でしょうか」

 社交辞令。でも今日はそんな、世間話をしにきた訳じゃない。今日は如何様に――と、マスターが聞いてきた所で私は、間髪入れずに口を開いた。

「そうね……今日は、バイオレット・フィズが飲みたい気分。でも、他に良いものが入っているなら、そちらにしたいわ」

「――」

 無心にグラスを拭く手は止めず、しかしマスターの目が、銘刀のような切れ味を帯びる。

「左様でございますか。それでしたら本日は、ペリエールがお勧めとなっております。まだ少しお若いのですが、テイスティングの必要もないまでに、美味ですよ」

 海外からの客。若い男が複数。筋者の類ではなく、盗聴の心配はない。ウラも取ってある、か――

「素敵ね。一瓶、いただくわ。お腹も空いてきたから、シェフのお任せで四人前くらい作ってもらって、彼と一緒に、階上うえで飲っても良いかしら」

「かしこまりました、多野本様。それでは、奥から三番目をお使いくださいませ。今回は、こちらを先に飲んでいただき、後ほど、追加のお飲み物とお食事をお持ちいたします」

 ええ、よろしく――と、氷で良く冷えたペリエールを容れ物ごとマスターから受け取った私は、空いている手を喬司の肩に乗せる。

「さ、行きましょうか」

「え、ええ……」

 突然の事に戸惑っている様子の喬司と私は、二階に行き、奥から三番目の部屋に入った。件の客は、一番奥の部屋にいるようだ。二階の個室は、全ての部屋が、防音に優れている。けれど、この界隈に『完璧』という言葉はない。二番目が空いているのにもかかわらず、三番目を使わせるのは、そういう意味だ。相変わらず、マスターの的確な配慮には、恐れ入る。

「麟那。一服したいのですが、よろしいでしょうか」

 プロの習性から、手早く部屋を調べ終えた喬司が、お色気全開の女が描かれたボックスを見せる。

「構わないわ。それにしても、喬司も煙草なんて吸うのね。しかも、洋モク」

「たまに、ですね。緊張すると吸いたくなる――まぁ、習慣のようなものです。絵柄については……組織の支給品ですので、お気になさらず」

 と、喬司は、紫煙を吐き出して灰皿を手繰り寄せた。八岐大蛇の彫刻が施された金縞のライターを弄ぶ姿を横目に私は、備え付けの冷蔵庫からダイス・チョコレートの袋を取り出し、コルク抜きを持って喬司の正面に座る。

 コルクを抜くと、良い葡萄の香りが、鼻をひくつかせる。濃紅の液体をお互いのグラスに注ぎ、乾杯してから口に含む。ペリエールを『いただく』までが符牒で、私はワインを好んでは飲まない。だけれどマスターのお勧め通り、とても良いものだという事だけは、理解できた。

「これは、素晴らしいですね。特級には劣りますが、このペリエールも、一級のチィユウです。 ――それにしても、いやはや貴女の手際の良さには脱帽します。“パープル・コード”――噂には聞いていましたが、つい先程まで、忘れていましたよ」

 喬司が、灰皿に灰を落としながら、感心したように、何度も頷く。そう何度もやられると、茶化されている気がしないでもない。

「ふふふ。これも、昔取った杵柄、と言うのかしら。私が名付けた訳じゃないのだけれど、何時の間にか、定着してしまっていたわね……」

 そう。今は、悪の社交場でなら、ほとんどの場所で通じる“パープル・コード”だけれど、私自身がこんな、大層な呼び方を始めた訳じゃない。“和”在籍中、私は『紫』という言葉を多用していて、それを続けているうちに、広く知られるようになってしまった。その畏怖と羨望が今でも活きている、というだけのこと――

「ま、いずれは草臥れた木となる話よりも、今は、たわわに稔った実をもぎ取る話をしましょう」

「そうですね。では――」

 煙草を灰皿に押し付けた喬司は、ワインを一口入れてから姿勢を正した。明らかに、チョコを片手に持ちながら聞いて良い話じゃない。包みを開きかけたチョコを手元の皿に置き、喬司の話を待つ。

「まず、始めに言っておきます。この依頼に対する報酬は、八百万です。全額、後払いになります。また、一部達成は認められず、完遂時のみ、全額が支払われます。殺しの手段は問いませんが、必ず、死体にしてください。これが、今回のターゲットです――」

 喬司が書類鞄から取り出した、大きめの写真を受け取る。男三人に、女ひとり――到って普通の、私服姿の四人組。こんな、どこにでもいそうな男女にどうして、八百万もかけて殺しを依頼するのか。

 ……いや、違う。重要なのは、そこじゃない。問題は、完全成功でしか報酬が出ない、という点だ。それだけ、今回の依頼が難しいという事は――

「見た感じ、パンピーの四人組に八百万、ねぇ。どうせ、只者ではないのでしょう? 背景を話して」

 喬司の目を真正面に見据えて言う。私の本意を受け取ったように喬司は、左右に分けた長い前髪を、サッ、と掻き上げた。どんな場面でも、気障きざったらしい態度を忘れない男だ。だけれどその目は鋭く、今回の件が、冷静な彼を苛立たせているのだと、肌身で感じ取った。

「ええ。その通りです。一昨日は、“蟒”直属の掃除屋が。そして昨日は、“和”の暗殺者がふたり、この四人に殺られました」

「何ですって……?」

 歪んだ眉根を直すのも忘れる――予想以上に、穏やかではいられない話だった。

 この国で“和”と“蟒”に仕掛けられる組織なんて、片手の指だけでもお釣りが来る程度にしか存在しない。勢力第三位の“耶麻”か、第四位に伸し上がった“ぬえ”くらいだろう。あるいは、ヒエラルキーに組み込まれていない馬鹿達の仕業か――いずれにしても、狂気の沙汰じゃなく、常識では考えられない。

