沈まざる月 ~駆逐艦『涼月』~
昭和二十年四月五日、夜。瀬戸内海、柱島泊地。
この日、日本海軍の中枢である同地では一つの艦隊が密かに出撃の準備を進めていた。
第一遊撃部隊――それが、その艦隊に与えられた名前だった。第二艦隊独立旗艦、戦艦『大和』を中核とし、軽巡洋艦『矢矧』率いる第二水雷戦隊を加えた、総勢十隻の艦隊である。
その中の一隻、駆逐艦『涼月』は、日暮れ頃から始まった給油作業を終え、ようやく一息ついたところだった。
駆逐艦『涼月』は昭和十七年から続々と竣工しだした秋月型駆逐艦の三番艦で、基準排水量は二千七百トン。全長一三二メートル、全幅十一メートルと、他の駆逐艦より一回り大きい艦体に、対空射撃に優れる六五口径十センチ高角砲を八門装備する、防空用の駆逐艦だ。
月明かりの中に浮かぶ『涼月』の艦影は、駆逐艦とは思えぬほど端正で、遠目には巡洋艦のように見える。実際、艦の前後に砲塔を二基ずつ配した艦容は巡洋艦的であり、前線で秋月型を目にした敵の潜水艦は、しばしば小型軽巡洋艦の『夕張』と誤認していた。
各種の作業を終えた艦内では、乗組員たちが消灯までの一時を思い思いに過ごしている。日中は休む間も無く課業に追われる彼らにとって、この時間は貴重な自由時間である。特に今夜は、艦長から出撃前の無礼講の命令が出されている事もあり、各分隊で賑やかな酒盛りが催されていた。
そんな中、新任の明石拓海少尉はどの分隊の酒宴にも参加せず、一人錨甲板に立って暗い海を見つめていた。
少尉の階級を持ってはいるが、明石は海軍の士官養成機関である海軍兵学校の出身ではない。彼はもともと、東京の大学に通う学生だった。それが学徒動員によって海軍に入隊し、そこで少尉に任官して『涼月』に配属されたのである。
灯火管制の敷かれた海はひっそりと静まり返り、べた凪の海面がどこまでも続いている。その光景を見つめて佇む明石の耳に、玲瓏な声が響いた。
「艦内はどこもお祭り騒ぎよ。あんたは参加しなくていいの?」
背後から聞こえた声に、明石は振り返る。そして、声の主に向かって答えた。
「知ってるだろ。俺は下戸なんだよ」
「まったく。とんだ軟弱者ね」
明石の返事を聞いた相手は、肩を落として溜息をついた。呆れを浮かべたその顔を、雲間から覗く月輪が照らした。
それは、美しい少女だった。歳は十代の中頃。整った顔立ちの中に、気の強そうな瞳が光っている。体格は小柄だが、決してか弱い印象は受けなかった。
「この世で最後の杯になるかもしれないのに、そんな理由で断るなんて。それだから、波の無い瀬戸内でも船酔いするのよ」
「酒に弱いのと船酔いは関係ないだろ」
「根性が無いって言ってるの。気合いが足りないからそうなるんだわ」
明石と同じ紺色の士官用軍服に身を包んだ少女は、遠慮会釈の無い口調で言う。明石は眉を寄せて不快の意思を示すが、少女は気にかける様子も無く明石に杯を差し出す。
「ほら。注いであげるから、一杯飲みなさい」
どこからか取り出した一升瓶を手に、少女が言う。
「どこから持ってきたんだよ、その酒……」
「ここに来る途中で早くも酔い潰れてる連中がいたから、まだ開けてない瓶を一つ貰ってきたのよ」
答えた少女は、明石の眼前にぐいと杯を突き出す。彼を見据える瞳は、無言の内に「飲め」と言っている。
「……分かった。一杯だけな」
観念した様子で溜息をつき、明石は杯を受け取る。少女は満足したような表情を見せ、酒を注ぐ。
まったく異様な光景であった。
軍艦は、男だけの世界である。本来、そこに女性の姿は無い。ましてや、二十歳にも満たない乙女が乗っている事など有り得なかった。
しかし、実際に『涼月』の甲板には軍服を身につけた少女の姿がある。彼女が正規の乗組員でないとしたら、一体何者なのか。
その答えは、一言だ。艦魂――それが彼女を説明する、全ての言葉だ。
艦魂とは、古くから船乗りの間に語り継がれてきた伝説の一つである。
「板子一枚下は地獄」と諺にある通り、大自然を相手とする船乗りは古くから危険の多い職業と認知されてきた。特に、まともな船の無かった近代以前は、船乗りは文字通り命を賭けた稼業だった。
