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第三話 麟那の休日

 

 

 

「――きて。麟那姉さん起きて!」

「んん……」

「起きてってば! 今日、一緒にお買い物行く約束でしょっ?」

 ああ、そういえば、そんな約束もしていたっけ。でも、まだ、すごく眠い。

「んむゃ……あとりょっぴゃっぴゅん……」

「言えてないし、それ五時間だよね!? ああもう! また毛布被っちゃったしぃ!」

「本当に、まだ眠いのよ……。九時間で良いから、寝させて」

「麟那姉さんは謙虚だなー、あこがれちゃうなー」

 それほどでもない。

「――なんて、思うわけないでしょっ! む~、いいよ! 起きないなら、こうしちゃうもん!!」

 ……はっ! これは、鈴那式ダブルニードロップの構え!

「ふっ――」

「てやー」と迫る鈴那を、ひらり、と回避。たとえ、ベッドとはいえ、思い切り跳ねれば反動も大きい。哀れ妹は、両膝を打ち付けて涙目に。

「ったぁ……なんで避けるの~」

「寝起きにそれをもらうのは、さすがに御免よ。でも、まぁ……貴女のおかげで、完全に目が覚めたわ。ありがとね」

 目尻に涙を溜めて私を見上げている鈴那の額に、軽くキスをしてやる。それだけで、ベッドの上に満面の花が咲いた。泣いた烏がなんとやら――本当に分かりやすい子。

「おはよっ、麟那姉さん!」

「おはよう鈴那。ところで、何でまた、こんな時間に起こしたの? 今はまだ、パチンコ屋くらいしか開いていないわよ?」

「……ん。コレ、よく見てね」

 鈴那が鼻先に付き付けてきた目覚まし時計を、目脂だらけの目で見る。短針は、『ⅸ』と『ⅹ』の間を。長針は丁度、『ⅵ』を指している。パチンコ屋が開店するよりも、一時間も遅い起床だった。

 デパートが開店するまで後、三十分。妹が叩き起こしに来るのも、当然という訳ね。

「ごめんなさいね。今から支度するから、朝ご飯もらえる?」

「う~ん……それはいいんだけどぉ、材料ないから、ご飯とお味噌汁とお漬物くらいしか出せないよ?」

 それは辛い。せめて卵がないと、りきが入らない。

 しかし、一週間前に買ってもらったはずなのに、もうないなんて……帰りに食材を買わなければ。

「なら、珈琲だけで良いわ」

「は~い! あっ、麟那姉さん。二度寝なんてしてたら、ひどいからねっ?」

「はいはい。もう起きましたよー」

 頭を掻きながら、半開きの扉からこちらを見ている鈴那を、手の甲を振って追い出す。

 あのまま、好きにさせておいたら、着替え時でも遠慮なしに覗いてくる。あの子は、そういう子だ。

 軽くシャワーを浴びて部屋に戻り、今日着ていく服を下着姿のまま、吟味する。ファッションは嫌いじゃないけれど、妹ほど明るくもないから、申し訳程度に広がるパニエと、生成アンティーク・ホワイトの丸衿フリルブラウスに、黒の、オーバーフットレングスのジャンパースカートを選んだ。ナチュラルメイク程度に化粧をして、十字架モチーフのピアスと、ほんの少しのアクセントに深い紫のストールを首に巻く。

 髪をひとつに束ね、前で垂らして完成。色気とは全くの無縁だけれど、愛用の日傘と組み合わせれば、相応にミステリアスな女を演出できている、と思う。

 居間に行くと案の定、鈴那に「うえー」って言われたので、コツン、と小突いてやる。まったく……失礼な子ね。

 濃い目に淹れられた珈琲を一息に飲み、身体をも覚醒させて、さぁ行きましょう――



 外に出ると、すぐさま強い日差しが、身体中に熱を伝わらせてきた。紫外線は、肌の天敵――早速、自慢の日傘を差す。遮光率99.98パーセント、UVカット率99.7パーセントにかかっては、燃え盛る星からの光も形無しだ。