 だから私は、順当な答えを口にしてみた。

「仕掛けたのは、“耶麻”ね?」

「……残念ですが、それだけでは、五十点ですね。確かに、この四人は、“耶麻”の兇手シュンシャウです。しかし……この者達は、“耶麻”の命で動いている訳ではないようなのです。件に関しては、“耶麻”の大神官からも、声明が出ています」

「……訳が解らないわね」

 自覚のある癖で、私の左眉が自然に持ち上がる。“耶麻”のトップである大神官が、わざわざ声明を出した――これは、この件について、“耶麻”そのものは、本当に関知していない事を示している。なら、この四人は、暴走か何かの産物なのか。

 それに、気になる点は、この一箇所だけじゃない。同じ立場から想像するに、“和”の暗殺者を殺したのは、自分達の力を誇示したいがため。でも、それなら、わざわざ“蟒”の掃除屋まで手に掛ける必要なんてない。これは、まるで――

「力を誇示したいのではなく、力を試したいだけ」

 私の呟きに、喬司も首を上下させる。

「私も、麟那と同じ予想です。我々の草からの報告では、この者達は最近、奇妙な術を身に着けたらしく、その強大な力に溺れてしまったのでしょう」

 我々の間では、さして珍しくもない話ですね――と、喬司は、二本目の煙草に火を点け、吐き出した煙で輪っかを作った。あたかも、緊張に包まれたこの部屋が煙の輪っかだと言っているかのように霧散していくのを見ながら私は、チョコレートの袋に手を突っ込みつつ、喬司に聞く。

「となると……クライアントは、“和”と“蟒”なのかしら」

「その通りです。こちらの被害は、掃除屋ひとりのみとはいえ、ズタズタに切り裂かれた上に焼殺された。月大姐ユエ・ターチィは、傘下・直属問わずに、仲間を大事にされるお方です。その怒りと悲しみは深く、壬大哥シン・タークォは、同じ手口で暗殺者を殺された、“和”にも呼びかけたのです」

 話し終えると喬司は、深く息を吐いた。その心中は察して余りある。

 月大姐は、“蟒”で二番目に強い権力を持っている人で、私も何度か会った事があって、何の気紛れかは知らないけれど一度、閨に呼ばれて可愛がられた事もあった。私はまだ十七歳で、言われるがままに身を任せていたけれど終始、すごく優しい気持ちに包まれていた。裏の組織の第二位とは、とても思えないくらい穏やかな、それこそ名前通りに月のような人で、“蟒”のトップを勤める壬龍司じんりゅうじの奥様でもあるお方。

 でも、閨で語ってくれたその人生は、好き勝手に想像していた乳母日傘のそれとは全くの逆で、聞き終わった私は、感極まって泣いてしまって……泣き疲れて月大姐の胸の中で眠ってしまったのを、今では赤面ものだけれど、良く覚えている。

「そして――“和”側の資金提供責任者は、瑞岳紫狼たまおかしろう。即ち、貴女の元上司です」

「……!!」

 それまで、脳裏に浮かんでいた、上品に微笑む月大姐と、紳士らしく構える壬龍司の隣に、豪快に笑う男の姿が浮かび上がった。


 ――よう、クソガキ。相変わらずシケたツラしてんなぁ! また肉食わせに連れてってやっから、元気だしなや!


 今に考えても、女の子に向かってクソガキはないだろう、と思う。でも、それが、あの人の優しさだから、私は女だてらに暗殺者をやって、今まで生きてこられた。ただ、ひとつだけ恨み言を言わせてもらえるなら、あの頃は任務を達成する度に焼肉屋に連れて行かれていたから、身体に余計なお肉が付きまくってしまった事かしら。

 十年経った今でも、昨日の事のように思い出せる、あの人と、初めて出会った日。月並みな言葉でいえば多分、あれが私の初恋だったのでしょう。

「どうでしょう。この依頼……受けていただけますか?」

 真摯の表情を崩さずに、喬司は言う。私の返事は、もう決まっていた。

「――“軍曹”の御恩に報いる絶好の機会よ、是非もないわ。引き受けましょう」

「謝々、麟那。この件は既に、“キリ”に情報の収集を依頼してあります。明日にでも、彼女の店を訪れると良いでしょう」

 そう言った喬司の笑みにはどこか、含みがあった。

 私が、彼女の素性と店を知った事は、もう知られている、か。それらしい人間の気配は、感じられなかったのだけれど、“蟒”も中々の人材を揃えているようね。

 そういえば喬司は、いりあを知っているのかしら――それを問い質そうとした途端、扉の向こうに気配を感じて私は、開きかけた口を閉じる。

「多野本様、栂様。お飲み物とお食事をお持ちいたしましたが、お部屋に入らせていただいてもよろしいでしょうか」

 マスターが、飲み物と料理を持ってきたのか。思わず腕時計を確認すると、話を始めてから、それなりの時間が経っていた。

 喬司に目配せをする。彼が小さく頷いたのを確認し、どうぞ――と、私はマスターを部屋に招きいれた。テーブルの上に飲み物と湯気の立つ、出来立ての食べ物が次々と並ぶ。どれも美味しそうで今にも、胃袋から手が伸びてきそう。タラーリ、と垂れそうになる涎を抑えるのにも、一苦労する。

「今回は、お任せという事でしたので、手前どもで多野本様の好みを熟慮し、ソパ・デ・アホと牛肉の赤ワイン煮、アンチョビポテトをご用意しました。それと、本日は蜊の特級品が入っておりましたので、アロス・コン・アルメハスにしてみました。それでは、ごゆるりと――」