そうした環境のため、船乗りたちは陸の職に就く者に比べて迷信深く、縁起を担ぐ事が多い。この傾向は古今東西を問わずに見られ、無論、日本においても例外では無い。そして、それらの言い伝えの中に艦魂の伝説がある。
艦魂とは、読んで字の如く、船の魂である。
全ての船には一隻ずつに固有の人格があり、航海の安全を司っている。艦魂は船の種類や大小に関わらず、あらゆる船に宿り、船と共に一生を終える。その姿は通常、常人の目に映ることは無い。
しかし、ごく稀に、その存在を認識する事ができる者がいる。そして、彼らの言によれば、艦魂は皆、例外無く若い女性の姿をしているとされた。
月光の下で明石の杯に酒を注ぐ少女。彼女こそ、秋月型駆逐艦三番艦『涼月』の艦魂、涼月であった。そして、明石は艦魂が見える、数少ない特殊な人間だった。
「どう? 新潟の一級酒らしいんだけど」
尋ねる涼月に、明石は喉を押さえて答える。
「……やっぱり不味い」
「あんたねぇ……。言うに事欠いて、それ? わざわざ注いでもらって、言い方ってものがあるでしょ?」
呆れた、と涼月は呟く。
「だから俺は下戸だって言ってるだろ? それに、例え酒が飲めたとしても、この状況じゃ答えは同じさ。あんな馬鹿な作戦に付き合わされる事になって、気持ちよく酒を飲んでなんかいられるかよ」
不満げな口調で、明石は吐き捨てるように言う。それを聞いた涼月の眉が、ぴくりと上がった。
「馬鹿な作戦……? それ、菊水作戦のこと?」
尋ねる涼月は、鋭い視線を明石に向ける。しかし、明石はそれを意に介さない様子で答える。
「他に何があるんだよ。航空機の援護も無しに、たった十隻の艦隊で沖縄の米艦隊に殴り込む。これが無謀じゃなかったら何なんだ? 制空権を持たない艦隊が突撃したところで、敵機の餌食になるだけだ」
彼の主張は正論であった。そして、それは今回の作戦が抱える問題そのものだった。
菊水作戦は、米軍の沖縄上陸を受けて日本軍が発動した作戦である。その内容を端的に表すならば、特攻――陸海軍の総力を挙げた大規模特攻だ。
四月一日、嘉手納に上陸した米軍は瞬く間に軍を進め、二つの飛行場を手中に収めた。飛行場を押さえられてしまっては、反撃もままならない。そのため、大本営は一発逆転の作戦に打って出た。
それが菊水作戦である。陸海軍の航空機による特攻に呼応して、戦艦『大和』以下の海上特攻隊が米艦隊に殴り込みをかけ、これを撃滅する。その後、浜辺に乗り上げた『大和』の援護射撃を受けながら、現地守備隊が総攻撃を仕掛けて飛行場を奪還するというものだ。
まさに回天の作戦。敵が沖縄攻略のために集結したところを逆手に取り、これを一気に殲滅する。沖縄を脅かす米軍艦船はことごとく海の藻屑と化し、補給路を絶たれた敵兵は成す術も無く敗れ去るのだ。
完璧な作戦である――事が全てこの通りに運べば、だが。
この作戦は、根本的な問題を抱えていた。それは、作戦内容と現実の乖離である。
沖縄には二十隻に迫る米空母が展開している。それにも関わらず、海上特攻隊には一機の護衛戦闘機もあてられていない。練習機までが特攻に使われる中、艦隊の護衛に割く戦闘機など無いという事だった。しかし、これでは艦隊は猛烈な空襲に曝される事になり、沖縄到着以前に全滅するのは目に見えていた。
問題は海上特攻だけではない。航空機による特攻や、守備隊の総攻撃にしたところで、目論見通りの戦果を挙げられる可能性は極めて低い。作戦はそれらを全て無視しており、不都合が生じた時の事を考えていなかった。
そのような無謀な作戦に対して、明石が反発を覚えるのは至極当然のことだった。しかし、彼と向かい合う少女はそうではなかった。
「だからどうしたって言うのよ。私たちは帝国海軍軍人よ。国のために命を捧げるのは当然じゃない。それとも、あんたは沖縄が――日本の国土が、敵に踏み荒らされていくのを黙って見ているつもりなの?」
「そんなわけ無いだろ。俺だって、沖縄を見捨てるつもりは無い。ただ、もっと他に方法があるだろ。成功の見込みが無い作戦を実行して、大勢の兵士をむざむざ死なせる必要は無いはずだ」