「鈴那も入る?」

「鈴はSPFたっか~い、PA+++の日焼け止め塗ってきたから、大丈夫だよ~。それにしても、麟那姉さんってそんな、ジミーな服ばっかりだよねぇ」

 誰がジミーか。

「たまには、可愛いのとか着たりしないの~?」

 茶化すように聞いてくる鈴那の格好は、シアンの生地に花柄のキャミソールの上からピンクのポシェットを提げていて、レモンイエローのプリーツ・スカートと、同じ色のハイソックスにスニーカーに、いつも通りのポニーテールにまとめた黒髪を、ハイビスカスのヘアクリップで飾って、全体的に爽やかに纏めている。

 モノトーンな私とは対照的に、まるで「冷たいお飲み物をどうぞ」と言わんばかりの、南国のジュースそのもの――唇のグロスも相まって鈴那を、普段よりも可愛く、幼く見せていた。

「私は、これで良いのよ。あまり、目立ちたくもないし、ね」

「麟那姉さんは、お仕事がアレだもんねぇ。でも一着くらいは、可愛いの持っておいたほうがいいよ~?」

「あら、どうして?」

「ん~。喬司さんが喜ぶかもしれないじゃん」

「……」

 どうして、そこで喬司の名前が出てくるのか。彼とは、あくまでも、ビジネスの関係に過ぎない。 ……たまには、身体のお付き合いも、しているけれど。

 でも、気分転換したい時のために、一着くらいは持っておくのも一興かもしれない。

「そうね、考えておく。ところで鈴那」

「ん? なぁに?」

「そのハイビスカス、何かの拍子に光ったりする?」

「え、なにそれ~?」

「……いえ。なんでもないわ」

 ネタのつもりで、つい、口にしてしまったけれど、お馬鹿にも程がある。

 まだ十六歳の、しかも箱入り同然に育ててきた妹が、ギャンブルのネタなんて知っているはずもないでしょうに――



 ――三十分程歩いた私達は今、県内有数の老舗デパート『朱鳳百貨店』の六階に来ていた。

 この階はレディス・ファッション専門のフロアで、鈴那の行きつけの店も、ここに入っている。

「あれ? 麟那姉さんは行かないの~?」

「私は、特に用事もないから、ここで待っているわ」

 残念そうな顔を隠さない鈴那から手渡された財布に、一万円札を五枚、入れて返す。

「ほら、これで好きな服を買ってらっしゃい。お釣りは、貴女のお小遣い」

「は~い♪ じゃあ、行ってくるねぇ~」

 行ってらっしゃい――と、笑顔で答えて、最寄の自販機でスポーツドリンクを買い、隣に日傘を引っ掛けてベンチに座る。

 今日はマニキュアもしていない清貧な爪でプルタブを開けて、色で表すと、急激に不味そうに思えてしまう――灰色に濁った液体を飲みつつ私は、行き交う人の流れに目を向ける。

 駄々を捏ねる子どもを宥めながら、手を引く親。姦しくしながら通り過ぎていく、女ふたり。先の二人組とは真逆に、朗らかに会話を交わしながら歩き行く、夫婦者らしき老人の組――

 美醜、老若問わず。皆、それぞれに、何かしら目的を持って、生きているのだろう。私は、超能力者の類じゃないから、その目的とやらまでは分からないけれど、非常に興味深い事柄ではある。


 ――まさか、こんな所に殺し屋稼業の女がいるなんて……露ほども知らず、でしょうね。


 ああ、可笑しい。自嘲と理解していながらも、内心は止まらない。

 その気になれば、このビルを、壮大かつ空虚な棺桶に変える事など、イヌイットの保存食――キビヤックを完食するよりも容易い。何のメリットもないし、狂っているわけでもないから、実行はしないけれど。