 キッチリと四十五度、お手本のように頭を下げて、マスターは部屋を出て行った。喬司が、いそいそ、とマティーニの栓を開ける横で私は、どれから手を付けようか迷う。ソパ・デ・アホ――にんにくスープは、パプリカの海に浮かぶバゲットや生ハムが「私を食べて」って、言っているみたいだし、牛肉の赤ワイン煮も良い色に染まって頃合いに煮えていて、胃酸で胃が爛れてしまいそう。アロス・コン・アルメハス――スペイン風あさりご飯も、程よく炊き上がったご飯と散らしたパセリの色合い、炒めた玉葱の風味が食欲を煽って仕方がない。

 それに、今日はこれで二度目だ。マスターの、さり気ない配慮に恐れ入るのは。

「はい、喬司。やっぱり、お食事は楽しまないとね。ふたりきりなら、尚更だわ」

 茶目っ気たっぷりにウインクする私に、喬司はおしぼりの袋を破りながら笑う。

「ははっ、確かに! 麟那の食べっぷりを見ていると、私までお腹が空いてきますからねぇ。遠慮なく、ご相伴にあずかるとしましょう」

 ――料理を口に運ぶ度に舌鼓を打ち、弾む会話と同じペースで、料理も飲み物も減っていく。

 暫くの間、私は先程の依頼を一時、脳の片隅へと追いやり、喬司との会食を大いに楽しんだ。


 *


 ――翌日の午後。鈴那と一緒に外出した私は、ゲームセンターで遊ぶというあの子とは途中で別れ、鍵莉の案内で、彼女の店の前に来ていた。

 視線を向けた先に飾られている看板には『フォーチュンハウス☆きいり』と、今時の女子高校生が好んで使いそうな丸文字で、誇張するように描かれている。歳を考えない鍵莉の行動に、私は空を仰ぎそうになったけれど、情けも容赦もなく、厳しい日差しを浴びせかけるオキナワの太陽に目を向ける気にはなれない。こうして立っているだけでも玉汗が垂れてくるし、さっさと中に入ることにした。

 ギイィと、アンティークの木扉を開けて、店内を覗き見る。冷房は、あまり効かせていないみたいで、中に入っても、それほど涼しさは感じない。表の看板から想像して、さぞファンシーな内部になっているんだろうな、と思いきや、黒を基調とした、とても『らしい』店内だった。

 左右の大棚には、古今東西の占いに使われる道具が、所狭しと並べられている。見るからにレプリカなものもあれば、素人目に見ても逸品と分かるものもあった。右端に設置された暗幕の向こうが、占いの部屋になっているらしい。

「魔術に使う道具もありそう……」

 そんな事を呟いたら、本当に見つけてしまった。根の部分が人間の形をしている――マンドレイクと呼ばれる植物。本物ではなく、二股の大根なのでしょうけれど、紛い物でも魔術のデモンストレーションに用いられると、以前に借りた本で見た覚えがある。

 それは良いとして、肝心の、鍵莉の姿が見えない。暗幕の向こうにいるのかしら、と思って近づいてみても、占いの部屋からは、誰の気配も、感じられない。

 まだ、母屋にいるのかもしれない。首を傾げながら、不用意にレジカウンターの前に近づくと、鬼火の色にも似た姿が、陽炎のように突然、私の目に映し出された――

「いらっしゃいませ」

「――っ!?」

 ひく、と喉が引きつる。実は、ここが幽霊出現のスポットで、その霊にでも声を掛けられたのか、と思った。けれど、そんな訳もなく、レジの隣に座っていたのは、紛れもなく人間だった。初めて会った時と同じように、頭上で点滴用のバッグが、キィキィと、揺れていて、それが、一層の恐怖と不安を掻き立てる、現代の生き人形だ。

「いりあ……驚かさないで」

 待ち人じゃない、水の化生と言うべき姿が、そこにあった。それが、さも当然と言うようにいりあは、細すぎる人差し指を頬に当てながら首を傾けて、色素の薄い唇を滑らせて言う。

「私は、最初から、ここにいました。麟那さんが、気付かなかった、だけです」

「……」

 教え子に言い聞かせる教師のように、一句ずつ区切る言い方には、苛立ちを覚える。だけれど、きっと、正論なんだろう……いりあは、始めから、そこにいた。言い訳が許されるのなら、彼女は、あまりにも存在感が希薄すぎて、気配の察知がしにくい。だから、私には分からなかった。

 でも、結局の所は、一言で切って捨てられる理屈に過ぎない。自分の目で確かめようとせず、己の気配察知能力に驕った結果が、これだ。ここで、何かを言おうものなら、恥の上塗りは目に見えている。

「鍵莉は?」

「まだ、母屋に。もう少しで、来ると、思います」

 母屋にいる、という予想だけは、当たっていたようだ。それなら――

「ふぅん。じゃあ、来るまで、適当に冷やかさせてもらうわ」

 と、乱暴に言って、いりあに背を向けた。どうぞ、ごゆっくり――という彼女の、か細い言葉を耳に入れるのすら億劫で、ささくれ立った心では、行動も言動も、自然と荒々しくなってしまう。

 どうも、この女は苦手だ。初めて会った時から、馬が合わないだろうとは思っていた。彼女の、硝子瞳にも等しい清水の双眸は、私の心を見透かしているみたいで、この上なく嫌い。

 いや――取り繕うのはやめよう。たった一言で、心の核まで抉ったこの女を、私は心底恐れている。その、何気ない調子の言葉でいずれ、全てを暴かれてしまうのではないか、と。いりあからしてみたら、そんなつもりは、毛頭ないのだろうけれど。

「……何か、欲しいものでも、ありましたか」

 いりあの、無機質な瞳が、再び視界に。気付けば私は、元の位置に戻ってきていた。決して広くはない店だから、じっくり見て回っても、十分もかからないで一周できてしまう。できる限りゆっくりと周って引き伸ばしてはみたけれど、考えながらでは、逆効果だった。