「成功するかどうかは問題じゃない。出撃する事に意味があるのよ。今や私たちは、帝国海軍に残された最後の艦隊。その私たちが、沖縄の危機に立ち上がらなくてどうするの? 成算が無いことくらい、私も知ってる。けど、このまま内地にいても、敵の手に落ちて晒し者にされるだけ。そんな屈辱を受けるくらいなら、いっそ死に花を咲かせて海軍の威信を守り、国のために散るべきだわ」
「待て、それじゃただの感情論だ。今のお前の話だと、国や海軍の面子のために何千人もの人間が死ぬことになるぞ」
気炎を揚げる涼月を、明石が宥めにかかる。しかし、彼女の語勢は衰える事なく、むしろ一層加熱した。
「それでいいじゃない。国のため、陛下のために死ぬ。死ぬのに、それ以外の理由がいるの?」
「いるに決まってるだろ。国と君主のために命を捧げる。それはいい。けど、それだけじゃ駄目だ。自分の犠牲は何を生むのか。それはどこに繋がるのか。自分の命を散らす意味――それが必要なんだ」
互いに一歩も譲らず、二人の議論は平行線を辿る。いくら話しても意見の合わない明石に対し、涼月は苛立った声を上げた。
「あんたの言ってることは全て屁理屈。下らない詭弁よ。本当は、死ぬのが怖いだけ。だから理屈をこねて逃げようとしてる。これだから学徒出身の連中は! 所詮、あんたら学徒組は口先だけよ。命を捨てる覚悟の無い、臆病者だわ!」
判決を下す閻王のように、涼月は明石を指さして断言する。しかし、その言葉は明石にとって聞き流す事のできないものだった。
「……待てよ、涼月。今のは聞き捨てならないぞ」
明石の声が一段低くなり、少女を睨む。彼の纏う雰囲気が変わった事に若干戸惑いながらも、涼月は「何よ」と言い返す。
「確かに、俺は酒にも船にも弱い。お前の言う通りの軟弱者だ。だがな。海軍に入った時から命を投げ出す覚悟はできてる。他の学徒出身の奴らだってそうだ。断じて、死ぬのが怖い臆病者じゃない」
「……ふん。口なら何だって言えるわよ。今回の作戦を嫌がっているくせに!」
「それは、ここが死ぬべき場所じゃないからだ。俺の犠牲が何かを生むなら、喜んで命を差し出すさ。だが、この作戦は何も生み出さない。ただ死にに行くだけだ。俺は、そんな所で命を捨てるつもりは無い」
明石は声を荒げているわけでも、凄んでいるわけでもない。しかし、淡々と語るその姿はえも言われぬ迫力があり、涼月は咄嗟に言葉を返すことができなかった。
沈黙する涼月を見た明石は、もう話すことは無いと言わんばかりに歩き出す。その足音で我に返った涼月は、慌てて声を上げた。
「待ちなさい! まだ話は……」
涼月は去りゆく背中に向かって叫ぶが、相手の足が止まることはない。しかし、次の瞬間、明石は突然その場に倒れた。
「ちょっと!?」
予期せぬ事態に驚きの声を上げながら、涼月は明石に駆け寄る。急いで彼の体を抱き起こした涼月だったが、その顔を覗き込んだ途端、彼女は深い溜息をついた。
「寝てる……」
仰向けになった明石は、熟睡した様子で寝息を立てていた。涼月が飲ませた酒は、たった一杯。その一杯の酒で彼は酔っぱらい、眠り込んだのだった。
「本当に酒に弱いのね……」
すっかり気の抜けた涼月の呆れ声が、波音の間に響いた。
翌日。徳山湾に仮泊した第一遊撃部隊は、午後三時二十分、遂に出撃した。目指すは沖縄。生還を期さない、決死の船出である。
当初、第一遊撃部隊の各艦には片道分の燃料しか搭載されない予定だった。しかし、軍令部のとある参謀が呉鎮守府に対し、何としてでも往復に足りる燃料を用意するよう要請。鎮守府は帳簿に記されていない燃料を掻き集め、全艦が往復できるだけの燃料を揃えてくれた。
出港後、部隊の指揮を執る伊藤整一中将は、第二艦隊司令長官の名をもって麾下の艦に次の訓辞を与えた。
――神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替繋リテ此ノ一戦存ス。各員奮戦敢闘会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ――
時は満ちた。日本の命運はこの一戦に懸かっている。それぞれ死力を尽くして敵を倒し、海上特攻隊としての役目を果たせ――このような趣旨の訓辞が、艦長の口を通して各艦の乗組員に伝えられた。『涼月』からは、『大和』の兵士が甲板に集まり、故郷の方角を向いて別れの言葉を叫んでいる様子が望遠できた。