 それでも、心の中は大分、たぎっていたらしく、収まりが着くまで脳内に展開したゲームで遊ぶ事にする。

 気楽に始めたゲームに何時の間にか夢中になってしまっていて、目の前に女の子が立っているのに気付いたのは、トリの殺戮兵器が発狂弾幕をばら撒き始めた時だった。

「あら、迷子になっちゃったの?」

 とりあえずは、当たり障りもなく話しかけてみる。

 たとえ子どもが相手でも、決して気は緩めない。“和”のみならず“蟒”に“耶麻”――その他、下位組織に到るまで、子どもに暗殺術を仕込むのは極々普通の慣わし。この子が、いずれかの組織が放った刺客でない保証は、どこにもない。

「……おねえちゃん、だいじょうぶ?」

 六、七歳くらいだろうか。どこまでも純真な瞳を向け、たどたどしい言葉遣いで、その子は言ってきた。子どもの精神を、甘く見てはいけない。一部の先天的要因を除いて、すべからく子どもは、感受性が強い。だからこそ、子どもは、“子ども足り得る”のだから。

 私は、ふっ、と笑いかけた。断定はできないまでも、この子が刺客の可能性は、限りなく低いだろう。結論に達した判断材料も、十分に足りている。

「心配してくれているの? ありがとうね。これ、あげる」

 派手な柄の袋に入った飴を、女の子の手に握らせてあげる。

「あめだま……もらっても、いいの?」

「うん。舐めるとしゅわしゅわーって、美味しいよ」

「わあ……ありがとう、おねえちゃん」

 ――可愛い笑顔を、ぱぁ、と咲かせた女の子は、「またね」と手を振りながら、すぐ後に来た母親らしき人に連れられていった。あの子は将来、中々器量の良い子になりそうだ。

 謎の余韻を堪能しつつ、ぼーっとしていると、買い物を終えた鈴那の姿が視界に入った。五万円も渡したのだから、紙袋の三つや四つは手に提げてくるだろう――と思っていたのだけれど、意外にも、たったの二袋だった。