「いいえ。私には、理解できないものばかりだから……」

「そう、ですか」

 いりあは、特に感慨もないようにそう言って身を屈ませて、ガサゴソと、音を立てたと思ったら、白い長方形の箱をカウンターに置いて、一息吐いた。訝しい視線で注視していると、たどたどしい動作で、箱が開けられる。塩漬けした葉っぱの香りが、鼻先を、ちょんと、押した。

「常連のお客さまから、いただきました。キョウトで有名な、お菓子屋さんの、“桜餅”だそうです。おひとつ、いかがですか」

 無表情に箱を差し出してくるいりあからは、悪意や邪な感情は読み取れない。無碍にしてしまうのはさすがに、傲慢が過ぎるだろう。

「……いただくわ」

 右手で摘み取った桜餅を一口かじる。桃色の生地と餡子の甘みに、仄かな塩味が加わる。二口も食べれば、有名な老舗の作品だと、すぐに分かった。三口、四口目にはもう、粉しか残っていない。こんな時でも旺盛な、自分の食欲を恨めしく思う以上に、腹立たしい。

 そんな、私の姿を、無言で見つめるいりあは、好きなだけどうぞ、と言わんばかりに、箱をこちらに寄せてくる。精神をくすぐる欲には勝てず、私は二個目を手にしていた。その姿も、いりあが静かに見ている。

 貴女は食べないの――口腔まで来ていたその言葉を、寸での所で飲み込んだ。

 いりあは、固形物だけでなく、流動物さえも、摂る事ができない。状態維持液と栄養・滋養強壮液。この、ふたつの点滴が、命綱のように、辛うじて、彼女の命を繋ぎ止めている。

 あからさまな失言を避けられた事に私は、密やかに安堵の息を吐く。それを知ってか知らでか、両手を腿の上で交差させて瞼を閉じたいりあは、やがて、囁くように話し始めた。

「桜餅は、餡子に、塩漬けにした、桜の花を混ぜて、作ります。甘みの中に、含まれる塩気はこの、花びらによるもの、です……」

「……」

 唐突な、いりあの薀蓄は、要領を得ない。そう、思っていたい。少なくとも――心の内では。

「かつて、人間の首が、首級だった頃。遠くへ運ぶ際は、途中で腐敗するのを避けるため、その首を、塩漬けにしました。桜の花も、同じ、です。それは、美しさこそ、永く、変わらない。ですが、短い間しか、咲き誇れなくても、桜の木の華として、咲いている内は、生きて、います。漬けられて、自由を奪われてしまった、花びらなど……死んでいるものと、変わりません」

 まるで、私のように――と、瞼を開けたいりあは話を締めて、水色の瞳で私を射抜いた。

 彼女の、あの一言に、激昂しかけたのは確かだけれど、“桜餅”の一件で傷付ける気なんて、最初からなかった。何の事はない、意趣返しのつもりだった。

 だから私は、素直に謝って、彼女の推理力と洞察力を称える。

「降参。中々どうして、大したひとね。貴女を不快にさせてしまった事は謝るわ。ごめんなさい」

「いえ……私も、深く考えずに、言ってしまいましたから。ただ、もし……お詫びに、ひとつだけ、聞いてもらえるのでしたら、麟那さんに、お願いしたい事が、あります」

 そう言って姿勢を正したいりあの硝子瞳には、確かな決心が浮かんでいた。お互い、わだかまりがなくなったとは言えないけれど、私は深く頷いて先を促した。

「構わないわ。何かしら」

「麟那さんも、ご存知の通り……私の命はもう、長く、ありません。長くても後、三年……早ければ、一年以内に、私は、この世から、いなくなるでしょう。そうなった後……鍵莉の事を、お願い、したいの、です」

「……」

 いりあの言う通り、私は知っていた。如何に状態維持液で変わらない姿を保っていても、寿命までは引き伸ばせない。近いうちに必ず、その時は来る。何時か訪れる結末――いりあと鍵莉は、決して同じ時を歩めない。

 だけれど、それは、私も同じ。私が、ターゲットを殺すように、誰彼が何時何処で、彼我を測りながらも黒光りの銃口を、こちらに向けているかも分からない。殺しを生業にしている以上、遺族の恨みを買うのは、必然。今日明日にも、路地裏で惨たらしい死に様を晒しているかもしれないのだから――

「私は、明日をも知れない殺し屋だから……約束はできない。それでも良ければ、できる限りの事はしましょう」

「ありがとう、ございます――っ」

 目に見える喜びを顔に表したいりあは、語尾を詰まらせて激しく咳き込んだ。慌てずにカウンターの中に入って、体勢を崩しそうになった彼女を支える。流動物さえも受け付けない彼女の喉が、普通のはずもない。一句ずつ区切るような独特の喋り方は、喉への負担をできるだけ軽くするためだ。私は、チアノーゼが出かけているいりあの顔を見て、長々と喋らせてしまった事への罪悪感を感じずにはいられなかった。

「大丈夫?」

「……はい。少し、疲れてしまった、みたい、です。鍵莉に、声をかけて、部屋に、戻ります、ね」

 苦しそうな息遣いが収まったいりあは、フラリ、と立ち上がってそのまま、何かを考える仕草をする。でも、すぐに、思い出したように、ドルマンにも似た袖に手を入れて、折り畳まれた紙を、私の右手に握らせた。彼女を見る私の視線も、自然と厳しくなる。

「これは?」

「鍵莉の、占いの、師匠による、託宣、です。信じるか、どうかは、麟那さんの、ご自由に」

 それでは、また――と、真意を聞き返す前にいりあはもう、背を向けて歩き出していた。なるほど……鍵莉の占いの師匠が、いりあという訳か。

 私は、四つ折りにされたメモ用紙大の紙を広げる。


『惑いの蓮のかおりに気を付けて。その人は近い内に、あなたの前に現れるでしょう』


「…………りんな」

 口から零れ落ちる、私と同じ名前。

 あれから八年――忘れていたいのに……それが私に打ち込まれた楔のように、消し去りたい光景が脳髄に焼き付いて離れない。鈴那を得てからも、一緒に行動していた頃の思い出がまざまざと蘇り、私を苛んで止まない。