決死の覚悟を抱いて出撃した日本艦隊だが、彼らの動きは出撃直後から敵に察知された。豊後水道を通過中、第一遊撃部隊を発見した敵潜水艦が『大和』の出撃を報じたのだ。豊後水道は日本の内海である。そのような所にまで敵の潜水艦が楽々と忍び込める事実が、日本の現状を物語っていた。
『大和』の出撃を知った以上、敵は全力で彼女を沈めにかかるだろう。敵の無電を傍受した将兵は、明日は戦死と心を固めた。
そして、彼らは運命の四月七日を迎えるのである。
その日は朝から雲量十の曇り空だった。一面に広がった灰色の雲が低く垂れ込め、空を覆っている。雨こそ降っていないものの、天候は不安定だった。
「こっちとしては、このまま荒れてくれると嬉しいんだけどな」
艦橋の窓から空を見上げながら、明石が言う。窓からは、『涼月』の右前方を航行する『大和』の巨大な艦体がよく見えた。
世界最大の四十六センチ砲を装備する『大和』の艦体は、射撃時の安定性を確保するために横幅が非常に広くなっている。なんでも、縦横の長さの比率は船よりも艀に近いらしい。高速発揮のために細長いシルエットを持つ『涼月』を比べると、まるでタライのようだ。
しかし、そのような極端な艦型であるにも関わらず、城郭に似た艦橋を聳えさせ、無数の砲を掲げる『大和』は、他を寄せ付けない圧倒的な威容を誇っている。それは、戦艦という兵器の究極を極めたものが持つ、独特の雰囲気だった。
「そう都合良くいかないわ。降っても小雨程度よ」
「分かるのか?」
隣で口を開いた涼月に明石が問う。
「ただの勘よ。けど、艦魂は人間よりもずっと感覚が鋭いから、信用に値すると思うわ」
それよりも、と涼月は明石を横目で見る。
「一昨日はあんなに言ってたのに。随分と大人しいじゃない」
「俺も軍人としての分はわきまえてるつもりだ。一度決まった命令には従う。あとは如何にして生き残るかだ」
「ここは『死ぬべき場所じゃない』ものね」
涼月は小馬鹿にした様子で明石の言葉を引用する。しかし、明石は至って真面目な口調でそれに答える。
「ここが死ぬべき場所じゃないのは俺だけじゃない。お前もだ、涼月」
「え?」
怪訝な表情をする涼月に、明石は噛んで含めるように言い聞かせる。
「遅かれ早かれ、戦争はもうじき終わる。恐らく、日本の敗北で。だが、本当の問題はそれからだ。各地に派遣された兵士を復員しようにも、日本の商船はほとんどが敵に沈められている。それを補うために、生き残った軍艦が必要なんだ」
「要するに、輸送船の代わりが欲しいわけなのね」
話を聞いた涼月は、嘲笑気味に言う。頷いた明石は、「でも」と言葉を継ぐ。
「俺は、純粋にお前に生き延びてもらいたいとも思っている。戦後がどうとかじゃなく、ただ生きてほしいと」
涼月の瞳を正面から見据え、明石は言う。涼月は一瞬、何かを言いかけ、それを押し込めるように目を伏せた。
「……そう。けど、この作戦がどんなものかは知ってるでしょ。私は、ここで死ぬ覚悟よ」
「安心しろ。俺は応急修理担当の内務科だ。死んでもお前を沈めさせやしない。お前がどんな覚悟でいようが、生き残らせてやる」
「まったく……とんだ奴に乗り組まれたものだわ。あんた、よくしつこいって言われるでしょ」
「そのくらいでなきゃ、大学で研究はできねえよ」
「ほんと、ああ言えばこう言うわね」
「学徒兵は頭でっかちだからな。口だけは達者だぜ」
口の減らない明石に、涼月は苦笑する。その時、『涼月』のマストに装備された対空電探が接近する無数の機影を捉えた。
「電探に感あり! 敵大編隊、南方より接近中! 機数、百以上!」
電探室からの報告が伝声管を通じて届けられる。間髪をいれず、双眼鏡を覗く見張員の声が響く。
「『大和』より信号! 針路百度、速力二四ノットとなせ、です!」
「針路百度、第三船速! 機関室全速即時待機!」
艦長の号令と共に速力指示器の針が動き、機関室に指示を伝える。艦長は続けて艦内スピーカーのマイクを手に取り、声を張り上げた。
「総員配置に就け。対空戦闘用意!」
戦闘ラッパが鳴り響き、昼食を終えたばかりの兵士たちがそれぞれの持ち場へと走る。伝声管から「準備よし」の報告が続々と入り、五分と経たずに二百六十人を超す全ての乗組員が配置に就く。それから十分後――見張員の上擦った声が張り詰めた緊張を引き裂いた。