「お待たせ、麟那姉さん!」

「おかえり。今回は、あまり買わなかったのね。欲しいものが沢山あるんじゃなかったの?」

「うん。一番欲しいものは売り切れてたし、一袋で済ませちゃった」

「一袋? じゃあ、そっちのそれは?」

 左手に持っている紙袋を指すと鈴那は、「にへらー」としか、表現できない顔をして見せた。この子が、こんな顔を見せる時は十中八九、ロクな事を考えていない。

「にへへ~。こっちはぁ、ひ・み・つ♪」

「……まぁ、お小遣いなんだから何を買おうと、貴女の勝手だけれどね」

 嫌な予感しかしないけれど、私さえ巻き込まなければ、何でも良い。

 ふと、腕時計に視線を向ければ、今は十一時半。まだ、一時間も経っていないと思っていたけれど、時間の流れは存外に早かった。

「それじゃあ、お昼にしましょうか。鈴那は、何を食べたい?」

「う~ん。たまには、ハンバーガーが食べたいから、コッテリアがいい!」

 ハンバーガー、か。そういえば、ファストフードも食べなくなって久しい。

 コッテリアよりノスバーガーのほうが好きだけれど、ここにノスは入っていないから、コッテリアで我慢しましょう。

「分かったわ。コッテリアは、一階だったかしら」

「うんうん。そういえば今、コッテリアでおっきなキャンペーンやってて、ノスやマケドナレドよりも安く食べれるみたいだよ~」

「――ほほぅ?」



 名前に反して、コッテリアのハンバーガーは、意外とあっさりした味付けだった。

 国産ではないにしても、良い肉を使い、野菜もケチらないで、ふんだんに使っている。おかげで、小腹を満たす程度には堪能できた。

「はー。やっぱりノスには劣るけれど、中々の味だったわね」

「麟那姉さんは食べすぎ。周りの人、みぃ~んな白い目で、こっちを見てたよ~?」

 店を出てすぐ、鈴那にジト目で見られてしまった。

 失礼な。高々、テリヤキバーガーとチーズバーガーを四個ずつ食べただけでしょうに。

「聞こえなーい。次はどこに行く?」

 再び外に出たところで日傘を開き、鈴那の頭上にかざしてやる。

 元から体力に乏しいこの子が、こんなに熱気の篭った場所にいられる時間は長くない。別な場所で買い物をするにしても、どこかでまた一度、休ませないといけない。

「んーとぉ……とりあえず買うものは買ったし、鈴はもういいかな」

「そう。じゃあ――」

 食材を買って、帰りましょうか――そう繋げようとした、その時だった。特徴のある、暢気な口調の声が背後から聞こえてきたのは――

「あれぇ。もしかして、この間のお客さん?」

 つい最近に聞いたその声に私は振り返り、即座に首を戻したくなった。道行く人が眉をひそめながら、そそくさと通り過ぎていくのも当たり前な、ジプシーあるいはアラビアンをアレンジした格好の少女――に見える女がそこにいた。

 私の知り合いに、こんな奴はいない。人違いだろう――と、思いたいのだけれど、目立つ八重歯の人懐っこい顔と、紅芋色の髪は見間違えようもない。

「確か……“キリ”だったかしら。今日はまた随分と、エキセントリックかつメランコリックで、ファンタジックな格好をしているのねぇ」

「麟那姉さん。意味わかんないよ、それ……」

 私も、そう思う。

 でも、“キリ”はあまり気にしていないみたいで、興味深そうな視線を只々、鈴那に向けていた。

「そそ。あなたは確か、麟那だったね。先日はご利用いただき、ありがとうございましたーっ! ところで、そっちの子は、どこの誰さん?」

「この子は、私の妹よ。ほら鈴那、挨拶をしなさい」

「う、うん……」

 そう言って前に押し出してみても、鈴那は挙動不審に目をキョロキョロさせるだけで、“キリ”の顔は見ようともしない。この子の考えは時折、私の経験や知識に及ばない所がある。もっとも、この場合は、単なる人見知りなのでしょうけれど。

 そうこうしているうちに“キリ”のほうから、落ち着かせるように両手で鈴那の手を取り、緩やかに上下させてきた。

「鈴那って言うんだ。ボクは麟那の知り合いだから、安心していいよ。よろしくね、鈴那ちゃん!」

 自分の事を『ボク』と呼ぶ“キリ”は、こう見えても、二十歳を過ぎているらしい。本人も、「実はボク、オトナなんだー」なんて言っていたから、真実なんだろう。

「あ、うん……鈴那です。こちらこそ、よろしくお願い、しま、す……」

「――っ! 鈴那!」

 前のめりに倒れそうになる鈴那の身体を抱きとめる。失敗った――話に夢中になって、日傘を降ろしていた事に気付かなかった。

 人見知りの態度を鈴那が見せたのは、“キリ”を警戒していた訳じゃなく、既に具合を悪くしていたからだった。そんな、重大な変化に気付けないなんて、“姉”が聞いて呆れる。


 ――とりあえず今は、早くこの子を介抱しないと。


「これは、あまり良くないね。ここから五分くらいの所にボクの家があるんだけど、そこまで歩けそう?」

 眉をひそめながら“キリ”が差し出してくれた冷えたペットボトルを、鈴那の額にあてる。焼け石に水だろうけれど、それでも何もしないよりは、ずっと良い。

 この近くには公園もないし、ここにいては、周りに迷惑が掛かってしまう。彼女の好意に甘えることにした。

「鈴那。少しだけ、歩ける?」

 顔を近づけて話しかけると鈴那は、焦点の定まっていない目を私に向けて弱々しく、コクリ、と頷いた。お願い――と、“キリ”に日傘とバッグ、鈴那の荷物を持ってもらい、不安定な足取りの鈴那を支えながらゆっくりと、その手を引く。