 あの子は死んだ。腕が未熟な癖に慢心していた……私が、殺してしまった。だから、この紙に書かれている事が本当だとしても、それは、全くの他人――そう、思い込むことで私は、私の心の平常を維持させる。

 紙を丁寧に折り畳んで内ポケットに入れた所で、パタパタと足音を立てて鍵莉が、にゅっと、顔を覗かせた。ノースリーブのサマー・ワンピース姿が、今は取り立てて眩しく見える。

「ごめんごめん、野暮用が長引いちゃってさ……って、やけに辛気くさい顔してるね。もしかして、またいりあに何か言われた?」

「……いえ、大した事じゃないわ」

 口に咥えたチャッパチョップスを芯ごと上下させて、好奇心旺盛に詮索しようとする鍵莉を遮り、先に情報について喋らせる。時間が惜しいのも、事実だから。

 聞き出した、“耶麻”の暗殺者達の情報を整理して頭に叩き込み、尚も食い下がってくる鍵莉の喧しい口に桜餅を突っ込んで、リスみたいに頬を膨らませながら、ムシャムシャ、と食べる鍵莉の姿に、私は溜飲を下げて笑い声を上げた。


 *


 遠くで、汽笛の音が聞こえる。それ以外は、極めて静かな場所。汗を増産させる蒸した風も、ここまで来れば、多少は涼しさを感じる。

 ナハ・第五港区――客船の出入りを主とする第一港区や、昼夜を問わず漁船が忙しない第二港区とは違い、輸出用のコンテナで埋め尽くされているこの区域は、夜になれば猫の一匹も見えなくなる、そんな場所だ。

 鍵莉の情報から、今回のターゲットである“耶麻”の暗殺者四人組が、この第五港区でマフィアの取引品を奪取しようとしている事を掴んだ私は、二日後の今夜――何時もの黒ずくめで、コンテナに囲まれた道を歩いていた。

 暗殺者達がマフィアの取引品を奪おうとしている理由は、敵対組織に取り入る際の手土産か、海外へ高飛びするのに必要な資金に換えるためだろう。自業自得なのだろうけれど、三強を敵に回してしまっては、連中も生きた心地がしないはず。そういう者達は、必ず“盾”を求める。

 ここに来るまでに、死体がもうひとつ増えた。今度は“耶麻”専属の経理だ。信に厚い経理を殺された“耶麻”の大神官は烈火の如く怒って、全構成員に褒賞金と昇進を餌に、裏切り者の処刑を命じた。つまりは今、連中の痕跡が少しでも残されている場所には“耶麻”の構成員が手ぐすねを引いて待っている、という事になる。この場所はまだ、掴まれていないようだけれど、それだって時間の問題かもしれない。

 だから私は、“耶麻”がここを嗅ぎ付ける前に、速やかに仕事をする必要があった。下手をして、報酬の八百万がフイになってしまう事態だけは、避けないといけない。それこそ読んで字の如く、骨折り損の草臥れ儲け、だ。

「……」

 私は、道の真ん中で立ち止まった。まるで、お誂えのように、四方に隠れられるようにコンテナが配置されている。すぐに息を殺して気配を探ると、押し殺したような殺気が、二方向から感じられた。上手く殺しているつもりなのでしょうけれど、断片から察知されるようでは二流以下ね。

 ……私は狩る側の人間だ。だけれど、今日に限って言えば、狩られる側の人間かもしれない。この先――明らかに、待ち伏せをする者の気配が感じられた。

「――っ!!」

 左斜め前のコンテナからの強い殺気に、私は軽やかに身を屈めた。頭上を通り過ぎていった鋭利な刃物が、カィンと、コンテナに弾き返されて私の足元に転がる。十字型の鋳物に刃を付けたそれは、旧い時代の暗殺者が使っていた飛び道具だった。

「シィッ――」

 音を刻むように同じリズムで、今度は左斜め後ろと右斜め後ろから、手裏剣が私の顔を目がけて飛んでくる。横に転がってかわし、すぐに体勢を整えた私は、先の三つとは比べ物にならない程の殺気に、反射的に身を逸らしていた。右斜め前から放たれたハンドボール大の火玉が、アームカバーの一部を焦がし、コンテナに熱を加えて消滅した。


 ――今のは……なに?


 火炎放射器でも、燃え盛る弾丸でもない。映画や小説の中の出来事が、現実に起こった――受け入れ難い事実に、私の脳内は軽い混乱を起こしていた。それでも、決して気は抜かずに私は、コンテナの間から姿を見せた、赤毛の髪をムースか何かで逆立たせている男を強く睨み付ける。

「おれの“カートン・ジーツ”が、初見のヤツにかわされるなんてな。さすが、“パープル・コード”だ」

 戦場でナイフや銃を握っているよりも、熱狂するライブ会場でエレキギターを掻き鳴らしていたほうが映える、軟派な風体の男だ。だけれど、長年の習慣というものは、しつこい油汚れにも似ている。先程までは朧気だった気配が、今は明確に、肌を突き刺してきている。この男の目は、場数を踏み、数多の死体を築き上げてきた者のそれだった。

 男が指輪で飾られた手を挙げると、肌を刺すような気配が三つに増えた。左のコンテナから、チューインガムで風船を作る女がひとり。首を回して確認して、後ろからふたり――チェック柄の半袖シャツを着た男達が姿を現す。赤毛の男の髪色を除けば、写真通りの四人組に相違ない。