「敵機! 左二十度、距離五十! グラマンです!」
「正面に別の編隊! 『大和』に向かう!」
「右舷後方にも敵機! 雷撃体勢に入る!」
最初の報告が届くや否や、堰を切ったように次々と報告が入る。それを聞いた明石は苦い顔で舌打ちした。
「囲まれたか……厄介だな」
「ええ。でも、それだけじゃない。敵が近すぎる。これじゃ照準が間に合わないわ」
「この天気のせいだな」
憎々しげに言い、明石が窓の外を仰ぐ。
「雲量十、天気は小雨。有効視界は十キロ以下……。雲に隠れて相手の懐に飛び込める。敵にとっては、最高の攻撃環境だ」
「全部撃ち落とせばいいだけよ」
そう言って艦橋を出ようとする涼月に明石が聞く。
「どこ行くんだ?」
「甲板よ。艦魂である私が意識を集中すれば、射撃の精度も上がる。そのためには、少しでも視界が広い方がいいわ」
答えると、涼月はすぐに外へ飛び出す。瞬く内に視界から消えた背中に、明石は呟いた。
「気をつけろよ、涼月……」
第一遊撃部隊と敵第一次攻撃隊の戦闘は、熾烈を極めた。
戦闘開始時点で日本側は駆逐艦『朝霜』が機関故障を起こして戦列を落伍し、総勢九隻に戦力を減じていた。対する米軍は三百機近い艦載機を第一次攻撃隊として発艦させ、第一遊撃部隊に差し向けた。
「敵艦爆、右四十度から急速接近中!」
「主砲照準急げ!」
雲の間から躍り出た敵爆撃機へ、『涼月』の艦首に搭載された二基の十センチ連装高角砲が砲身を向ける。背負い式の二番砲塔の上に立つ涼月は、群青色に塗装された機体をきつく睨み据えた。
「あんたたちに邪魔はさせない……こんな所でやられるわけには、いかないのよ」
低く呟き、涼月は腰に差した軍刀を抜く。磨き抜かれた刀身が、灰色の空を映して鈍色の光を放つ。
彼我の距離は刻一刻と縮まっていく。それが必中の間合いとなった時、涼月は裂帛の掛け声と共に刀を振るった。
「はあぁっ!!」
少女の声が響くと同時に、天を震わす轟音が『涼月』の艦上を駆け抜ける。『涼月』の高角砲が射撃を開始したのだ。
火山の噴火を思わせる砲炎と共に撃ち出された砲弾は、音速の三倍近い速度で敵機に向かう。そして、発射後あらかじめ設定された時間に達した瞬間、一斉に炸裂した。
遮蔽物の無い洋上に、突如として四つの爆発が起こる。十機からなる編隊は正面からそれに突っ込み、爆風と弾片の洗礼を浴びた。
煙を曳き、数機の敵機が海に落ちる。しかし、残る敵機は依然として前進を続ける。それを見た涼月は「このっ……」と怒気をあらわにする。
「しぶとい奴らね! さっさと全部落ちなさいよ!」
涼月が刀を振るうたび、毎分十九発の発射速度を誇る高角砲が砲哮する。猛烈な射撃を受けてさらに一、二機が墜落したが、時速数百キロで飛行する目標を完全に捉えることは難しく、五機の敵機が『涼月』の上空に到達した。
機関銃の唸りに重ねるようにして、敵機の風切り音が鳴る。必死に敵機を狙う機銃手の視線の先で、敵機が爆弾を投下した。
くぐもった爆発音を立てて『涼月』の周囲に水柱が上がる。水柱の数は五本。命中弾は無いようだった。それでも艦の間近で発生した爆発の衝撃は凄まじく、『涼月』は大地震さながらの揺れに見舞われる。
「くっ……」
滝のような海水を頭から浴びながら、涼月は揺れに堪える。その衝撃が収まるより早く、次の刺客が現れる。
「左舷後方より敵艦爆! 機数四!」
「右舷より雷撃機接近、魚雷投下! 雷跡三、近づいてくる!」
右舷から迫る魚雷を取舵で避けながら『涼月』は対空砲火を撃ち上げる。回頭中のため狙いが定まらない射撃は敵を捉えることなく、水柱が再び艦を囲む。
「『浜風』轟沈!」
「『大和』被弾、火災発生!」
「『矢矧』右舷に魚雷命中、速力低下!」
壮烈な対空戦闘の中に見張員の悲痛な叫びが響く。その一々に心惑わされそうになるのを堪えながら、涼月は敵機と戦い続ける。
死闘続くこと三十分。敵の第一次空襲はようやく終わりを告げた。
この戦闘で味方は駆逐艦『浜風』が沈没し、軽巡洋艦『矢矧』が機関室に被雷し航行不能に陥った。『大和』も爆弾と魚雷を受けていたが、流石は世界最強を誇る戦艦だけあり、戦闘に支障は無い様子だった。
