水杯
「皆のもの。杯は持ったか」
由紀子の掲げる杯には一杯の清涼な水が入っているのみ。酒の類ではない。
そして由紀子の言葉に返事するものはない。
魔王軍第一軍団。魔王親衛隊や騎士団を率いる将。『黒騎士』、デュラハン。
彼はあざけるように自らの頭を抱き直し、人間の定位置に戻す。
魔王軍第一軍団。水軍を率いる提督。『ゾンビマスター』。
彼もまた由紀子の言葉を無視した。ただ、彼の腐敗臭だけが部屋に充満していく。
由紀子と二人にはそれなりの関係があるが、それでも誇り高き騎士であるデュラハンと名提督ゾンビマスターは由紀子を知るがゆえに、彼女を無視した。
ウンディーネの意志を、力を人間の小娘ごときが継げるはずがないと。世事を知らぬ由紀子に、戦いなど出来るはずがないと。
それは彼らなりの不器用な思いやりでもあった。
一人の女性の視線が由紀子を射抜く。ウンディーネの妹。『ニンフ』。
ニンフは躊躇うことなく由紀子につかみかかった。
「貴女の所為っ! 貴女の所為でッ! 姉はッ 姉は『勇者』などに」
涙を流し、怒りと悲しみに任せて由紀子を激しく殴り続けるニンフ。
呆然と由紀子はニンフを見る。親友の面影のあるニンフを見る。
彼女の拳を受けながら、由紀子は遂にウンディーネの泣き顔を見た事が無い事実を再認識していた。
友達なのに。一回も泣いてくれなかった。一回も彼女の涙を支えることが出来なかったと。
「私は、武田彰子なる女ではない」
一度だけかつてのウンディーネはつぶやいた。
いつものふざけた言葉づかいではなく、切実で、悲しい一言。
『私は、私は。その娘の代用ではない』
そのとき、由紀子は黙って一杯のグラスを彼女に差し出した。彼女の誤解を解き、かけがえのない想いを共有するために。
「なんだこれは」「狂ったか」「血でも酒でも無い」
改めて差し出された杯の中身を確認して憤慨する二人。
ひとりは魔軍第一軍団。水軍提督ゾンビマスター。
腐った身体に反し、高潔な意思を持つ。
ひとりは魔軍第一軍団。魔王親衛隊隊長。黒騎士。
右手に剣を。左手に手に自らの首を持つ『デュラハン』の誇り高き騎士。
そして魔軍第一軍団。副官。
「『ニンゲン(人間)の下に、私達がつくと思っているの」
冷たい瞳で由紀子を射抜く。『水のウンディーネ』の妹。ニンフ。
由紀子は有無も言わせぬ強い意志を瞳に宿していた。
男たちは由紀子の並ならぬ決意を。悲壮で悲しいまでの決意を知った。
彼女はもう、かつての由紀子に戻ることはない。戻れないのだと。
「ニンフ。先代様の意図は私にはわからぬが、私はその意思に従う。人間の下にはつきたいとは思わぬがな」
「ゾンビマスターに同じく。だ。力なき人間の小娘ごとき。血袋にもならぬ」
それでも由紀子をあえて泣かせるような言葉を放つのは彼らなりの思いやりだ。
「魔将『水のウンディーネ』は涙を見せない」
動揺していることを悟ったニンフは由紀子を叱咤する。
「勘違いしないで。私程度に後ろを取られたという事実。私は貴女を信じてはいない」
「ところでこのふざけた趣向。『現在の水のウンディーネ』様の意図を聞きたいところですな」
「うむ」
「この水の入った杯。冗談にしてもくだらない」
ニンフの吐き捨てるような声。
「私の故郷では」
語りだした由紀子の身体を、三人の厳しい視線が射抜く。
「水は、血より、酒より、濃いと言うのです」
由紀子が吐いた妄言に三人は一斉に吹き出した。
「ただの水がかっ!?」
「人間の小娘は面白いなッ」
「続けなさい。小娘。返答次第では私の意志で。斬ります」
ニンフの冷たい声に、ゾンビマスターと黒騎士が続く。
「女なのに肉らしい肉も無い」
「血袋にするには、あまりにも貧相だ」
悪態をつき、少しでも思いとどまらそうとする。
この期に及んでも迷いを見せるのはらしくない。親友同士である二人はそう思う。
由紀子は見透かしたように笑って見せる。
先代なら。彼女ならわらっていたでしょうからと。
いつも、あの優しい笑みで笑っていたでしょうからと。
「この水は。血より。濃く。酒よりかぐわしく。肉より豊かだ」
先代『水のウンディーネ』が遺した剣。『霧雨』から生み出した水を掲げる。
「我ら。水杯をかわし、一つの血肉となる」
「……」
「……」
「……」
三人は一斉に黙りこむ。
「私を殺し、その血を呑むか。濃く香しく。豊かな『水』にするか」
由紀子は皆をしっかりと見据る。
「選んでください。この場で」
もうだめだな。私はついていくことにする。彼女に。瞼の腐った瞳を戦友に向けて彼はつぶやく。
「我らの絆は。水より濃い」
『水軍』提督ゾンビマスター。
精なる水を浴びれば、火傷を負うその呪われた身体でその水を口に含む。
その様子を見ていた二人。首のない男が肩をすくめる。彼の左手にぶら下げられた頭が、隣の女性に瞳を向ける。
「解ったわよ」
「すまんな」
ニンフは嫌そうにつぶやくと、デュラハンの口に水を灌ぐ。
じゅう。
聖なる水が死族である二人の舌を焼く。
二人の死族は毅然と魔族風の敬礼を由紀子に捧げ続けた。
「ここは退くわ。でも。隙あらばその首はないものと思いなさい」
そういってニンフは杯を口に含む。
はからずして、由紀子がかつてのウンディーネに伝えた言葉をニンフは知らずしてつぶやく。
「我らの絆は。水より濃い」
「『我らの絆は。水より濃い』か」
良い言葉だと二人の男は頷き合う。
「我らの絆は。水より濃い」
「我らの絆は。水より濃い」
「我らの絆は。水より濃いッ」
「我らの絆は。水より濃い!」「我らの絆は。水より濃いッ!」
魔王軍第一軍団はまだ滅んでいない。
友達が残した意思はまだ生き残ってる。
由紀子の胸に。皆の胸に。