 都合――私は、×の形に四方を囲まれた。

「待ち伏せされていた、という訳……か。アシが付かないように行動はしたつもりだったけれど、誰からの情報かしらね」

 最悪のパターンは、鍵莉がこいつらにも情報を流していた場合。あくまでも推測だけれど、それなら、彼女も殺さなければならない――そんな、私の心配を除くかのように赤毛の男は、指で弾いたガムを自分の口に放り込んでから口角を吊り上げて見せる。

「ああ。ボスが教えてくれたんだよ。ここ数日の、あんたの行動は、ボスからは丸裸だったって事さ。あんたが懇意にしているらしい、“キリ”って情報屋から買った訳じゃないから、安心しな」

 鍵莉との関係は、とっくに知られているか。大事に巻き込ませないように、気を付けないといけないわね。

「ボス? 貴方達のボスは、“耶麻”の大神官殿ではないの?」

 今は、剣を抜くときじゃない。パンとワインで会話をする時だ。何気ない言葉で揺さぶりを掛けてみる。

 すると、口を開いた赤毛の男から、ある種の強い感情が読み取れるようになった。それから確信に繋げられる程の、非常に強い感情を――

「ふん。あいつは、地位と権力が欲しいだけの、只の俗物さ。下にいる奴らの事なんか、これっぽっちも考えていないんだ。だから、おれ達は組織を見限って、その時に知り合ったボスから術を――」

 この話を聞く限りでは、今回の件に“耶麻”そのものは、本当に関わってないと断定して良いだろう。それにしても、この男……腕は中々のようだけれど、話術のほうはからっきしね。もう少し誘導すれば、より重要な話を漏らすかもしれない。

 ――だけれど、そこまでだった。

ごう! アンタ、何ベラベラ喋ってんのよ! その女が味方とは限らないのよ!?」

 左斜め後ろにいた、猫柄のカットソーに同色のミニスカートの女が、赤毛の男を叱咤した。感情の高ぶりをそのまま表すかのように、彼女の周りで風が吹き荒れ、枯葉や小石が狂ったように回り始める。同時に――不思議にも、彼女のウルフ・ヘアは、亜麻色から鮮やかな翠色に変化していた。

「……っ!?」

「あたしは風術の士、らん

 私の驚きを余所に、嵐と名乗った女は、金属に見えるプレートをこちらに投げて寄越した。縦投げだ。避けるか掴むかをしなければ、顔を柘榴にされてしまう。両手を構えて掴もうとした瞬間――甲高い音を立ててプレートは真っ二つになった。鍛えられた聴覚には少しきつい。私は、両耳を掌で軽く押さえ、顔をしかめる。

「見ての通り、風を操るわ。下着姿を男共にサービスしながら帰る羽目になりたくなければ、妙な真似はしない事ね」

 それを合図に、残るふたりの男が、じりじりと、距離を詰めてくる。しかし、私の脳は、恐ろしい速度で落ち着きを取り戻していっていた。

“和”で、年に一度、必ず行われる慣熟訓練の賜物だった。厳冬期のオイミャコン、真夏のデスバレー、雨季のアマゾン、赤道無風地帯の孤島でのサバイバル生活――初めてナイフを持たされた時から培ってきた全ての経験を血肉に、今の私は在る。 ――既に冷め切った脳は、早くも最適解を叩き出していた。

「……なるほど、ねぇ。火、風と来れば、残るは――水と土、か」

「――っ! 何故、解った」

 わからいでか。

 一見、インテリ風の、眼鏡を掛けた男の髪色が鮮やかな水色に変わる。轟の火とも、嵐の風とも違う、聞こえるはずのない瀑布が耳に響いてくる。仕組みは解らないけれど、感情の高ぶりとともに髪色が変わるのは、間違いなさそうだ。でも、それは、臨戦態勢に入った、という意味でもある。

 右斜め後ろは、今もスナック菓子を無心に食べている、無害そうな小太りの男だけれど、土の術とやらを使うはず。この男の髪色は、濃い茶色だ。もしかしたら、この、どう見てもやる気がない姿勢が、こいつの戦闘態勢なのかもしれない。

「私は水使いの、ながれ。彼は土使いの、ふるい。短い付き合いかも分かりませんが、どうぞよしなに」

 流の慇懃な紹介に、私は唇の端を吊り上げて言う。

「轟流嵐震――四字熟語にでもありそうな名前ね。精々、覚えておくわ」

 何時でも銃を抜けるように私は、右手に神経を集中させて睨み合いを続ける。先に動いたのは、リーダー格の、轟だった。だけれど、動かしたのは手や足じゃなく、口で――

「なぁ、あんた。おれ達と取引しないか?」

「取引?」

「なぁに、あんたにとっても悪い話じゃない。おれ達は、これからマフィアのブツを奪って、それを換金したら海外に高飛びするんだ。それで“耶麻”とも、この国ともオサラバさ。ボスが、おれ達を、自由の国に連れて行ってくれるんだ!」

 やっぱり、か。嵐の話から、凡その予測はできていた。

 その女が味方とは限らないのよ――味方かどうかも分からないという事は、敵ではないかもしれない、という事でもある。だから折を見て、取引を持ちかけてくるんじゃないか、とは思っていた。

 それよりも、熱弁する轟の目は、不自然に輝いているように見えた。間違いなく、ボスという人物を妄信している。倍増した気配から、他の三人も同じ――

「貴方達のような面妖しい人間が、この国から去ってくれるのは、それなりに助かるわね。それで?」

「簡単さ。あんたは、おれ達を、このまま見逃してくれるだけでいい。そしたら、換金した金額の半分を、あんたに渡す。それでも、五百万は下らないはずだ」

「へぇ……」

 私は、目元を笑わせる。轟は嘘を吐いていない。それは、流達の表情を見れば解る。彼らは、リーダーの轟を信じきっているのだ。

 愚直なまでに、妥当な条件だった。ここで見逃せば勿論、報酬の八百万はフイになるのだけれど、こいつらを殺すのに使う弾だって無料ロハじゃない。殺傷力の高いアーマーピアシングやホローポイント弾は、コストも馬鹿にならない。アームカバーの一枚を駄目にしただけで手に入る五百万は、中々に魅力的ではある。