『涼月』は多数の至近弾を記録していたが、直撃弾は一発も無かった。ボイラーは全罐稼働、射撃系統も無傷だった。
「ひとまず、凌いだわね……」
額に浮かんだ汗を拭いながら、涼月は息をつく。攻撃がこれで終わるとは到底思えないが、涼月は一度目の空襲を乗り切ったことに安堵を覚えていた。
そして、その気の緩みが致命的な隙を生むことになった。
「右舷正横に敵機! 爆弾投下!」
「なっ――!?」
見張員の絶叫に、涼月は弾かれたように振り返る。そこには、たった今爆弾を切り離した敵機の姿があった。
艦長は咄嗟に前進一杯、取舵一杯を命じるが、時すでに遅い。投下された爆弾は吸い寄せられるように『涼月』に向かい、艦橋の下に命中した。
耳を聾する轟音と共に、激震が『涼月』を襲う。艦橋で戦闘の経過を見守っていた明石は、鋼鉄製の床に強く叩きつけられた。
「被害報告!」
艦長の怒鳴り声が真鍮製の伝声管を震わす。数瞬の間を置いて返ってきた答えは、まさしく絶望的なものだった。
「二番砲塔付近に爆弾命中、火災発生! 艦首および第一罐室に浸水中!」
「何だと!?」
予想を上回る被害に、艦長も色を失う。砲塔付近の火災は弾薬庫に引火する危険があり、罐室への浸水は艦の動力を奪いかねない一大事だ。どちらの被害にも早急に対処せねばならなかった。
「応急作業急げ! 弾薬庫の誘爆を防ぎ、浸水を極限しろ!」
艦長の言葉に、明石は表情を引き締める。応急作業――彼が所属する内務科の出番が訪れたのだ。
直属の上官である内務長の指示に従い、明石は数人の兵を連れて艦首区画の防水に走る。しかし、勢い込んで飛び出した明石は、艦橋の外へ出た途端に思わず足を止めた。
「うっ……」
口に手を当て、明石は一歩あとずさる。後を追ってきた部下たちも立ち止まり、一様に呻き声を漏らした。
それは、世にも凄惨な光景だった。
爆発によって右側を大きく抉られた艦首は、もはや艦首としての用をなさない状態にあった。一番、二番砲塔も大破し、砲身をあさっての方角に向けている。そして、甲板では爆発に巻き込まれた兵士が全身に火傷を負い、あるいは四肢の一部を失って、苦悶にのたうっていた。
「少尉」
自分より一回りほど年上の下士官に呼びかけられ、明石は我に返る。「行くぞ」と声をかけ、明石は地獄絵図の中に足を踏み入れた。
助けを求める声を振り切って、一行は道を急ぐ。同じ釜の飯を食った仲間を見捨てて進むのは胸が痛んだが、急がなければ全員が同じ運命を辿るおそれがあった。
部下に発破をかけながら走る明石。しかし、二番砲塔の側を横切った瞬間、彼は雷に打たれたように立ち止まった。
「涼月っ!?」
声を上げた明石は、そのままその場にしゃがみ込む。そして、砲塔の基部に倒れている少女を抱き起こした。
「しっかりしろ、涼月!」
「う……」
肩を揺さぶられた涼月は、小さく呻くと瞼を震わし、ゆっくりと目を開いた。
「気がついたか」
「私……」
呟いた涼月は、顔を歪めて呻きをこぼす。自らの腕の中に収まる少女を見下ろした明石は、悲痛な表情を浮かべた。
少女の体は、深い傷に覆われていた。体の至る所に鋭利な刃物で切られたような傷があり、軍服の裂け目からは血が脈を打って溢れ出ている。右の腕は骨が砕けている様子で、とても動かせそうにない。
中でも酷いのは、右下腹部に刻まれた突き傷だった。槍で突いたような傷は少女の体に大きな口を開け、致命的な量の血を吐き出していた。
「酷い怪我だ。どうして、こんな……」
「……そういえば、あんたには……まだ、話してなかったわね」
悲痛に顔を歪める明石を見上げ、涼月がおもむろに口を開く。苦しげに息を継ぎながら、彼女は言葉を続けた。
「艦魂は、艦と一心同体……艦が受けた傷は、艦魂にも反映されるのよ」
「何だって……!?」
涼月の告白に、明石は顔を青ざめさせた。
「それじゃ、この傷は――」
「……そう。全部、さっきの被弾で受けた傷よ。右舷に直撃したから、右半身に深手を負って……高角砲がやられたから、腕が使えなくなったわ。出血は、浸水が続いてるせい……人間が血を失えば死ぬように、浮力を失えば、船は沈むから……」
「治せないのか?」