「それじゃ、案内するね。ボクの家は、裏通りにあるから、ここよりは涼しいと思うよ」

 無粋な視線を向けてくる輩には取り合わずに、こちらのペースに合わせた“キリ”の先導で、私達は裏通りへと向かう。

 少しずつ、でも確実に、歩を進める途中で私は、“キリ”から不思議な香りが漂ってきている事に気付いた。鼻にまとわりつく感じの香りだけれど、香水――パルファムの類じゃない。この、どこか煙たい感覚は……お香、か。

「貴女。何か香りを、身に着けているの?」

「ああ、これ? 加密列カモミールのお香だよ。煙たかったら、ごめんねー」

 なるほど。それなら、悪くはない。加密列の芳香には、心を落ち着かせる作用がある。根本的な解決にはならないにしても、その清純な香りは、鈴那に良い影響を与えるはず。

 更に三分ほど歩いて、趣のある家屋の前で“キリ”は立ち止まった。

「ここだよ。表はお店になっているんだけど、今は重要じゃないね。客間にお布団敷いてあげるから、遠慮しないで上がって。ただいまーっ」

 帰宅の挨拶をした――という事は、他に誰か住んでいるのかしら。

「お邪魔します」

 聞いてみようか一瞬だけ迷ったけれど、私は口を噤んで鈴那のスニーカーを脱がせた。自分の、アンクルストラップ型のパンプスと一緒に揃えて“キリ”の家に上がる。彼女の家は、外観に相違ない純和風で、四方から古木の香りが、微かに感じられた。

 麻地のヴェールが間近に見えるところまで歩くと、既に布団は敷かれていた。私は鈴那を抱きかかえ、真綿の上に降ろすように身体を横たえた。

「冷たくしたタオル、持ってきてあげるね」

「ええ。ありがとう」

 ついでに着替えてくるよ――と、“キリ”は手元に扇子を置いて、更に奥へと歩いていった。

 縁側から涼しい風が入ってきて、火照った身体を冷やしていく。ここは、表通りから一、二本外れただけなのにとても静か。まるで、同じ空間にいながら、別の世界に迷い込んだ感覚に囚われる。

「はぁ……ごめんね、麟那姉さん。せっかくのお買い物、台無しにしちゃって……」

 眉先を、へにゃりと、ハの字にさせて言う鈴那は、未だ視界は揺れているようなものの、はっきりとした口調ではあった。

 玉汗が浮かぶその額を、木綿のハンカチーフで、軽く拭ってやる。

「気にしないで。気付けなかった私も悪いのだし。――でも、確認だけはさせてね」

「えっ――」

 鈴那が何か言う前に私は、正面に回りこみ、両足首を軽く手で押さえる。一緒に持ってきたバッグから、袋を破って取り出した滅菌済のラテックス手袋を見ると、鈴那は顔を赤くして、身体を左右に捩りだした。

「ちょっ、麟那姉さん! よそのお家でなんて……」

「これは必要な事なんだから、嫌がっている場合じゃないでしょう? こら、暴れないで大人しくしていなさい」

 強めに言うと鈴那は、観念したように、両手で顔を覆った。私は、鈴那のスカートをたくし上げて下着を降ろし、診察する医者のごとく事務的に、手袋をはめた手で、そこに触れる。

 性転換手術で形成されたそこは、極めて炎症を起こしやすい。今回もそれが原因かと思ったのだけれど、真菌、その他が原因の炎症は、認められなかった。使用済の手袋はビニール袋に入れてバッグに突っ込み、元の位置に座り直す。

「うん。ただの熱射病みたい。良かったわね、鈴那」

「うっ、うっ……麟那姉さんの、ばかぁ……」

 他人の家でそこを見られる、その恥ずかしさに、鈴那は泣き出してしまった。この子の身体を想っての行為とはいえ、さすがに心が痛む。

「ああ、泣かないで。良い子良い子」

 小さい子どもをあやすように鈴那の頭を、何度も撫でてやる。始めは、すんすんと、鼻を鳴らしていたけれど、“キリ”が私服姿で戻ってきた時には、可愛らしい寝息になっていた。