 だから、私は言った。準備体操をさせるかのように、右手の五指を動かしながら――

「悪くはないわね」

「そうだろう? これで取引は成立――」

 轟の言葉は、最後まで続かなかった。破裂音――短いマズル・フラッシュの後、轟の胸に、遅咲きの薔薇が大輪を咲かせる。私の右手の拳銃からはまだ、熱の冷めない硝煙が立ち昇っていた。

「がは――っ! な……ぜ……」

「何故、ですって? あまり、舐めないで欲しいわね。私は、今でこそフリーランスの殺し屋をしている。けれど、プロである事には変わりがない。プロは決して契約を違えないわ。たとえ、どんなに魅力的な条件を出されても、それが後出しである限りは、私達にとっては白紙以外の何物でもない。貴方達のような、暗殺者としての誇りを失った豚と、一緒にしないで頂戴」

 語っている途中で既に、ロゼのワインを吐き出す轟の目からは光が消えていた。最期は、やるせないような笑い顔を見せながら死んでいった。ボスとやらに踊らされなければ、二十年そこそこで人生を終わらせる事もなかったでしょうに。可哀想な子達。

「轟ォ――!! お、お前なんか、ズタズタのボロ雑巾にしてやる! この“フジーン・ジーツ”で、さっさと死になさいっ!!」

 刹那の感情に浸り、思い出したかのように夥しい殺気と風の奔流を露にする嵐を振り返り、掌から鎌鼬――刃を纏った風が放たれる前に私は、嵐の額に狙いを定めて引き金を引く。的確な一撃は頭皮と頭蓋を貫通し、彼女は、ずるりと、膝から崩れ落ちた。

「そ、そんな……あ、あたしの、風よりも……は、速い……なんて――――」

 嵐は、女子座りのまま首を、かくん、と傾げながら事切れた。私は再び踵を返し、流に殺しの視線を向ける。並の人間なら、これだけで抵抗力を失い、死を甘受する。しかし、流は、何かを呟きながら、眼鏡の向こうから冷徹な目で返してきた。一筋縄ではいかない、と判断した私は、引き金を引いていた。

 だけれど、その銃弾は流に届かなかった。彼に右手には、轟々と落ちる滝の流れが見える、青い刀身の剣があった。

「くっ! 銃弾を呑み込んでしまうなんて――」

「“スーイトン・ジーツ”で作った、瀑布の剣です。最早、私達の悲願は永遠に叶いませんが、これをあなたの胸に深々と突き刺し、轟と嵐への餞とします。 ――震。この女は、私が引き受ける! あなたは早く逃げなさい! オォォォォ――ッ!!」

 狂乱の声を上げて、流が剣を振りかぶってくる。両手持ち――大振りな動きだ。

 滝の水圧は時に、ブリキの板をひしゃげ、真っ二つにするという。恐らくは、あの剣にも、同じような威力が備わっているのだろう。一発でももらえば、きっと私は五体満足ではいられない。

 でも、それは、当たればの話――

「ぐはあ……っ!」

 見え見えの斬撃を悠々と交わし、流の腹に拳を連続で叩き込みながら私は、心の底から彼らに憐れみを感じていた。元は“耶麻”の暗殺者として名を馳せていたでしょうに、元は同じ稼業に籍を置いていた者として、今の彼らは見るに耐えない。

 魅力のある力を急激に手に入れてしまった事で、彼らは忘れてしまっていた。暗殺者の本分とは何か、を。

「ハアッ!」

 暗殺者にとって、近接戦闘術は、教科書の第一部と同じ。徒手空拳でも、人は殺せる。それを、私が修めていないはずもない。彼は、そんな、当たり前の事でさえ忘れていた。その代償は――絶対の、死。

「うぐぉあぁ――っ!!」

 ローキックで流の両膝を砕き、態勢を崩した所で、右足で延髄斬りを放つ。スピードの乗った蹴りと、エンジニア・ブーツに仕込んであるチタン・レガースの相乗効果で、彼の頚椎は、いとも容易く砕けた。

「――――」

 即死。彼はもう流という人間じゃなく、只の肉の塊でしかない。

 揃いも揃って異能の力に感け、銃の脅威と利便性を、忘却の彼方に葬ってしまっている。銃が吐き出す弾丸の速度は、術某をしても超えるのは難しい。だからこそ、一部の組織が異能を取り入れ始めた今でも、銃は殺しの舞台で花を咲かせ続けているのだから。

 赤と青の、ふたつの死体を一瞥し、私は振り返る。とっくに逃げているはずの震は、腰を抜かしながら身震いをしていて、情けなくも股間に染みを作っていた。

 小太りな見た目通りの、小心者だったか。希望を託した者がこれでは、先に逝った彼らも浮かばれないでしょうね。

 一割にも満たない同情を、冷めた心で潰して、今にも命乞いをしてきそうな勢いの震に銃口を向ける。彼は地面を濡らしながら目だけは異常に輝かせて、そのまま飛び掛ってくると思いきや――

「ひ、ひひひいいいぃぃぃぃ――」

 脱兎の勢いで最初に隠れていたコンテナの間に逃げ込もうとする。私は、その背中に向かって一発、弾丸を撃ち込んだ。しかし、少しばかり遅く、震を見失った弾丸はコンテナに弾かれ、跳弾となって奥へと飛んでいった。