「私に手当てをしても無意味よ。艦魂の傷は、艦の損傷そのもの……艦本体の傷を塞がないと」
「なら、俺に任せろ」
自信に満ちた表情を浮かべ、明石が言う。
「内務長の命令で、これから艦首区画の防水に行くところだ。浸水を止めて、お前の傷も治してやるよ」
「艦首の……?」
「なあ、涼月。この艦はお前と一心同体なんだよな。だったら、浸水の状況は分からないか? それが掴めれば、効率的に処置ができる」
尋ねる明石に、涼月は小さく頷く。
「ええ、分かるわ……。一番罐室は満水。けど、艦尾方向にそれ以上の浸水は無いわ。問題は……艦首ね。勝負は一番弾薬庫よ。ここが持てば、他の区画が浸水しても辛うじて持ち堪えられるけど……もし失われれば、艦は艦首から沈むことになるわ。……でも、だめ! だめよ、弾薬庫へ行くのは!」
答えた涼月は、しかし、明石の腕を掴んで制止した。
「確かに、一番弾薬庫を守れば、浮力は保てる。でも、今の浸水速度だと脱出が間に合わない。弾薬庫の防水処理を成功させても、その頃には周囲の区画は全て浸水してしまう。周りを海水に囲まれて、生き埋めになるわ!」
「そんなの、大した問題じゃないさ」
「どうして!? 死ぬのよ、死んじゃうのよ! あんた、出撃前に命を捨てるつもりはないって言ってたじゃない! ここは死ぬべき場所じゃないって!」
「……確かに、そんなことも言ってたな」
涼月の言葉に、明石は静かに答える。そして、穏やかな表情のまま、柔らかな微笑を涼月に向けた。
「けど、俺はあの時こうも言った。自分の犠牲が何かを生むなら、俺は喜んで命を差し出す、ってな」
「……っ!!」
言葉を失う涼月に、明石は優しく語りかける。
「今でも俺は、この作戦自体は何も生まないと思ってる。でも……この応急作業は、そうじゃない。弾薬庫を浸水から守ることは、この艦の乗員数百名の命を救うことに繋がる。もちろん、涼月、お前を助けることにも……。それだけの人を救えるのなら、例え死んでも本望さ」
「……無理よ。できっこない。私には分かる。絶対に失敗するわ」
涼月は反論するが、その声は先ほどとは打って変わって弱々しい。そんな彼女の様子を見た明石は、笑みをこぼして彼女の頭を撫でた。
「心配するな。俺は死なない。無事に防水作業を終えて、戻ってくるさ」
かぶりを振る涼月を砲塔によりかからせ、明石は立ち上がる。
「少尉! 何をしてるんですか、早く!」
「ああ、分かっている!」
部下の声に答えた明石は、最後にもう一度、涼月を見た。彼女の瞳は、「やめて」と訴えていた。
「大丈夫。すぐに帰る」
短く言い残し、明石は部下の後を追う。その背中に、涼月のはち切れんばかりの声が響いた。
「待って! 行かないで! ……拓海っ!」
涼月の叫びも空しく、明石は彼女の視界から姿を消す。途端に静けさを増した艦上で、涼月は呆けたように虚空を見つめた。
『涼月』の艦橋に艦首区画の浸水停止の報告が入り、同時に明石少尉以下数名が行方不明になったと伝えられたのは、それから数十分後のことだった。
「……本当はね、ああなることは分かっていたわ」
穏やかな調子で、涼月は口を開いた。
「あなたが浸水を止めに行けば、成功すること。そして……あなたが戦死することも」
昭和二十三年。かつての駆逐艦『涼月』は、福岡県若松港にその艦影を浮かべていた。終戦から三年が経ち、日本は徐々に、しかし確実に復興の度合いを重ねていた。
あの日、戦艦『大和』の護衛として菊水作戦に参加した『涼月』は爆撃を受けて艦首を大破し、沈没の危機に瀕した。しかし、懸命の応急作業により最悪の事態を免れた『涼月』は、深手を負いながらもどうにか佐世保へ帰投することができた。
在泊艦艇の乗組員が帽子を振って歓迎したのも束の間、浮標に繋留された『涼月』は力尽きたように艦首から沈み出し、急ぎ佐世保工廠のドックに入れられた。そして、そこで行われた調査により、被害の全貌が明らかになった。
爆弾が直撃した艦首区画は予想通り浸水が激しく、無事な区画はほとんど無かった。乗組員は自らの配置に就いて浸水を止めようとする姿のまま戦死しており、改めて戦闘の激しさを感じさせた。
その中でとりわけ関係者を驚かせたのは、一番弾薬庫の状況であった。浸水著しい艦首区画にあって、一番弾薬庫だけは一滴の浸水も許さず、完全に防水を保っていた。