「はい、タオル持ってきたよ。鈴那ちゃんの具合は、どう?」

「ありがとう、“キリ”。大分、良くなったと思うわ」

 顔色も良くなってきた鈴那の額に冷たいタオルを乗せて、起こさないように“キリ”は、音もなく立ち上がった。

「良かった。よく眠ってるみたいだし、ちょっと居間に行こっか。麦茶でも飲もうよ」

 ふたつ返事で廊下に出て、“キリ”の後に続いた。だけれど、後ろから聞こえてきた、もし幽霊が声を出せるとしたら、と思う程にか細い声に私と“キリ”は、同じタイミングで、足を止めさせられた――

「鍵莉。お客さま……?」

 猫手で背中を撫でられる感覚に、思わず振り返る。真っ先に目に飛び込んできたのは、白磁にナチュラルホワイトのファンデーションを塗りつけたかのように透き通った肌。ネグリジェに見える、長い薄着で、身体を覆っている。鈴那のそれよりも長い髪は、服と同じシアンと、そこにシルバーの粉を混ぜ合わせたような、不思議な色合いをしている。すぐ隣のイルリガートル台に掛けられた点滴用のバッグから伸びるチューブは、病的に細い左腕と繋がっていた。

「ただいま、いりあ。この人はボクの友達だよ」

「麟那といいます。まだ、友達と言えるような仲じゃないけれど、知り合いではあるわ。よろしくね」

 会釈の程度に頭を下げながら、私は内心、戸惑っていた。

 個体差はあっても、生物であれば、気配を感じられるもの。でもこの、いりあという女からは、僅かな気配しか感じられない。人間味も希薄で、まるでロボットか何かを相手にしている感覚が雫となって、背中を伝い落ちる。

「……蓮の、香りがします」

 ぽつりと、漏らすように。

「――っ」

 その一言に私は、弾かれるように顔を上げた。けれど、もういりあは、私達に背を向けていた。

 病人のような姿が完全に見えなくなると、私の中で再燃しようとしていたものは、次第に燻り、冷静を取り戻すと共に鎮まる。

 まさか、あんな事を言われるなんて、思ってもいなかった。“キリ”がこの場にいなければ私は間違いなく、いりあに飛び掛っていただろう。

「あーあ。いりあが上から降りてくるなんて、滅多にないんだけどねー」

「ちょっと、変わった人みたいね。貴女の名前は鍵莉で、あの人は貴女のお姉さんなの?」

「うん。本当は、居間で話すつもりだったんだけど、ボクの本名、というか便宜上の名前は、鍵莉きいりで合ってる。でも、ボクたちは姉妹じゃない。いりあは先の世代だから広義で言えば、お姉ちゃんかもしれないけどね」

 世代……一般的な人間の営みに対して使われる言葉じゃない。一体、どういう事なのか――私は、いりあの痩せ細った身体と、点滴の後が痛ましい左腕。飾り付けられたような色の髪と、光に乏しい硝子の瞳を思い出し、そして、自らも携わった過去の経験から、結論に到る。

「そう……貴女達はあの、“BD計画ボトムドール・プロジェクト”の生き残りなのね……」

 悲しく呟くと、鍵莉は空笑いをして小さく頷いた。



「粗茶ですが、どうぞー」

「あ、お構いなく」

 懐かしい形の卓袱台を挟み、部屋に入ってくる風を楽しみながら、麦茶を飲む。

 麦茶に粗茶も何もない、と思う。でもそれが、鍵莉の気遣いだって分かったから、私もこうして、笑みを浮かべる事ができる。そして、鍵莉から話を切り出してくれた事も、私にとっては救いだった。

「ふぅ……さっき、麟那が言った通りだよ。ボクといりあは、“BD計画”の生き残りで――といっても、ボクは第五世代の候補で、仲間と共謀して逃げ出したから、誰かに売られたりする事もなかった。でも、いりあは……」