「ちっ!」

 コンテナの間を縫って、最短ルートで逃げる気か。小太りの癖に、中々すばしっこい奴だ。

 ともあれ、ここで見失ってしまったら元も子もない。私は後を追って駆け出そうとし――様子が面妖しい事に気付き、足を止めた。

「ひ、ひぃ! た、助け――ギャ」

 震の短い悲鳴を最後に、聞くに耐えない音が中から響いてくる。軋む骨が折れたような音。何かを溶かすような音。死に掛けの、人間の息遣い。その何れもが聞こえなくなった途端――不明の現場から何か、燻した竹で作ったような人形が放られた。

「…………うっ!!」

 顔を覗き見てしまった事を後悔した。大きめの、特徴のある顔が付いたそれは、ミイラのように干乾びた震の、哀れな姿だった。

 だけれど、そんな姿は早々に消し飛んでしまった。震だったものからは、僅かに花の匂いが漂ってきていたのだから――

「……出てきなさい!」

 私は不安を押し殺して、コンテナの隙間にいる誰かに対し、声を張り上げる。私の声に応えるかのように、砂を蹴るような音が聞こえ、それは段々と近づいてくる。やがて、ぼやけていた輪郭が露になり、月明かりに容姿が映し出された。鈴那の髪をそのまま金髪にしたようなロング・ヘアに白いスーツ姿、同じく白い仮面で顔を隠した――面妖に過ぎる者だった。

「あーあ。折角、強い力を与えてあげたのに、もう壊れちゃった。やっぱり、デークは駄目ねぇ」

 震だったものをつま先で蹴りながら、仮面はくぐもった声で楽しそうに笑った。女――しかも、フォーマルなスーツにそぐわない、幼い声だ。藁を刈るような音だけが、過剰なまでに耳に響く。

 仮面の女は、ひたすらに足元のミイラの頭を蹴り続ける。それには、一切の容赦も感じられない。まるで、道端の小石でも蹴るかのように。

 削りだされた屑が、次々と地面に落ちる。首の半分が削り取られ――とうとう、木材をへし折った音が、コンテナに反響して木霊した。艶の欠片もない粗製濫造のカツラを着けた、趣味の悪い人形の頭が、私の足元に転がってくる。

 昔、ドキュメンタリーで観た、敵軍の兵士の頭をサッカーボールにして遊ぶ光景を思い出した私は、身体の震えをひた隠しながら、仮面の女に鋭い視線を向けた。

「あー、丁度良いね。折角だから、それでサッカーでもして遊ぶ?」

「……っ!」

 童謡でも歌うような調子で言う仮面の女に私は、より強い恐怖感を覚えずにはいられなかった。まともじゃない……数え切れないまでに人を殺してきた私も大概だけれど、この女は異常に過ぎる。高い塀と有刺電線に囲まれていた病院に閉じ込めていた患者が脱走した――いえ、それ以上の危険人物。

 だけれど、そこまで判断しながらも、私は、この女について測りかねていた。身体から溢れ出る気配に、悪意が全く感じられない。かといって、純粋という訳でもない。悪戯好きな子どもの、邪な感情だけが、そこに存在していた。こんな人間は、今までにも見た事がない。

「……遠慮しておくわ。それよりも、貴女は一体、何者?」

 じゃあ、これはもう、いらないね――と、私の質問には答えずに仮面の女は、片手で首なしのミイラを掴んで、そのまま後ろに放り投げた。すると、視線の先で、信じられない事が起こった。空中で静止したミイラが足の先から分解されて瞬く間に、吹いた風に連れられていった。足元に目を向ければ、頭が転がっていた場所にはもう、その痕跡さえ、残ってはいなかった。

「それにぃ……私が何者かなんて、麟ちゃんが一番、良く知ってる事だと思うけどぉ?」

「何ですって……」

 仮面の女を見る私の目は最早、睥睨へいげいを通り越して睚眦がいさいに等しかった。私をそんな風に呼ぶ子は、ひとりしかいない。だけれど、その子はもう、この世の何処にもいない。だから、目の前のこいつは、私の知らない誰か、だ。

「……私の知り合いには、貴女のようなイカれた人間なんて、いないはずなのだけれどね」

「そぉ? でも――この匂い、懐かしいでしょう。激しいお仕事の後は、この花の香水をベッドに振りかけて、朝までふたりで楽しんだじゃない」

 仮面の女が一歩、二歩と、近づくと、花の匂いが一層、強くなった。今や、噎せ返る程の、早熟の果実にも似た匂いに私は、軽く眩暈めまいを覚える。二度と嗅ぎたくはなかった、睡と惑いの花。私の、大好きで……大嫌いな――睡蓮の芳。

「――お前は、誰だ」

 私は、辛うじて声を絞り出した。気を抜けばすぐにでも爆発してしまいそうな感情を、頼りない木の蓋で押さえて――

「お前だなんて、まあ酷い。私は、あのデーク達が言っていたところの『ボス』なのだけど、そんな事はどうでも良いね。 ――私の名前は、吉原燐菜よしはらりんな。年は十七歳でぇ、麟ちゃんのパートナーです♪ まだ八年しか経ってないと思ったけど、もう忘れちゃったの?」

 何が可笑しいのか、鈴鳴りの声で、くすくすと、笑う目の前の“燐菜”に、私の全身の血液は、一瞬で沸き立った。ずっと、奥底に閉じ込めて、蓋をしておいたものが止め処なく噴出して、溶岩のように理性を溶かす。精神の激動に対応して、脳がアドレナリンを過剰に分泌させる。今にも張り裂けそうな心臓がビートを強く刻み、激昂した心を累乗の勢いで奮い立たせていく。

「その声で! その匂いで! 貴様如きが、私と燐菜の想い出を穢すなアアアァァァァ――ッ!!」

 気付けば私は、蒸気カタパルトから射出された戦闘機のように、野獣の勢いで“燐菜”に飛び掛かり、憎悪と怒気の全てを込めた拳を、したり顔の仮面に突き刺していた――

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