それもそのはずである。弾薬庫は内部から防水処理が施されており、大は水密扉から小は通気孔に至るまで、穴という穴が全て塞がれていたのだ。被害箇所の調査に当たった工廠の技師は、この防水作業が『涼月』を死の淵から救ったと語った。
艦の生命を守り抜いた三名の乗組員は、遺体となって発見された。外傷は無い。彼らは自分たちの脱出経路を塞いでまで弾薬庫を死守し、最後は酸欠によって命を落としたのである。姓名確認の結果、遺体の一人は『涼月』内務科の明石拓海少尉であることが確認された。
「あなたに死んでほしくないから、私はあなたを止めようとした。もちろん、その時は私が死んでいたけど……でも結局、あなたを止めることはできなかった」
彼女の言葉は、独白のようにも、そこにはいない誰かに語りかけているようにも聞こえた。
澱みの無い調子で、涼月は先を続ける。
「あなたは死んで、私は生き残った。あなたの命に、私は救われた。だから私も、この命を捧げるわ」
決然と述べた涼月は、自分と艦体を接して係留されている二隻の軍艦に目を向けた。『冬月』と『柳』――それが、かつて彼女たちに与えられていた名前だ。
「軍艦防波堤……駆逐艦の艦体に土砂を積めて錘にし、防波堤とする。洞海湾は波が強いから、丈夫な防波堤が必要らしいの。私は、その防波堤の一部としてこの港を守ることになったわ」
言葉を区切った涼月は、天を仰いで、晴れやかな笑みを浮かべた。
「あなたに貰ったこの命、永久にこの国に捧げる。だから見てて、拓海――」
昭和二十三年七月、駆逐艦『涼月』は上部構造物を解体後、軍艦防波堤の一部として若松港にその身を横たえた。艦体はのちにコンクリートで埋め立てられたが、『涼月』は今もなお、静かに港を見守り続けている――
読者の皆さんお久しぶりです。初めてご覧になる方は初めまして。石田零です。
約半年ぶりの投稿となる艦魂小説ですが、如何だったでしょうか。……とはいえ、あらすじにもあるように、本作は作者が所属する大学の文芸部誌に載せた作品を改題・改訂して投稿したものです。
何故そのような事をしたかと言うと、時期的にちょうど良かった(史実の作戦実施日と同じ)のもありますが、もう一つ……本来投稿しようと思っていた作品が間に合わなかったからでもあります。
活動予告で春先の投稿を予告しておきながら締切を破りかねない事態になり、急遽、大学の部誌に寄稿した艦魂作品を投稿した次第です。
本サイトでは初公開の作品とはいえ、お待ち頂いた読者の皆様には申し訳ありません。間に合わなかった作品も急ぎ完成させる所存ですので、もう暫くお待ちください。
……それでは、気を取り直して作品の解説をしたいと思います。
本作は「坊の岬沖海戦」――俗にいう戦艦『大和』の海上特攻を扱ったものです。ただし、主役は『大和』ではなく、護衛の駆逐艦『涼月』です。
本作の内容は、ほぼ史実に基づいて書かれています。登場人物は私の創作ですが、『涼月』が戦後に防波堤となった事などは事実です。もちろん、自らの命と引き換えに艦を救った三名の乗組員の存在も……。
なお、本編で海上特攻作戦の名称として使われている「菊水作戦」ですが、もう一つ「天一号作戦」という呼び方もあります。巷では両者が混同されていますが、公式資料には後者の名が記載されているため、「天一号作戦」が正しいと思われます。しかし、今回の作品ではそれを承知で「菊水作戦」の名称を使用しました。
というのも、『大和』の出撃は「天一号作戦」の一環ですが、陸海軍の大規模特攻は「菊水作戦」の内容であり、両者を使うと非常にややこしくなるのです。そのため、今回は『大和』の海上特攻も「菊水作戦」に統一しました。
ちなみに、軍艦防波堤の正式名称は、「響灘沈艦護岸」というらしいです。『涼月』と『冬月』の姿はコンクリートに覆われて今は見られませんが、共に防波堤となった『柳』は一部が露出していて見ることができます。訪れる機会は滅多にないでしょうが、もし近くを通る機会があれば足を運んでみてはいかがでしょうか。
最後に、拙作を読んで下さった読者の皆様に感謝を述べつつ、後書きを終わろうと思います。ご意見・ご感想もお待ちしております。