「――第四世代。それも、極上のぎょくだったと、聞いているわ」

「……うん」

 鍵莉は、長い睫毛を伏せて、麦茶の入ったコップを手に取った――


 愛玩用生体人形製造計画――通称“BD計画”は、どれだけ精巧に作ろうとも、人形は人形でしかない事実に嘆き、後に狂った者達が、戸籍を抹消された幼子や、十代の娘を『人形』に仕立て上げる。その後、クライアントの希望に応じ、調整して売却する――悪魔の計画。

 組織在籍中に、上司から見せてもらった報告書によれば、この計画は初期のうちに、頓挫するはずだった。単純に、強力な薬を用いて、人間性を剥奪させた第一世代は、投薬に耐え切れずに全員が死亡。続く第二世代は、薬の量を減らし、代わりに、催眠術による洗脳を施すも、それは、『人形』と呼べる程の代物ではなく、計画は最初から、暗雲の中だった。

 だけれど、その計画を知った裏世界の科学者や、医者が参入してから、状況は一変した。『外が駄目なら、内から変えれば良い』――と、提案した、解剖学に明るい、とある医者の提案により、プロトタイプ扱いの第三世代で数多の死体を生み出した末に、最も綺麗で価値が高かったらしい、第四世代が誕生させられる。

 第四世代は、投薬を必要最低限に抑え、生きるのに必要不可欠な臓器以外を外科手術で切除し、徹底して人間性を取り払った、“腑抜け”の人間達。文字通りの全てを、主人に管理され、マニュアル通りに取り扱えば、専用の状態維持液と、栄養液のおかげで、その美貌は、迎えた時のまま変わらない。最も低いグレードでも、一億は下らなかった、と言われている。

 鍵莉達が当てはめられるはずだった、第五世代については、詳しい事は、何も分からない。連中が、第五世代の『製造』を始めようとした時に、事実を知った総理――光々峰ひかりがみね泰章やすあきの逆鱗に触れ、公式に依頼を受けた“和”と“蟒”が、完膚なきまでに、叩き潰したからだ。裏組織の二強が共闘した、稀少例でもあった。

 総理の怒りは、凄まじい、の一言で、期待の新人ルーキーとして部隊に参加していた私は、あまりの凄惨さに、十八にして失禁しそうになったのを、よく覚えている。秘密研究所にいた関係者は皆殺し。投降してきた者も裁判を受ける事なく、フジノミヤの施設で、公開処刑された。怒りの矛先は当然、クライアントにも向けられ、存命中の全員が、無期懲役の実刑判決を受けた。特に、秘密裏に購入していた官僚ふたりの処遇は、酸鼻を極め、着の身着のままに、ひとりはギアナ高地、もうひとりは南極ボストーク基地への特別派遣員として、それぞれ、四十四年の懲罰勤務を命じられた、という話だった。


「――いりあは、第四世代の中でも変質的なまでに、“人形性”を高めさせられた。それは、クライアントですら恐怖を覚える美貌と身体を持ち、彼女の所有者は数度変わり、そして三人目の所有者が散々、粗末に扱った挙句、彼女をゴミ捨て場に捨てて逃げた。――私が知っているのは、ここまで……」

 話し終えると、一息吐いて私は、麦茶で喉を潤した。

「だろうね。そこから先、ボク達は、隠れるように暮らしていたから……。捨てられたいりあを猶人――ボク達の保護者になってくれた人――が助けてくれて、後でボクもふたりと知り合って、猶人の家で、一緒に暮らすようになってね。それでも、順風満帆とは行かなかったけど、猶人の後見人だった女医さんのおかげで、人並みには、幸せな日々を送れてたんだ」

 彼女達の保護者――連条猶人れんじょうなおとについては、物心が付いた時には既に親を亡くしていて以降、後見人から援助を受けて生活していた、当時高校生くらいにしか覚えがない。けれど、その後見人については、十分過ぎる程に知っている。

