エピソード でろ(ゼロ) 西尾 由紀子
西尾由紀子。
鳥取県立由良育英高校に通う女学生で、一九六七年『現在』二年生。
この時代の地方出身の少女達の例に漏れず、将来は見合い結婚か紡績工場での出稼ぎか。
貧乏華族の出身の母と豪農の末っ子である病弱な父との間に生まれ、娘が学校に行ってから弁当を作り出したり、殺虫剤を子供に撒こうとする米軍に猛抗議したり、貧乏の筈なのに健康になるからと何処からか手に入れてきた牛乳や山羊乳を子供に飲ませようとする母の奇行に振り回されつつも病身でありながら一人だけ高校に行かせてくれた父に感謝を忘れない少女。
彼女は彼女本人ですら就職した姉たちのように高校に通わず髪結い(理容師。散髪屋)の道を歩むかと思っていた。
ゆえに高校に通わせてくれることへの嬉しさと姉への引け目を持つ。
そう。この時代では良くあること。
余りにも一本道な、それゆえに安定した未来へのレールに乗る。皆が幸せに続く道と信じて。
由紀子もまた、そのレールに乗る一人のはずだった。
その日までは。
そう。その運命の日までは。
彼女は親友の武田彰子と神社の境内で遊んでいたところ、こともあろうに隠されていた古井戸の腐った板戸を踏み抜き、落下してしまった。
「たっちぃ! 助けてぇえっ??!」
自分でも嫌と思っている短い手足をバタバタする由紀子。彰子が由紀子を探し、夏の光り輝く境内を散策しているのだが、由紀子からすれば緊急事態であり、駆け寄ってきてほしいところである。
苔のついた古井戸はとっかかるところがなく由紀子は兄や弟たちほど泳ぎは得意ではない。彼女は今際の際にこう思った。
『ううう。こんな形でしんじゃうなんて。たっちぃに預けたフロフキ饅頭を食べてから死にたかった』
実 に 残 念 な 娘 で あ る 。
井戸の底は淡く、強く、黄金の光に輝き、まるで獲物を捕らえる肉食獣のように由紀子を包み込んでいく。その光が由紀子を音もなく完全に包み込んだとき、由紀子の身体はこの世界。1967年の鳥取県由良から消滅した。
青い青い空が広がり、爽やかな花の香りが周囲を包む。穏やかな風が白い雲を動かし、鳥たちが空を舞い、喜びの歌を歌う世界で。
青銅の剣を振るい、魔物に向けて剣を振る青年。
瀕死のまま取り囲まれて女たちに叩き殺される魔族の捕虜。
あるいは弄ばれ、殺される無辜の少女。
剣と血と無法と悪夢の中をヒトと魔族が戦っている。
相争う人と魔族。
空の上から、輝く光に包まれた一人の少女がゆっくりと降下していく。
剣を思わず止めた男は還らぬヒトになった。その様子を不審に思った魔族の老人は振り返った。
天から光り輝く何かが舞い降りてくるのを老人は見た。
それが人間の少女であったことは。魔族、人間双方の記録に残っている。
どっぽーん。
由紀子はせっかく溺死を免れたのに、やっぱり井戸に落ちた。彼女は水運に恵まれないらしい。