 佐伯真彩さえきまや――人工臓器と、人工血液の権威として名を馳せながらも、決して表舞台には姿を見せない、影のような医者。“和”の同胞にも、佐伯製の人工臓器のお世話になった者が、少なからずいたから。

「……」

 私は、鍵莉の服を見る。取り立てて語るべき箇所も見当たらない、丈が短いオレンジのワンピースと、黒のスパッツ姿。でも、戸籍を抹消されたこの子達にとっては、こんな普通の服でさえ、着られるまでに時間が掛かったのだと思う。それまでは、薄汚れたものを我慢して着回して、汚泥に塗れながら、生きて、生きて、生き抜いてきたのでしょうね――

「その、猶人という人は、今はどうしているの?」

「猶人は、六年前の交通事故が原因で……最期に、いりあを助けて、天国に逝っちゃった。今の、いりあの身体の中にある人工臓器のほとんどは、猶人の臓器が素になってるんだよ」

「そう……」

 佐伯真彩は今でも、このふたりに関わっているのだろう、主にいりあの主治医として。でも、私の見立てだと彼女……いりあは――

「――」

 私は、開きかけていた口を、一文字にした。私が、それを伝えた所で、何かが変わるとも思えない。

 このふたりの、冷静な態度を見るに、前々から告知されていた可能性が高いし、余計な事は言わないほうが良い。

「麦茶、美味しいね」

「……ええ」

 鍵莉に相槌を打ち、無言で麦茶を飲む。障子を鳴らす風だけが、その存在を主張しているようだった。

 麦茶のお代わりを淹れようと、ポットに手を伸ばす。

「……?」

 垣間見た鍵莉の目は、奇妙な色合いをしていた。あれは、好奇の視線だ。いりあが呟いた、あの一言について語れと、存外に言っている。

 でも、卑怯だと分かっていても、おいそれと話すわけにはいかない。視線を遮るように、腕時計を見る。四時半――炊事を理由に切り上げるには、丁度良い時間だった。

「貴女が聞きたいのも分かるから、そのうち話してあげる。そろそろ、お暇させてもらうわ」

「……うん、分かった。今度は絶対、聞かせてもらうからねー」

 鍵莉は、それ以上、追究してこなかった。意外といえば意外だけれど、話しにくいという事は、分かっているのかもしれない。

 ――揃って鈴那を迎えにいくと、何時の間に来ていたのか、眠っている鈴那の隣に、いりあが座っていて、感情の読めない目で、鈴那の顔を見ていた。

「様子を見にきたら、タオルが、温くなっていましたので、代わりに私の手を、当てていました。よく、眠っていますので、お静かに」

 その言葉通りに、彼女の右手は、鈴那の額に当てられていた。鍵莉が説明してくれたけれど、いりあの身体は、普段からとっても冷たく、扇風機に当たるよりは、いりあの近くにいたほうが涼しいらしい。なるほど……さっきの寒気は、これが原因、か。

 ともあれ、これだけの事をしてもらっておいて、礼のひとつも渡さずには、帰れない。私は、メモ用紙に自分の携帯電話の番号を書いて、鍵莉に手渡す。

「色々とお世話になった、一先ずのお礼よ。ふたりとも、何かあったら、いつでも掛けてきなさい。また後で、菓子折りでも持ってくるわ」

 鈴那を起こさないようにおんぶをして、バッグと紙袋を手渡してもらう。廊下を出る前に、一度振り返ると私は、ニヤリと笑って――

「まぁ、その紙切れより重いお菓子は、桜餅くらいしか、用意できないけれどね」

 いりあに対する、ささやかな仕返し。この意図に、ふたりは気付いてくれるかしら。

 ごきげんよう――と、目を真ん丸にしているふたりに背を向けた私は、鈴那の靴をビニール袋で包んで紙袋に入れ、今は“人間”として生きるふたりの家を後にした。

13/09/07

第一次添削加筆 完了

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